龍の声

龍の声は、天の声

「久遠の今」

2017-01-19 06:21:02 | 日本

住んだことの中に生活せず、「今」の中に生活せよ。

「今」は常に生きている。
「今」の中には、あらゆるものが輝いている。
「今」は常に輝いている。
「今」は常に喜びに満ち溢れている。
「今」と言うのがわかったら、これは本当の悟りである。

「今」と言うのは、過去・現在・未来と流れている時間の一部分の現在というところの「今」というのではない。
この「今」というのは、「久遠の今」ということである。
「永遠の今」である。
すべてのものが含まれている所の「今」ということである。

縦の線が「時間」、横の線が「空間」、そして縦と横の線が交差したところ、ここが丁度「今」にあたる。そして、時間と空間も現れていない、時間も空間もそこから現れるところの、その中心の無である。

「無」というと、何にもないのを「無」というのと考える人があるが、全然無いのではない。「無」というのは、その時間の中に、空間の中に、すべてのものが現象世界に現れているが、その時間、空間の元のところ、時間、空間がまだ現れない、その「常今」のところ、常に「今」であるところである。

ここは何も無いかというと、そうではない。時間、空間はあるけれども、まだ現れていない。時間、空間が一点に巻き収められて、まだその一点もない。しかし、すべてのものが、その中にある。これを「絶対無」という。これは有無相対の無ではない。「絶対無」である。対立がない。

この「絶対の無」をつき貫らぬいたところに、「実相」がある。その中に一切のものが含まれていて、どこにもかたよらない。
これを「未発の中」ともいう。

『喜怒哀楽、未だ発せざる、之を「中」といい、発して皆節にあたる、之を「和」という。』

「永遠の今」、「今・此処、吾れ」がまったく一つになってしまっている。その実相の「今」の、そこに私たちは生活するのである。

何月何日、どこの空間において生活する。そんなふうに生活しているのだったら、我々は、いろんな問題にひかかることになる。それは本当の「今」というところに生活していないで、ある時間の流れ、どこかの空間的存在において、誰がどうしたとか、未来がどうなるであろうか、そういうような「現在」というところで生活してしまっていて、「久遠の今」「実相の今」「発して節にあたるところの急所、急所にピシリと当たるところの「今」というところに生活していないから、それでいろいろと悩まなければならないことが起こってくる。
そして、持ち越し苦労とか、取り越し苦労とか、疑心暗鬼なんていう、いろいろなモヤモヤが出てきて、ノイローゼになってしまう。

それで、常に「吾れ、今、此処」という実相の中に、「未発の中」の中に座って、何にもつかまないで、時と人と場所とに応じて、ビシリ、ビシリと節にあたるということにすると、事々物々、間違いなく、何事も急所を押えて、間違えなく適当な処置がとれるということになる。

「今」の中には、あらゆるものが輝いている。
「今」は常に新しく、「今」は常に喜びに満たされている。
「今」ここに久遠の生命が、常に「今」、ここにあれば喜べるのが当たり前であるのである。
ここには一才のものがあるのである。

そういう「今」のいのちの中に生きていたならば、例え、肉体に病気が現れていても、そんなことはもう問題ではない。いのちそのものは、病気でもなんでもない。「今、此処、吾れ」は、あるのである。滾々(こんこん)と生命が流れ入ってきて、病気が治ってくるのである。

「今」というものは、過去、現在、・・・、 そんなデタラメな時間の流れでフラフラするような、そんな生活ではないのである。

こころの目が開いたならば、どこでも極楽浄土があるということがわかるのである。