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面影が残る 品川用水跡 と 牟礼用水跡
三鷹市内の玉川上水の延長距離は、約5.1㎞です。
三鷹市内には、2つ分水口がありました。
分水口に関する古文書『上水記』のによると、拝島の玉川清右衛門掛の節から大木戸の近くのまで、分水口は、合計で33か所が願済(許可)されていた。
三鷹市内を通る品川用は水寛文9年(1669年)、無(牟)礼村分水口は延亨2年(1745年) にそれぞれ願済されていました。
品川用水(1662年)は、玉川上水から分水し、三鷹地域の中央部をほぼ南北に流れ、細川家の品川宿村まで引水しました。
品川用水の水利用を巡り昭和22年流域沿いの三鷹町と神代村より、品川用水利用組合に対して水利権譲渡を行い昭和27年に「三鷹用水」となった。その後、都市化の影響で暗渠化が進み「三鷹用水」を見ることがなくなり、一般的には「品川用水」と呼ばれている。
品川用水は33の分水路のうち、最も長く7 里半(約 29.45Km)、(短い幡ヶ谷分水は、5 町(545m))でした。
品川用水は、該当とする村の地先にある分水路は8、他村に設置されている分水路は21と多く、取水しやすい場所が選ばれており、生活用、灌漑用などに使用されてきました。
江戸時代の後半期になると人口も増えてきたこともあり、玉川上水路沿の分水は、永いあいだ利用してきた分水口の箇所を整理して、水が足りなくなると分水口のまわりに穴をあけ水を分水路に流す行為に対して防ぐことができず問題視されていました。
分水口統合は、当時常態化していた水不足の対策とされ各分水口を利用量に応じた大きさに改め
もう一つの 「牟礼用水」は、延享(えんきょう 1745年)分水許可され、通水している。山崎、上、中、本宿を流れ、通称「牟礼田んぼ」の灌漑用水として、三鷹台団地の完成、宅地化により、昭和37年ごろまで続いたが、その後、埋め立てられ道路となりました。
差蓋の規模 8寸四方(64 坪) 玉川上水路の左岸に位置している。とあります。
分水口は、玉川上水路の川底に近い法面にあり差蓋で水量の調節ができたとあります。
この分水口から木樋(埋樋ともゆう)によって土手をくぐりぬけ開渠(分水路)となって流れた。