なぜ安保法制反対派は、憲法違反の自衛隊解体を叫ばないのか?「憲法9条はすでに壊れている」と題し、 筆坂秀世さんが掲載している。
以下、要約し記す。
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安保法制が成立した。メディアでは、SEALDsなど安保法制反対派の国会前でのデモが大きく取り上げられた。しかし、その後の人の集まり具合などを見ていると、反対派の運動は衰えているようである。
10月8日には、文京区のシビック大ホールで「10・8戦争法廃止! 安倍内閣退陣!総がかり行動集会」が行われた。主催者側は1750人が集まったと発表しているが、会場は満席で1802席である。映像を見ると2階席は半分以上が空席になっており、1階席も空席がある。とても1750人も集まったとは思えない。
しかも、参加者には、実に高齢者が多い。メディアで取り上げられた若者は、どこにいってしまったのだろうか。
◎憲法9条は壊れていなかったのか・・・?
ところで、この運動のなかで、おかしなというか不思議なスローガンが散見された。その1つが、「憲法9条を壊すな」というスローガンである。
安保法制反対派の人々の多くは、自衛隊に嫌悪感を持っている。
共産党系の平和団体に日本平和委員会というのがある。そのホームページによれば、「日本平和委員会は、北海道から沖縄まで全国47都道府県で、草の根から平和を創るために活動しているNGO(非政府組織)です。地域や職場、学園にいる3人以上の会員で作る基礎組織が全国に約500あり、約1万8000人の会員がいます」ということである。また「国内では、憲法9条守れ、非核3原則の厳守、米軍基地撤去・日米軍事同盟解消、侵略戦争の反省と戦後補償の実現などが大切なテーマと考えて活動しています」ということである。代表理事には、私も知っている共産党員が入っている。
この団体の機関紙「平和新聞」には、集団的自衛権の関係で「憲法破壊許さない」などという見出しが躍っている。安保法制反対の国会デモの際にも、「9条を壊すな」というプラカードが目についた。シビックホールでの集会の主催の1つが、「解釈で憲法9条を壊すな!実行委員会」である。
私が不思議に思うのは、これらの運動を行っている人々や団体は、「憲法9条は壊れていない」と認識していることである。壊れていないからこそ、「壊すな」と叫んでいるはずだ。
ならば聞いてみたいことがある。あなた方は、自衛隊をどう見ているのか、ということを。
憲法9条2項には、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」とある。だが自衛隊が存在している。この人々にとって、「自衛隊は憲法違反の軍隊」という位置づけであるはずだ。だからこそ平和委員会などは、各地で自衛隊の訓練に反対し、その存在そのものを忌避する態度をとっている。日本共産党も自衛隊は、「憲法違反の軍隊」だと位置付けている。
だとすれば、この人々にとって、憲法9条はすでに大きく毀損されているということではないか。もしそれでもプラカードを掲げたければ、「9条をこれ以上壊すな」というのが、この人々の立場と整合したスローガンなのである。
◎なぜ「憲法違反の自衛隊解体!」と叫ばないのか
それだけではない。PKO(国連平和維持活動)法が制定された際にも、日本共産党や当時の日本社会党は、憲法違反の自衛隊の海外派遣、海外出動だとして批判していた。ここでも憲法9条は、著しく毀損されたと評価するのが、これらの人々の立場であるはずだ。
おそらくこの矛盾に気が付くこともなく、「9条壊すな」というスローガンは分かりやすいので使っているのであろう。真剣さがないのである。結局、何かあれば「憲法違反だ」「9条を壊すな」とその都度、同じスローガンを叫んでいるだけなのだ。
真剣さがあれば、「憲法違反の自衛隊解体!」となぜ叫ばないのか。この人々は、自衛隊がなくなれば万々歳ではないのか。自衛隊がなくなれば、集団的自衛権の行使の心配も、海外派兵の心配も、一切なくなるではないか。
もちろん私は、これに猛反対する。圧倒的多数の国民もそうであろう。
自衛隊は、憲法違反の存在ではないからだ。日本は自衛権を持っている、と誰でも言う。では自衛をするためには、何が必要か。いうまでもなく軍事力である。侵略者を撃退できる実力組織と言い換えても良い。もしそれが許されないのだとしたら、自衛権を持っていると言っても、何の意味もなさない。自衛権の裏付けが自衛隊なのである。この自衛隊まで憲法違反だとして忌避するような運動は、国や国民の安全に背を向けるものであり、無責任の極みと批判されても仕方がない。
◎現実から遊離した「憲法9条にノーベル平和賞」の運動
「『憲法9条にノーベル平和賞を』実行委員会」という運動があるようだ。「世界各国に平和憲法を広めるために、日本国憲法、特に第9条、を保持している日本国民にノーベル平和賞を授与してください」という署名活動を行っているそうである。このホームページによると、69万3951筆の署名が集まっているそうである。正直な感想を言えば、たったそれだけか、さもありなんということである。
この運動に対して、昨年5月22日、民主党の小西洋之参議院議員、吉良佳子参議院議員などが、憲法9条にノーベル平和賞が授与されるよう求める文書を、駐日ノルウェー大使館を通じてノーベル賞委員会に提出したと発表している。この文書には、与野党7党と無所属議員の60人が賛同者に名を連ねているそうである。
民主党はともかく、共産党は自衛隊もPKO活動も憲法違反と主張してきた政党である。よもや新人議員だから知らなかったということではなかろう。平和と名がつけば、何でも利用して自分の名をあげようとでも思っているのだとしたら、浅はかと言うしかない。
現在の憲法が連語国最高司令官マッカーサーの意向によって作られたことは、周知の事実である。
憲法学者、西修氏の著書『日本国憲法の誕生』(河出書房新社)によれば、第9条の原点は、1946年2月3日の「マッカーサーノート」にある。当初、このノートには、「紛争解決のための手段としての戦争」だけではなく、「自己の安全を保持するための手段としての戦争」、すなわち自衛戦争も放棄するよう求めるものであった。
これを書き改めたのが、草案作成の中心にいたチャールズ・ケーディス大佐である。「自己の安全を保持するための手段としてさえも」という部分を削除し、「武力による威嚇または武力の行使」が付け加えられたのだという。これはケーディスが、自衛戦争の放棄はあまりに非現実的であり、どの国にも“自己保存”(自衛)の権利はあると考えたからである。
日本共産党が当時反対したのは、「マッカーサーノート」にあった「自己の安全を保持するための手段としての戦争」も禁止されていると解釈したからである。これはやむを得ない解釈であった。いまでは、日本共産党は、わが国に自衛権はあるという解釈を受け入れ、このこと自体には反対していない。
ところが「憲法9条にノーベル平和賞を」という護憲運動は、この“自己保存”の権利をも否定するものだ。これに共産党の参議院議員が嬉々として賛同するというのは、この議員の勉強不足なのか、共産党の融通無碍のなせる技なのか。それとも両方なのかであろう。
どちらにしても、この9条を作ったのは、日本を丸腰にしようとしたアメリカ領軍であったことだけは明白である。であるならアメリカ占領軍、あるいはマッカーサーこそ、その受賞者にふさわしいということになる。
そもそも戦後の日本が平和だったのは、憲法9条のおかげではない。日米安保条約と米軍の存在があったからだ。もし無防備であったなら、尖閣や沖縄は中国に取られていたかもしれない。北海道だって旧ソ連が侵攻した可能性もある。そして日本は、内政に力を集中できたからこそ経済発展も可能になった。外に向かっては、厳然たるアメリカの力の行使があったのだ。9条があったから平和であったなどというのは、幻想に過ぎないことを知るべきだ。