龍の声

龍の声は、天の声

「耳で見る 目で聞く」

2016-12-29 22:55:26 | 日本

京都・大徳寺の開山である大燈国師(だいとうこくし)の読んだ和歌に、興味深いものがあります。

「耳に見て 眼に聞くならば 疑わじ おのずからなる 軒(のき)の玉水」

ちなみに、「軒の玉水」というのは、軒からこぼれ落ちる「雨だれ」のことです。それを「耳で見る…、眼で聞く…」ということですから、大燈国師は、「眼」と「耳」を間違えて詠んだのではないか、こんな疑念を抱く読者があるかも知れません。凡人の常識では考えられない境地です。
この和歌には、耳で見て、眼で聞くことができなければ本当の「雨だれ」を見たことにならない…。耳で見て、目で聞くことができるなら、「雨だれ」も本当の「雨だれ」になり、さらには、自分自身が「雨だれ」になる…、こんな意味が込められているようです。

まったく首をかしげたくなるような和歌ではありますが、大燈国師[宗峰妙超禅師]は、日本の臨済宗諸派の法系上の源流として尊崇される「応燈関(おうとうかん)」の系譜を成した高僧の一人で、稀代の傑物と評される禅僧です。その境地など、私のような凡人にはとても計り知ることなどできないのは当然でしょう。
 
耳で見て、目で聞く。そうすれば正しく見ることができる。正しく、真実に、正確に聞くことができるのです。禅がわれわれに期待するのは、こうした体験です。でも、あるいは皆さんはおっしゃるかもしれない。それでは見ないことになってしまうじゃないか、と。


日本にはこんな話が伝わっています。たぶん500〜600年前のことですが、京都に一人の禅匠がいて、「正見」をテーマにした短い詩を残しました。31文字のものです。この禅僧(大燈国師)の残した詩は、こんな和歌です。

「耳に見て 目に聞くならば疑わじ  おのずからなる軒の玉水」

耳で見る、目で聞く。もしそれができるならば、軒から落ちる水の音がどんなにか自然に響くことだろう、というのです。

ソローはコンコードに住んだ偉大な哲学者、詩人、隠者など、まぁいくつも顔をもった人ですが、このソローは自分で小屋を建てましたが、そこで暮らしはじめた頃は、人里離れていたのでずいぶん孤独感に襲われました。しかし、雨降りの日にこんなことが起こった。細かな雨で、本降りではなく霧雨に近い雨でしたが、雨だれに耳を澄ませているうちに、なにか連帯感のようなものが感じられた。それ以後は、孤独感がまったくなくなった、と書いています。いわゆる無生物にすぎない雨だれとの間に、ある種の親近感を覚えたからです。

この話から、大乗仏教徒の言う衆生救済、雨だれも芭蕉葉も巨大な岩さえも、大海原に渦巻く逆波まで救済するという、その意味を皆さんにもお分かりいただけるかと思います。大乗仏教徒は、すべての無生物のなかにさえ何か人間的なものを感じとっているのです。

われわれが耳で聞くと言うとき、この耳には空間的な場所があって、五感の一つに数えられます。明らかに耳のついている場所があります。目で見ると言うときも同じく、明らかに場所があります。その耳も目も、ある特定の空間を占有しているからです。

しかし、もし空間を意識すると意識は個別化され、コチラとかアチラといった一定の方向性をもちます。そうなると、もはや全体性(totality)は失われます。自己分裂した状態です。人格全体はある方向に向かい、もはや全体は”それ自体”ではなくなる。いわゆる無意識の領域を含むわれわれの意識は、全体性を失う。

その意識が数多くの部分に分解されても、それぞれの部分がなにか機能を果たすなら、たぶん客観的な意義をもつでしょう。しかし、お話ししてきたように、一つの存在(being)が客体と主体に分かれると、もはや”存在そのもの”とは言えない。分裂したものです。この分化が起こると、耳や目の場合と同様、その全体性が失われます。

しかし、真の実在(reality)は、すべてが全体性を保つときであって、多様に分化した様相や現象の中にはありません。「本当に知る」「本当に見る」「本当に聞く」、そのためには原初の”根源的実在そのもの”に戻らねばならないのです。

いま、根源(original)とか原初(primary)とか言いましたが、実在にいかなる概念(concept)も観念(idea)も付け加えてはなりません。原初と言えば、自然に時間の経過が連想されます。しかし、実在はこうした経過も進展も何もまったく含まない。ただただ”それ”です。

この”ただそれ”に至ると、その主体性から客体性(聞く、見る、香りをかぐ)といった働きが現われる。だから「正見」、つまり真実に確実に見るために根源まで戻るのです。しかし、このように”戻る”と言うと、これらの言葉には時間の経過が含まれます。しかし、時間の概念をもちこんではならない。空間もなく時間もない。

私が”空間もなく時間もない”などと言うと、皆さんは「それでは何かについて話すことなどできるのだろうか。人から人へ何も伝えられないではないか」と疑問に思うでしょう。しかし不思議なことに、われわれ誰でもこの”分化されない何ものか”を内に秘めているのです。もっとも、私が”われわれ誰でも”と言うと、もう実在はそのものから離れています。なぜなら、”われわれ誰でも”という言葉が分割された空間を意味するからです。









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