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「重陽節会とは、」

2015-10-29 07:03:47 | 日本

重陽節会(ちょうようのせちえ)は、古代日本の宮廷において9月9日の重陽に行われた節会のことである。九日節会とも言う。

平安時代初期以後に恒例の節会として定着し、嵯峨天皇の時代には神泉苑にて文人に漢詩を作らせ、次の淳和天皇の時代(天長8年(831年))には場所を紫宸殿に移して開かれた。また、天皇が出御しない平座の場合には宜陽殿で行われ、平安時代後期以後はこちらが主流となった。

漢詩の作成を初め、宴の膳の振る舞いや国栖奏(国栖舞)などが行われた。

1月1日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日みなそうで、中でも9はその最も大きな数字であるので、特に重陽(陽が重なる日)の節句として、江戸初期に定められた五節供の中でも最も重んじられた。その日には菊花の宴が催され、詩歌文章を作ったり、酒に菊花をひたした菊酒を飲んだり、江戸時代には菊の品評会や菊人形が作られたりして、ずいぶんと盛んになった。

節供の名には春の桃、初夏の菖蒲、そして秋の菊と季節を代表する花が配されている。


◎日本の重陽の節供の行事

他の節供がそうであるように重陽の節供も中国伝来の祭日。平安時代の初期に伝来し、始めは宮中行事として貴族の間だけで行われたもの。当時は中国から伝来したばかりの珍しい花だった菊を眺めながら「観菊の宴」を開き詩歌など読み、長寿を祈った。

時代が下がるに従って、当初は貴族社会のみの行事だったものが「貴族→武士→庶民」へと徐々に広がっていった。今では影の薄いこの節供ですが、江戸時代までは五節供の最後を締めくくる節供として最も盛んな節供だったとも言われる。なお、この日の宴会には菊の花を浸した「菊酒」を飲み交わした。

また、菊合わせという今風に言えば「菊コンクール」に相当する会も盛んに開かれた。現在でも日付とは切り離されましたが習俗としては残っている。

中国には無い日本独特の風習としては、重陽の節供の前日から菊の花に綿を巻き(着綿)、菊の香りと菊の花に着く露をその綿に移して、この菊の露入りの綿で身を清めるというものがある。何とも風流。庶民はこの日栗御飯などを炊いて祝った。

「重陽」とは9月9日にあたり、菊に長寿を祈る日である。陽(奇数)が重なる日そして、奇数の中でも一番大きな数字という意味で重陽といわれている。日本では奈良時代から宮中や寺院で菊を観賞する宴が行われている。


◎邪気を祓い長生き効果のある菊

古代中国では菊は「翁草〔おきなくさ〕」「千代見草〔ちよみくさ〕」「齢草〔よわいくさ〕」と言われ、邪気を祓い長生きする効能があると信じられていた。
その中国の影響を受けて日本では、8日の夜に菊に綿をかぶせ、9日に露で湿ったその綿で体を拭いて長寿を祈っていた。また、菊に関する歌合わせや菊を鑑賞する宴が催されていた。現在は寺社などで行事を行う程度で一般にこれといった行事はあまり行われていない。


◎秋の収穫祭が起源?

平安時代以前は、農山村や庶民の間で秋の田畑の収穫が行われる時期に「栗の節句」とも呼ばれて栗ご飯などで節句を祝った。(その後も農民の間では収穫祭の意味合いが強く受け継がれていった)
平安時代に入って中国思想の影響を受けると、菊の花を浸した「菊酒」を飲み交わし、茱萸(しゅゆ=ぐみの実のこと)を掛けて悪気を祓う菊花の宴が催されるようになった。また、菊に関する歌合せや、「菊合わせ」という現代で言う菊のコンクールが盛んに行われるようになった。
現在でも、9日に行われるとは限らないが、菊のコンクールや鑑賞を行う風俗は残っている。


◎重陽の意味

「重陽」の意味は何なのか?
「重陽」の二文字を、一文字ずつ分解してみると。

まず「重」は「かさなる」という意味を持っている。
重陽の節句は、旧暦9月9日だから、数字の「9」が、重なっている。

次に「陽」の持つ意味だが、これには、陰陽説が関係している。
万物を陰と陽、2つの気からなるとする陰陽説では、奇数は「陽の気」を持つとされている。名かでも「9」は、陽の極数(最大奇数)となっている。

次に、二つの意味を合わせてみると。
重陽は「陽の極数が2つ重なっている」という意味である。


◎「重陽登高」

「重陽登高」といわれるこの風習には、こんな物語が残っている。

その昔、中国の汝南に桓景(かんけい)という人がいた。

貧しいものの、幸せな暮らしをしていたのだが、ある日突然、汝河(じょが)あたりで疫病が流行り、桓景の両親をふくめ、多くの人が命を落とした。 ※汝河:汝南を流れる川

桓景は、昔、年寄り達から聞いた、汝河のあたりに住む疫病神の話を思い出すと、仙術を学び、病魔を退治しようという決意をする。そして、東南山に住む大仙人、費長房(ひちょうぼう)の話を聞くと、場所も解らぬまま、費長房を訪ねる旅に出た。

野を越え、山を越え・・・。やっと見つけた「費長房仙居」と書かれた門は、硬く閉ざされていた。桓景は、その場にひざまずくと、その姿勢を崩すことなく、時を過ごした。

門が開かれたのは、三日目のこと。
桓景の気持ちが解った費長房は、彼に一振りの青龍剣を与え、日々、朝から晩まで修行をさせた。

ある日、桓景が修行をしていると、費長房がやってきて、「今年の九月九日、汝河に病魔がまた現れる。おまえは故郷に戻り民を救いなさい。おまえに茱萸の葉と菊花酒を与える。民を高い所に避難させ何を逃れるように。」と、いった。

桓景は、家に戻ると、皆にその話をした。

そして、9月9日には、近所の山に登り、難を避けるために茱萸の葉を皆の体につけさせ、菊花酒を一口ずつ飲ませた。
桓景は?というと、青龍剣を身に着けて家に戻り病魔が来るのを待った。

すると病魔が、不気味な風とうなり声と共に、村に上がってきた。しかし、村は、もぬけの殻である。

皆が山のほうに集まっているのを見つけて、麓まではたどり着いたものの、菊花酒と茱萸の香りのせいで、山に登ることができない。

仕方なく村に戻ると、家の中に座っている一人の男を見つけた。
そう、桓景である。

病魔が、桓景に襲いかかろうとしたところを、桓景は、青龍剣で応戦。なかなか決着がつかず、病魔が逃げ去ろうとした時、桓景の投げた青龍剣が、病魔の腹に突き刺さり、病魔は倒れ伏した。

これ以降、汝河の両岸に住む民は、病魔に侵されることが無くなった。


◎菊の着綿

菊の着綿(きせわた)という、重陽の節句にまつわる風習がある。

まず、重陽の節句の前夜に、庭に咲く菊の花に綿を被せて、菊の夜露と香りを綿に移す。
そして、翌日(重陽の節句の日)に、その綿で体や顔を拭いた。
顔を拭くと老いが去り、体を拭くと長寿になると言われていた。

さて、江戸時代になり「五節句」が定められると
重陽の節句は、庶民の間にも浸透していきます。

もともと庶民の間には、農業の収穫期を迎えるこの時期に
収穫祭を行う風習がありました。

収穫祭事は、主に旧暦9月9日に行われていたこともあり、
重陽の節句は、しだいに収穫祭事に吸収されていった。
と、考えられています。












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