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「国葬の代償」

2022-10-04 07:45:34 | 日本

安倍晋三元首相の国葬が執り行われました。しかし、世論の賛否は割れたままで、内閣支持率も急落。岸田文雄首相は代償を払うことになりました。舞台裏で何が起きていたのか。5回にわたってお伝えします


①国葬の代償(第1回) 衝撃

27日午後2時27分、東京都千代田区の日本武道館。首相の岸田文雄は、「故安倍晋三国葬儀」の葬儀委員長として、追悼の辞を読み上げた。安倍の遺影を見上げ、こう言葉を贈った。「世界中の多くの人たちが『安倍総理の頃』『安倍総理の時代』などと、あなたを懐かしむに違いありません」

秋晴れのなか、会場近くの献花台には朝から長蛇の列が出来た。一方、国葬に反対するデモも行われた。世論が分断されたまま、国葬は当日を迎えた。
参院選の投開票日を2日後に控えた7月8日午前11時半ごろ、安倍は奈良市の近鉄大和西大寺駅前で自民党候補の応援演説にたっていた。
「彼はできない理由を考えるのではなく……」
聴衆に向けて左手の拳を振り、そう発した直後、背後で銃声が2発響いた。周囲から悲鳴があがった。

その一報を岸田が受けたのは、遊説のため山形県内を移動中の車内だった。直後に到着した道の駅での応援演説は、2時間前の別会場とはまるで様子が違っていた。
「世界において食料が……の価格が」
「山……山形の基本、基本の……」
何度も何度も、言葉を詰まらせた。
岸田は残りの遊説予定をとりやめ、自衛隊のヘリコプターで首相官邸に戻った。
午後2時45分ごろ、緊張感に包まれた官邸エントランス。待ち受ける記者団のもとへ歩み寄った。岸田の口元は震えていた。
「決して許すことはできない。最大限の厳しい言葉で非難する」
夕方、安倍の死亡が確認された。再び記者団の前に現れた岸田は涙を浮かべていた。
「誠に残念で言葉もありません」。力なく語った。
首相周辺は官邸内での岸田の様子について「かなりエモーショナル(感情的)になっていた」と明かした。
7月10日、参院選投開票日。岸田の姿は東京・永田町の自民党本部にあった。次々と当選確実の報が寄せられ、そのたびに岸田は候補者の名前が書かれたホワイトボードにピンク色の花をつけた。だが、笑顔はなかった。


◎同期の因縁 ライバルの宿命

岸田と安倍は、1993年の衆院選で初当選。岸田は第1次安倍政権で沖縄・北方担当相として初入閣し、第2次政権では4年あまりもの間、外相として支えた。
苦い思いもした。
「ポスト安倍」として期待されながら、2018年の自民党総裁選では迷った末、立候補を見送った。安倍の3選を支持し、「優柔不断」と批判を浴びた。悔しさで寝られず、議員宿舎で朝まで思いにふけった。
安倍が退陣した20年の総裁選に立候補したが、安倍は官房長官を務めていた菅義偉の応援に回り、惨敗。「岸田は終わった」と言われた。
「安倍さんとは政治信条も哲学も違う」
岸田は「安倍の『禅譲』を狙っている」と指摘されるたびに、そう抗弁してきた。党内最大派閥の「清和政策研究会」(安倍派)より、自身が率いる伝統派閥「宏池会」(岸田派)の方が、党の保守本流だとの自負もある。
しかし、憲政史上最長の政権を率い、退陣してもなお、党内外に巨大な影響力を持つ安倍には気をつかわざるを得なかった。
念願の座についてからも、こまめに電話をかけ、時には議員会館の事務所に出向いて面会した。安倍は財政再建に向けた動きを強く牽制(けんせい)し、防衛費の大幅増額を声高に主張。佐渡金山遺跡(新潟県佐渡市)の世界文化遺産登録をめぐっては、推薦見送りを検討する岸田に直接電話をかけて方針転換を迫った。ただ、はばかることなく政権に異を唱える一方で、矛を収めて、岸田への反発を抑え込む役割を果たしてくれた。
◎党幹部、経済界、列をなす人々…

「なぜ官邸で半旗を掲げていないんだ」


②国葬の代償(第2回) 決断

「行政訴訟のリスクがあります」
元首相、安倍晋三の国葬を検討するよう指示した首相の岸田文雄に、最初に示されたのは、反対意見だった。
国葬を定めた法律は、ない。すべて国費で負担するうえ、国民に弔意を強制すると受け止められる恐れもあった。
戦前には「国葬令」があったが、1947年の日本国憲法の施行に伴い廃止された。首相経験者の国葬は、67年に閣議決定をもとに実施した吉田茂以降は開かれていない。80年に死去した大平正芳以降は「内閣・自民党合同葬」が慣例だった。
「今までの首相経験者とは違う形で評価すべきだ」
岸田には、安倍は他の首相経験者とは違うとの思いが強かった。安倍は憲政史上最長の8年8カ月にわたって首相を務めた。そして選挙の遊説中に凶弾に倒れた。海外からは多くの弔意が届いていた。
「国際的な評価は想像以上だ」
一方、安倍政権には「森友・加計学園」「桜を見る会」など行政の公正性を揺るがす問題があった。安倍の政治的評価はまだ定まっていないとの指摘もあった。
◎内閣法制局からの知らせ

岸田は周囲に「国内の評価は正直色々ある」とも漏らした。
そこで政府内で浮上したのが…


③国葬の代償(第3回) 暗転

「いまそういうことを言うなら『非国民扱い』される」
首相の岸田文雄が国葬を表明した7月14日、自民党のベテランは、国葬に異論を挟みづらい世の中の雰囲気をそう表現した。国葬表明直後の報道各社の世論調査では、国葬への賛意が反対を上回っていた。
批判はあった。ただ、その中心は、8年8カ月にわたり首相を務めた安倍晋三の評価が定まっていないことや、閣議決定のみで決めた経緯、法的根拠の弱さなどだった。「丁寧な説明」をすれば、批判はこれ以上広がらない、との見通しが政権を支配していた。
野党の立場も割れていた。決定当初から明確な反対を掲げたのは共産党や社民党など少数で、日本維新の会や国民民主党は一定の理解を示していた。
◎見誤った世論の流れ

野党第1党の立憲民主党は国葬への立場をはっきりと示せずにいた。7月16日、奈良市内の銃撃現場で手を合わせた立憲代表の泉健太は、「政府が関与する形の送り方は否定しない」と記者団に語った。
「国民から国葬にすることについて、『いかがなものか』という指摘があると認識していない」
7月19日、自民党の実権を握る幹事長の茂木敏充は記者会見でこう述べ、さらに続けた。
「野党の主張は国民の声や認識とはかなりずれているのではないか」
政権幹部は「どちらが正しいとか議論しない方がいい。議論すること自体が失礼だ」。7月22日には粛々と閣議決定を終えた。国民の支持を受けた国葬への批判は、野党にとってはむしろマイナス――。そう考えた首相周辺はこううそぶいた。「野党はもっと批判して(自分たちの)支持率を落としてくれたらいい」
銃撃事件発生当初、注目が集まったのは、犯行の手口や警察の警備の問題だった。
だが、次第に焦点は「動機」へと移り、「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」がクローズアップされた。逮捕された容疑者の供述などをきっかけに、教団と安倍、教団と自民党の関係の深さが白日の下にさらされ始めた。


④国葬の代償(第4回) 迷走

「今後は一切の関係を断つと言ってもらうしかない。それでいくしかない」
8月上旬、首相の岸田文雄は内閣改造・自民党役員人事を決断した。
このころ、岸田は二つの問題に直面していた。じわじわ増える元首相・安倍晋三の国葬に対する反対と、際限なく広がる「世界平和統一家庭連合(旧統一教会)」と自民党議員との問題。まず後者を乗り切ろうと、最初のカードを切った。
永田町には驚きが広がった。
政府・与党内では内閣改造・党役員人事は9月中との見方が多かった。7月28日には公明党代表の山口那津男でさえ、「おそらく9月前半ではないか」と述べていた。岸田はその不意を突き、刷新感を打ち出そうとした。
8月10日、第2次岸田改造内閣が発足。岸田は記者会見で「当該団体との関係を点検し、厳正に見直すよう厳命し、それを了解した者のみを任命した」と述べ、教団との関係を断ちきることを入閣の条件としたと明らかにした。
しかし、その日のうちにつまずく。新任総務相の寺田稔、厚生労働相の加藤勝信に加え、経済再生相で留任した山際大志郎も教団の友好団体との接点が明らかになった。
「改造後もポロポロと新たな教団との関係が出てきて、意味がなかった」。自民党のベテラン議員は吐き捨てた。最初のカードは不発に終わった。


⑤国葬の代償(第5回) 誤算

秋晴れの9月27日午後2時。国内外から参列した4千人以上が、厳かな空気に包まれていた。「故安倍晋三国葬儀」が日本武道館で始まった。首相の岸田文雄は、葬儀委員長を務めた。
「憲政史上最も長く政権にありましたが、歴史はその長さよりも、達成した事績によってあなたを記憶することでしょう」。生前好んだレジメンタルタイを締め、笑みを浮かべる安倍の遺影。黒の礼服姿の岸田は、遺影を時折見上げ、追悼の辞を読み進めた。外国要人を意識して、外交を中心に安倍の功績を紹介した。そして、こう締めくくった。
「あなたが敷いた土台の上に、持続的で、すべての人が輝く包摂的な日本を、地域を、世界をつくっていく」

今後、自らの政権で本格化させようとする、社会保障改革や、賃金格差是正など「新しい資本主義」への決意を込めてみせた。
会場近くの一般献花台には、朝から数キロにもおよぶ長蛇の列ができた。各地からの献花者は絶えず、約2万6千人にのぼった。首相周辺は喜んだ。「報道は賛否が割れているというけど、『どこが?』って感じだね」
国葬当日と前後の計3日間、岸田の姿はほとんど、東京都港区の迎賓館にあった。
他国との会談を終えて部屋を出た岸田が別室へ急ぐ。官僚から次の会談国について説明を受けると、すぐさま別の部屋での会談へ。終えると、また別室に戻って説明を受ける。「弔問外交」に岸田はいそしんだ。短時間の会談を繰り返し、会談した国・地域・国際機関の数は約40に上った。
その「マラソン会談」で岸田は、安倍が提唱して進めた「自由で開かれたインド太平洋」構想について語り、「安倍氏の外交政策や戦略を継承する」と伝えた。首相周辺は「安倍氏が培ってきた外交を岸田カラーに染める。いいスタートになった」と高揚した。
◎官邸内で漏れるささやき

しかし、分断された国論は国葬当日、あらわになった。日本武道館や国会の周辺だけでなく、各地で「国葬反対」と書かれたプラカードや横断幕を掲げたデモが行われた。









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