西村真悟さんが掲載している「大陸の実態を認識することは死活的に重要だ」は誠に重要なことである。
以下、要約し記す。
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先に、朝鮮(北朝鮮と韓国)に関して、その対処の仕方を、福沢諭吉翁が明治十八年に公にした「脱亜論」に還って、その方針に基づいて行うべしと記した。
しかし、その「脱亜論」は、単に朝鮮だけではなく「支那と朝鮮」に関する論である。
つまり、我が国の隣にある支那・朝鮮という
「中華意識という自己陶酔に陥った地域」のことを一括して論じたものである。
(支那と朝鮮は)一より十に至るまで、外見の虚飾のみを事として、その実際においては、真理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を払うて、残刻不廉恥を極め、なお傲然として自省の念なき者の如し。
・・・その支那朝鮮に接する法も、隣国なるが故にとして特別の会釈に及ばす、まさに西洋人がこれに接する風に従って処分すべきのみ。
戦前も戦後の今日も、この福沢諭吉の認識と結論に従って国策を決定すべきであった。
そもそも、相手の本質と特性を観ないで「援助」してはならないのだ。
それは、その「援助」を決定した者が、自分の懐からその「援助(金)」を支払っておれば当然そうしたであろう。
しかし、この度の我が国からの数人の韓国人老売春婦の為の十億円の支払いも中共に対する数兆円の支払いも、総て、その支払いの決定をした者がその金を支払わないから、
同じ過ちを他人事のように繰り返してきたのだ。
そして、その過ちを繰り返した者は人事異動でどこかに行方をくらます。
しかし、過ちを改めるに、今からでも遅くはない。
脱亜論の前と後とに、期せずして顕れた正しい国策決定の指針とも言うべき、三人の論考を次ぎに掲げる。その三人とは、情報将校の草分け福島安正中佐(後、大将)、孫文らの目指した支那革命の支援者内田良平、そして文学者魯迅である。
百年前に彼らが言ったことは、現在にも通用する。
何故なら、支那と朝鮮は何も変わっていないからだ。
(1)福島安正中佐は、英仏独露支の五カ国語を自由に操り会話だけならさらに数カ国語を操った。
明治十二年、清国偵察を行い、十年後のドイツ駐在武官の後、シベリアを単騎横断して日本に帰着して欧州社会を驚かした。
彼は清国偵察の後、「隣邦兵備略」をまとめ次のように報告する。
清国の一大弱点は公然たる賄賂の流行であり、これが百害の根源をなしている。
しかし、清国人はそれを少しも反省していない。
上は皇帝、大臣より、下は一兵卒まで官品の横領、横流しを平然と行い、贈収賄をやらない者は一人もいない。
これは清国のみならず古来より一貫して変わらない歴代支那の不治の病である。
このような国は日本がともに手を取ってゆける相手ではありえない。
(2)内田良平は、支那の革命を目指して大陸を奔走し孫文らを物心両面で支援した。
しかし、多くの裏切りの中で支那社会の本質と特性を見抜いて、日本人の思い込みによる支那観の危険性に気付き、我が国の対支那政策が適切に行われるようにと祈念して大正二年に「支那観」を世に問うた。そのなかで次の通り言う。
金銭万能が支那の国民性の持病となっている。
堂々たる政治家を自任する者にして、美辞麗句とは裏腹に振る舞いは汚れ、彼らの心事が巷の守銭奴と何ら変わらないのは昔のままである。
支那人の金銭への執着には、水火も辞さないほど猛烈な勢いがある。
彼らは戦闘での卑怯な振る舞いとは裏腹に、弾丸雨飛のなかに飛び込み、死の危険を冒して戦死者の懐中を漁る。
加えて、支那人は食人族でもある。
支那人は詐欺を義務とさえ考えているようである。
(3)魯迅は、明治時代に日本に留学した支那人作家である。
彼は「狂人日記」の中で、支那人の食人に関して書き、その末尾を人間を食ったことのない「子供を救え」という悲痛な叫びで結んでいる。
四千年来、絶えず人間をくってきたところ、そこにおれも、なが年くらしてきたんだということが、今日やっとわかった。
兄貴が家を管理しているときに妹は死んだ。
やつがこっそり料理にまぜて、おれたちにも食わせなかったとはいえない。
おれは知らぬ間に、妹の肉を食わせられなかったとはいえん。
いま番がおれに廻ってきて・・・・・
四千年の食人の歴史をもつおれ。
はじめはわからなかったが、いまわかった。真実の人間の得がたさ。
人間を食ったことのない子供は、まだいるかしらん。
子供を救え・・・・・・ (一九一八年四月)