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「大馬賊 伊達順之助の解説」

2021-10-22 07:27:58 | 日本

伊達 順之助(だてじゅんのすけ)
明治〜昭和期の満州軍閥 海軍顧問。 檀一雄「夕日と拳銃」のモデルになった大陸浪人。

・生年  明治25(1892)年
・没年  昭和23(1948)年9月9日
・出生地 岩手県
・別名  中国名=張 宗援
・学歴〔年〕 麻布中学,慶応中学,攻玉社中学,立教中学,海城中学


◎経歴

伊達政宗の子孫にあたり、岩手・水沢藩主宗敦の3男。父の影響で9歳頃から射撃の訓練をする。大変な乱暴者で麻布、慶応、攻玉社、立教、海城など当時の名門中を転々。立教中時代に拳銃で不良を射殺、華族礼遇停止処分を受ける。その後、満州に渡り、馬賊の頭目となり、大正5年頃パブジャップ将軍の蒙古独立軍に参加。14年には張作霖軍の少将となり中国に帰化、満州事変時に、日本軍の別働隊として華北国境を転戦、鬼将軍と呼ばれる。昭和13年満州国軍大将を自称して、中国人部隊・山東自治連軍総司令として天津に入るが、15年日本軍により解体。敗戦まで青島で海軍顧問の待遇を得るが、戦後、中国軍に逮捕され、23年上海で銃殺される。檀一雄「夕日と拳銃」のモデル。

明治維新から25年経った年に、伊達政宗直系の子孫として生誕。
伊達家は明治後『華族』となるのですが、『華族』は「一般市民の模範となってふるまう」ことが求められました。
しかし、順之助は『華族』の家に生まれながら、「どうやったらこんな風に育つのか?」というくらい大変素行が悪く、いくつもの中学校を転々とさせられます。
ちなみに、学習院へは「皇族の方に迷惑がかかる」ということで入学させてもらえませんでした。


◎ケンカ相手を射殺
18歳の頃、縄張り争いから相手のヤクザをピストルで射殺。
当然法の裁きを受け、懲役刑になるぞ、というところで伊達家が動きます。
ヤクザ者と交流があり、前科もあった順之助への心証は悪かったのですが、伊達家が雇った日本初の私立探偵である岩井三郎が、相手の学生の普段の素行、射殺時の状況を数ヶ月かけて徹底調査、順之助の正当防衛を実証します。
ちなみに『岩井三郎事務所』には、日本を代表するミステリー作家である江戸川乱歩が働いていました。

◎張作霖暗殺計画

1916年(大正5年)、モンゴル独立運動に参加するため民間の有志による『満蒙決死隊』を結成した順之助は、張作霖(ちょうさくりん)(中華民国の馬賊の頭領、政治家)の存在が独立運動には邪魔と判断、暗殺を計画するも失敗。
順之助は退去の処分を受け、日本へ帰国。


◎山形有朋暗殺計画

1919年(大正8年)、大物政治家の山縣有朋(やまがたありとも)が問題発言。
昭和天皇が皇太子の時、良子妃殿下との婚約についていちゃもんをつけてきたのです。
これに怒った順之助は山縣の暗殺を計画するも実行されず、翌年山縣は病死。
昭和天皇は婚約を破棄することなく、良子妃殿下と婚姻。
 当時の中国大陸の東北部は『満州』と呼ばれ、中国とロシアが「ここは我が国の領土だ!」と互いに主張し、この2国に勝利した日本(日清・日露戦争)も領土を主張していました。
そんな中、順之助は『大陸浪人』として中国大陸に渡ります。
明治初期から第二次世界大戦終結までの時期に中国大陸・ユーラシア大陸・シベリア・東南アジアを中心とした地域に居住・放浪して各種の政治活動を行っていた日本人の一群を指す。

この頃の順之助の動きは目まぐるしいので、時系列で淡々と書きます。

・1919年(大正8年)、朝鮮に渡り『朝鮮国境警備隊』に入隊。
隊長となり、武装朝鮮人のアジトを急襲するなど活躍。
・1923年(大正12年)、『朝鮮国境警備隊』を辞して帰国。
・1924年(大正13年)、中国大陸の奉天に渡り、7年前に暗殺しようと試みた張作霖の傘下に入る。
・1929年(昭和4年)、中華民国の軍人である張宗昌(ちょうそうしょう)と義兄弟の契りを交わす。
・1931年(昭和6年)、中華民国に帰化し、張宗援を名乗る。
・1932年(昭和7年)、『満州国』建国。
『満洲陸軍中将』を自称し、馬賊を従えながら各地を荒らしまわる。


◎チャンス到来

1937年(昭和12年)、陸軍大将の寺内寿一(ひさいち)が『北支那方面軍司令官』に就任した事で、中国各地を荒らしまわりながら機を窺っていた順之助にチャンスが訪れます。
寺内は『山東自治連軍』を編成。
大将に指名された順之助は四千人の兵をしたがえて山東省に入りました。
すると、そこには『歓迎張宗援総司令』という張り紙が町中いたる所に張られていたのです。
『張宗援』は順之助の中国名。
順之助の蛮勇は有名になっており、現地の人達から恐怖をもって迎えられていたのでした。


◎程国瑞殺害

山東省には程国瑞という人望の厚い人物がいました。
順之助に積極的に協力した彼のおかげで、『山東自治連軍』は約一万人にまで膨れ上がりました。
しかし、順之助は恐怖します。
人望が厚く人気のある程国瑞、一方、恐怖をもってしか迎え入れられない順之助、いずれ程国瑞が主導権を握るのは明らか・・・、順之助は程国瑞を殺害しました。


◎山東省自治連軍解散

1940年(昭和15年)、順之助が率いていた『山東自治連軍』は日本人、中国人などの混成部隊で、中国人に武器を持たせることに危機感をもっていた上層部の意向により解散を命じられます。
配下だった中国人の将や兵は散り散りになり、それぞれの故郷へ帰っていきました。
行き場を失った順之助は青島(チンタオ)に向かい、従兄弟の海軍中将である桑折英三郎(こおりひでさぶろう)を頼ります。
『青島海軍司令部顧問』という職を得た順之助は、家族を青島に呼び寄せて一緒に暮らします。


◎日本人戦犯として連行

第二次世界大戦が終わると、順之助は中国青島にて日本人戦犯として連行、戦犯とされ青島拘留所、上海監獄臨時戦犯拘留所、江湾鎮戦犯収容所に収監され死刑宣告を受けた。のちに上海監獄に送られ、銃殺刑に処せられた。
処刑当日、かつて日本人馬賊として恐れられた順之助の最期を見ようと、多数の見物人がやってきました。
順之助は処刑椅子に座るや豪快に笑ったところを、処刑人はすかさず頭部目がけて銃弾を発射。
1948年(昭和23年)9月9日死去。享年56歳


◎系譜

・祖父:伊達宗城
・義祖父:伊達慶邦
・父:伊達宗敦
・母:万喜子(松根三楽の長女)
・正妻:伊達八重子(田村弥太郎の娘)
・長男:伊達宗義(拓殖大学教授、花園大学名誉教授、専攻は中国軍事問題)
・次男:伊達政之(香港第一日文専科学校校長)
・長女:伊達智子
・妾:中国人女中
・張宗貴(中国籍)
・義兄:大木遠吉(伯爵、姉・幸子の夫)
・従兄弟:桑折英三郎(海軍中将、青島逼塞時の庇護者)


「蒙古放浪の歌」

一、心猛たけくも鬼神おにがみならぬ 人と生まれて情なさけはあれど
  母をみ捨てゝ波こえてゆく 友よ兄等けいらと何時いつ亦また会あはん

二、波の彼方の蒙古の砂漠 男多恨たこんの身の捨てどころ
  胸に秘めたる大願たいがんあれど 生きて帰らむ希のぞみはもたぬ

三、砂丘を出いでて砂丘に沈む 月の幾夜か我等が旅路
  明日も河辺が見えずは何処どこに 水を求めん蒙古の砂漠

四、朝日夕日を馬上に受けて 続く砂漠の一筋道を
  大和やまと男児おのこの血潮を秘めて 行くや若人千里の旅路

五、負はす駱駝らくだの糧かて薄けれど 星の示せる向むこだに行けば
  砂の逆巻く嵐も何ぞ やがては越こへなん蒙古の砂漠

























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