龍の声

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「太平記 櫻井の分かれとその後③」

2020-11-10 07:53:09 | 日本

◎結果

南朝では楠木正行とその弟(楠木正時)、そして和田新発(わだしんぼち。和田賢快とも。正行の従兄弟)が自害(『園太暦』)。その他、和田新発の弟の新兵衛尉(和田行忠)(『薩摩旧記』)、開住良円(『阿蘇文書』『東金堂細々要記』)、良円の息子(『東金堂細々要記』)、吉野の衆徒である青屋刑部(『阿蘇文書』)らも討死。正行も含めて27人もの武将が死亡した(『阿蘇文書』)。楠木氏宗家に次ぐ重鎮の武将大塚惟正(楠木惟正)は、南朝内の文書である『阿蘇文書』に戦死報告がされていないため、おそらく死んではいないと考えられるが、これ以降史料から姿を消すため、再起不能なほどの重症を負ったとも考えられる。楠木党側で生き残ってこの後も歴史に登場する武将は、後に和泉和田氏の棟梁となる和田助氏(みきたすけうじ、和田賢快兄弟とは別族)がいるが(『和田文書』)、逆に言えば他には知られないほどの惨状だった。戦死者は数百人を数えた(『薩摩旧記』『東金堂細々要記』)。『園太暦』によれば、首を切られたものだけではなく、生け捕りになったものも多かった。
一方、幕府側の損害もゼロではなく、上山修理亮高元(『常楽記』)、細川頼種(細川遠州家の祖)の長子細川頼行と頼種の従兄弟細川義春(『尊卑分脈』所収『細川系図』ら数人の武将が討死した。とはいえ、南朝が受けた損害と比べれば圧勝だった。


◎その後

月岡芳年画『演劇改良』より『吉野拾遺四條縄手 楠正行討死之圖 楠帯刀正行 市川団十郎』。「劇聖」九代目市川團十郎が演じる正行の死を描いたもの。

翌6日、楠木正行らの首級は京都六条河原で晒された(『建武三年以来記』)。同6日、北朝の左大臣洞院公賢は、新年早々めでたいことだと喝采した(『園太暦』)。生駒によれば、これは敵に対する冷めた評価のようにも見えるが、どちらかといえばむしろ、京に刻々と迫る強大な敵将・楠木正行に対する恐怖心から開放された安堵感が漏れたものではないかという。同6日、南朝の宮将軍(興良親王?陸良親王?)と准大臣北畠親房は、和田助氏ら生き残りの武将を集め、北朝に寝返らず南朝に残れば多大な恩賞があると激励した(『和田文書』)。
正行・正時の幼少の弟楠木正儀が南朝大将と楠木氏棟梁の地位を継いで戦った(楠木正儀#初陣)。1月8日に堺から無傷のまま進撃した第二軍の高師泰軍を正儀が食い止めている間に、師直によって1月24日から28日の攻撃で南朝首都首都吉野行宮が陥落するが、正儀は2月8日の戦いで幕府に一矢報い、2月12日に高兄弟を撤退させることにかろうじて成功した(楠木正儀#吉野行宮陥落)。それからも幕府は直義の養子(将軍尊氏の非嫡出子)である若き勇将足利直冬を起用し大攻勢を仕掛けるなど、南朝には綱渡りの状態が続いた。
ところが、皮肉にも、正行を討ち吉野を攻略した師直の英名が絶頂に達したことで、直義と師直の間の政治力の均衡が崩れ去り、足利氏の内紛、観応の擾乱(1350年 - 1352年)と呼ばれる南北朝時代最大の政治闘争の一つに発展することになった。この擾乱を利用して南朝側は再起を図ろうとするが、その後も混沌が続いていった。


◎考察

・兵数
師直軍の兵数については、『醍醐地蔵院日記』(『房玄法印記』同年1月1日条)によれば、第一軍の師直軍だけでおよそ一万の兵数があったという。

なお、高師泰の第二軍も編成されていたが、『太平記』では師直とは別行動を取って1月2日に堺に駐留しており、四條畷の戦いには参加していない。史料では師泰が堺に駐留していたことの直接的証拠はない。ただし、少なくとも史料では四條畷の戦い直後の1月8日に師直と別行動を取って古市(羽曳野市に所在)に駐屯し、そこから正行の館を焼き払うなどしている。
楠木軍の兵数については、『太平記』流布本では幕府軍と楠木軍の兵力差は20:1のため、これをそのまま当てはめると楠木軍の戦力は500人となる。新井孝重によれば、鎌倉時代最末期元弘の乱の頃の御家人は、平均20人程度の戦闘員と、馬丁・荷物持ち等2–3人の非戦闘員を連れていたという(ただし大雑把な平均であって、御家人によって数人から100人以上と幅は大きい)。正行軍には最低29人の軍事指揮官(死亡27人、大塚惟正、和田助氏)がいたから、指揮官自身も含めると最低の兵数は29 * (1 + 20 + 2.5)=約682人で、500人とはそれほど外れていない。無論、これはほとんど死亡した指揮官に基づく最低兵数の概算であるため、生き残りも含めた場合の兵数は不明。


◎合戦の場所

軍記物(フィクション)である『太平記』により「四條畷(四條縄手)」の戦場名が有名だが(「畷」は農地と農地を繋ぐ間道のこと)、史実で戦闘が起こった場所は河内国佐良々(さらら、讃良郡)の「北四条」という場所である(『薩摩旧記』足利直義書状および『古今消息通』佐野氏綱軍忠状)。 中世での北四条がどこだったか厳密には不明だが、少なくとも江戸時代には讃良郡北条村に「北」「四条」「辻」の3つの集落が存在し、実際、『河内志』(享保12年(1727年)開板)所収『讃良郡古蹟志』でも「四条畦戦場〈在北四条邑、/邑属北条邑〉」と、北条村の中での「北四条」が四條畷の戦いの古戦場だったことを記している。明治時代になってから、北条村が四条村(現在の大東市東部)と改称され、北四条が大字北条になるという、地名の逆転現象が起きた。現在の大阪府大東市北条に当たる。

かつては大阪府東大阪市の四条(縄手)ではないかという説もあったが、ここは旧郡名でいえば河内郡四条村であって、讃良郡でも北四条でもないから、明らかに誤りである。ただ、長野という人物が、明治19年(1886年)に「楠の井手」なる場所を掘ったら人馬の遺骨や武具が出てきたと主張したが、長野は供養のためにそれらの遺骨・遺品をまた埋め直したと述べ、そのため証拠品は現存せず、事実かどうか不明である。
現在の大阪府四條畷市は、小楠公御墓所という伝説がある場所に、明治23年(1890年)、四條畷神社が建立されたことから発展して市名になったもので、史実として四條畷の戦いと関係があるかは不明。ただ、貝原益軒が元禄2年(1689年)に旅行した時は、既に正行・正時の墓と称される墓があったという(『南遊紀行』)。


◎『太平記』での描写

『太平記』では、南朝方で四条隆資・楠木正家・三輪西阿、幕府方で細川頼春・細川清氏・今川範国なども参戦しているが史実かは不明。史実では討死したか不明な大塚惟正(楠木惟正)も戦死したことにされてしまっている。日付も細かい部分が違う(師直が八幡から出陣したのが1月3日になっているなど)。

また、楠木正行の本陣は往生院だったと描かれる。正行は玉砕を心に決め、決死の覚悟を歌にして、「返らじと かねて思へば あづさ弓 なき数にいる 名をぞとゞむる」の辞世の句を残したという逸話で有名だが、四條畷の戦いが玉砕覚悟の戦いだったというのは複数の研究者から否定されている(楠木正行#玉砕戦か否か)。

両軍の兵数は幕府軍60,000(堺に待機する師泰軍と合わせると80,000)、南朝軍3,000と、『太平記』特有の大幅な誇張表現がなされている。ただ、討死した武将の数については、「和田・楠が兄弟4人と一族23人」と書かれており、これは史実と一致するため(一族と言っていいか不明な武将も含まれるとはいえ)、著者らがそれなりに取材を行った上で、話を面白くするためにあえて雑兵の数を誇張した事情は伺われる。



<了>





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