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「『省ケン録衍義』の解説①」

2019-02-24 07:52:40 | 日本

池田弥三郎さんが、『省ケン(侃+言)録衍義』の解説を掲載している。
以下、要約し学ぶ。




「省ケン(ケンは上部が「侃」で下部が「言」、以下「侃+言」と表記)録衍義」は、江戸幕末の先覚者である佐久間修理こと佐久間象山(文化八年・1811~元治元年・1864)が編纂した「省ケン(侃+言)録」を解説した書籍である。

「省ケン録」とは、「あやまちを反省する記録」との意味である。

佐久間象山は、信濃松代藩の下級武士として生まれ、江戸幕末の兵法家・思想家として名高い先覚者である。通称は修理(しゅり)であるが、号を象山、諱(いみな)を啓(ひらき)、字を子明(しめい)と自称した。「象山」の読み方がよく話題になるが、漢学者でもあった象山らしく「後の人、我が名を呼ぶなば正に知るべし」として、「しょうざん」と呼ぶように示唆したとの説もあるが、名前・号についての解説は後段に譲ることにする。「南洲手抄言志録」で紹介した佐藤一斎(安永元年・1772~安政六年・1859)に朱子学・陽明学を学び、山田方谷(文化二年・1805~明治十年・1877)と共に「昌平黌(昌平坂学問所)の二傑」と呼ばれた逸材であった。

また、象山は勝海舟の妹・順を妻としたので海舟とは義兄弟で、海舟も象山先生と呼んだ如く、西洋兵学においては象山は海舟の師匠に当たる。象山は西洋兵学を学ぶため伊豆韮山代官の江川英龍(享和元年・1801~安政二年・1855)に弟子入りし、大砲の鋳造に成功して一躍有名となった。象山が真田藩主に「海防八策」を進言したことは有名であるが、日本初の電信機の発明や地震予知機の開発、そしてガラス製造など斬新的な西洋技術の導入に成功した先覚者であった。門弟には吉田松陰・勝海舟・坂本龍馬・橋本左内・河井継之助・加藤弘之・岡見清熙などの幕末の偉人が多い。しかし、「西洋かぶれ」の汚名を着せられ京都三條木屋町の路上で暗殺されてこの世を去ることとなった。

この書籍には、明治から昭和に活躍した東洋史学者で文学博士の飯島忠夫の「省ケン(侃+言)録に就いて」と題した講義と明治から大正に活躍したアララギ派歌人である島木赤彦の「佐久間象山の和歌」の論評が収録されている。

飯島忠夫によれば、「省ケン録」の題目については、「ケン(侃+言)といふのは『あやまち』で愆と同じく『けん』と読みまして、あやまちを省みるといふことであります。」(中略)「亜米利加の軍艦が浦賀に来て通商を請った時、先生は志士として活動され、それが幕府の政治上の眼から見て、出過ぎた事をしたといふので罪人とされた、その罪を省みられたものでありまして、先生の一生の中最も重大なる時期であり、又先生の精神が強い力で現れているものであります。」と、解説している。

また、「象山」の呼称については、「山の名によってその號を附けられたといふことは、先生御自身の文章『象山記』の中に見えて居り、先生の書簡の中にも書いてありました。」とあり、その山については、「手紙の中に惠明寺は象山惠明寺といふのであって、(中略)寺に山號を附ける時にさう呼んだものであります。」「惠明寺は黄檗宗の寺であって、その開基は木庵といふ人であります。木庵は支那から帰化して来た人でありまして、その弟子が惠明寺を開いたのでありますが開基を自分の師の僧の名前にするのはそのころの習慣であります。」「お寺の言葉は呉音で読むのが普通だったから、象山惠明寺(ぞうざんえみょうじ)といひ、『しょうざんけいめいじ』とは云ひません。先生の號が寺の山號によってつけたとすれば『ぞうざん』であります。併しながら漢学者は漢音、僧侶は呉音で読む、これが徳川時代の一般のならはしであり、そして漢学者は僧侶と区別することを喜んだから、その文字をとって来て『象山』と読んだとする方がいいやうにも思へるのでありまして、どっちでも論が立つのであります。」と、解説している。

そして、啓(ひらき)と子明については、「『啓』といふ名前から『大星子明』といふ名前が出て来るのであって、啓と明とは通じています。(中略)金星のことを啓明と申します。東に出れば啓明と云ひ、西に出れば長庚といふのです。それで『大星』といふのは金星が大きな星であることから導かれ、『子明』といふのは啓明の明るいといふ意をとって来られたのであります。即ち東に大星ありて黎明を知らしめ、やがて大いに世を照して光輝あらしめようとする先生の大抱負があらはれています。つまり、先生の名前によって、先生の大理想を窺ふことが出来るのであります。」とも解説している。なお、「東洋の道徳、西洋の藝(芸)術」との名言はこの「省ケン録」が出典である。

象山の和歌について島木赤彦は、「省ケン録に載っている象山の和歌は百十六首ある。其の中吾人の取り得るは僅かに幾部分に過ぎぬ。取り得るものの少ないが為めに直ちに象山の和歌はつまらぬなど断定するは軽卒である。」「名山大澤は其の規模の大なるだけ夫れ丈けつまらぬ景色も交って居る。つまらぬ景色が交っているから名山大澤の値打がないといふのは馬鹿げていると同じ事である。隅から隅まで気の利いた公園は、全体に纏めて見れば必ず小規模であるに相違ない。(中略)日常生活他人の交際、すべて斯の如しだ。隅から隅まで気の利いた積りでいるうちに、小才子にはまり込んでしまはねば僥倖である。」と、書き出した。そして、象山が七箇月の禁錮中に作った二十二首を選び出して解説した。







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