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Rolling 55

「転がる石は苔生さず」いつまでも、いつまでも転がり続け・・・
お池にハマって、さぁ大変!  by belage

フランス紀行[11]  アヴィニョン⑪ 教皇宮殿2

2013年10月20日 16時27分20秒 | フランス紀行2013

宮殿の内部です。教皇庁があったというので期待して行きましたが、ありゃ、
殆どがらんどうに近い状態。
一番興味を惹いたのがこのゴーガイルという有り様。

壁画もこんな風に荒れ放題。
というのも、フランスの歴史の中でフランス革命はまさに嵐であったようです。この宮殿は
フランスの殆どの教会がそうであったように、旧政府の監獄として使われ、その前は暴徒
により略奪の限りを尽くされたようです。

文化財にとって革命というのは余りに悲しい結果となるのが定めのようです。それに引き換え
日本の明治維新、今様に言えば革命でありますが、無血開城という選択をした徳川幕府、
幕閣の英断はもっと歴史的に評価されても良いように思えます。

これは多分食堂かなぁ。教会建築なので舞踏場とは思えませんので(笑)

ステンドグラスも意外と質素で。ちょっとびっくり。まぁ、信徒を相手にしている空間では
ないので、これで十分と言えば十分です。

宮殿の中庭。丘の斜面を利用して作られている宮殿ですので、ここが何階に相当
するのか、ちょっと判断がつきませんが。

ゴルゴダの丘を登る前のキリスト像のレリーフ。着衣姿というのも珍しいかも。

恐らくは歴代の教皇の彫刻と遺体を飾った棺に置かれた彫刻と思われます。
かなり価値がありそうな絵画等もありましたが、何故か撮影禁止。そうなると
見る気もなくして。何が置いてあったか全然覚えておりません(苦笑)

世界遺産といっても、ちょっとがくっと来た宮殿でありました・・・

 

ー続くー


フランス紀行[10]  アヴィニョン⑩ 教皇宮殿1

2013年10月19日 16時33分44秒 | フランス紀行2013

アヴィニョン橋から城塞の門を再び潜って中に入ります。

だらだら坂を登って行くと、まるで城と思えるような特徴ある巨大なゴチック建築物が
目の前に。

 

入り口には可愛い小学生たちが。

この建物、1335年からおよそ30年の歳月をかけて建築されたもの。中世ゴチック建築として
ヨーロッパ最大の規模を持つものであります。ただ、これを教皇の宮殿としてみると余りに
ものものしく、キリスト教の教皇庁として捉えるにはちょっと違和感があります。

但し、前にも書きましたがこれもフランスのルイ8世のローマカソリックへの武力干渉による
ローマ分裂という長い混乱期を考えると現代人に分からぬ複雑な事情があったんでしょうね。

 

ー続くー


フランス紀行[9]  アヴィニョン⑨ アヴィニョン橋3

2013年10月18日 16時25分51秒 | フランス紀行2013

アヴィニョン橋を見学すると城塞の上を歩けるようになっています。

そこから眺めるアヴィニョン橋。しかし、この高さをも超える洪水というのは
俄には信じがたい気もしますが、現実に22本あったアーチの18本が過去に
流されているわけで如何に水の、自然の力が恐ろしいかがよく分かります。

土産物屋の壁に描かれた橋で踊る子どもたちの絵。そうそう、あの歌を歌っていた頃
確かにこんな絵が楽譜に描かれておりましたっけ。

こちらが人気の土産物なんだそうですが・・・ちょっとキモい(笑)

実はアヴィニョンのシンボルはセミでありました。まぁ、ちょっと珍しいかも。
奥様が記念に買っていこうかというのを制止して。だって余り可愛くないんだもの(笑)

再び橋の先端まで行って橋ともお別れを告げて。

 

ー続くー


フランス紀行[8]  アヴィニョン⑧ アヴィニョン橋2

2013年10月18日 08時11分19秒 | フランス紀行2013

跳ね橋の手前の資料館にこんな写真が。はは、子供が踊ってますよ、輪になって。
この橋、巾がたったの4Mしかなくて、こういう小さな子供が踊るしかなさそうです。
最初の橋は1177年から1185年に建設。その後、まずはフランスのルイ8世の攻撃で
三分の二が破壊され、その直後住民の手で再建されるも維持補修が出来ず、度重なる
ローヌ川の洪水で破壊され、全部で22あったアーチは四つしか残っておらず、現在
に至るであります。

しかし、この写真合成だと思うのですが、かつての雰囲気がよく出ています(写真が
開発されたのが1824年ですから、子供達の写真はそれ以降になります)

こちらは往時の姿。これもイラストでありましょう。完成時の長さは920mもあったそうです。
当時からすると世界一の長大橋と言えるのかもです。

それにしても世界中に知られた「アヴィニョン橋の上」というシャンソン。何故これほど
までに人気があったのかとても不思議。実はボク自身は高校時代にフランス語が必修で、
最初に覚えたシャンソンがこの歌。それ以来、ここに来ることが憧れでありました。
よっぽど広い橋で、大勢の農民が輪になって踊ったのかと思いましたら。あはは、
実際にここに立ち、ちょっとがくっと来たりして(苦笑)

先端に見える小屋のようなものが、「サン・ベネゼ」を祀った教会で、これが唯一のオリジナル。
丁度現存する今の橋の中間くらいにあります。創建当時の橋の天端の位置はもっと下で、
このチャペルももっと立派に見えていたことでしょう。洪水の関係で橋の高さも随分嵩上げ
されたようです。

因みに聖ベネゼは当地の羊飼いで、この橋を作ったという伝説の人。

ボク等のような旅人が見る限り大変穏やかなローヌ川です。最近の日本の気候でよく理解
出来るのですが、これだけの大河、一度氾濫した時の恐怖って想像を絶するものなんで
しょうね。

サン・ベネゼのチャペルの屋根です。チャペルというか祠というイメージです。

チャペルの中には一体のマリア像だけが寂しく置かれて。正面の祭壇には恐らく
キリスト像があったんでしょうね。

聖ベネゼにまつわる聖遺物は他に移されているそうです。

 

ー続くー

 


フランス紀行[7]  アヴィニョン⑦ アヴィニョン橋1

2013年10月17日 16時39分23秒 | フランス紀行2013

あのシャンソンで歌われたアヴィニョン橋。そこに行くには一度城塞の外に出て。

世界遺産ともなるとこういうところまで補修をしないといけないのです。維持も大変
ですねぇ。

城壁の上部にはこんなハングオーバーのカタチになっていました。アビニョンといえば
あの結束を誇ったローマ・カソリックが分裂を繰り返した時、1309-1377年の間
教皇庁が当地に移され、バチカンとともにキリスト教の聖地として繁栄した時代があり
ました。

その発端は1303年に当時の教皇がフランスのフィリップ四世に襲われ、それ以降
ローマはフランスの干渉に右往左往することになり、バチカンと当地で教皇庁が並立
となりました。それ故、この教皇庁もかくも厳重な城塞都市とする必要があった訳です。

そして当時のこの地はなんとナポリ王国のアンジュー・シチリア家の所有地でありました。
奇しくも今回の旅はシチリアの旅の延長となりました。

アヴィニョン橋と言われるサン・ベネゼ橋が見えてきました。

はい、ここが入り口。

城塞と橋は跳ね橋で繋がって。

資料館にはこんな木杭が。東京の旧丸ビルの建設には数千本の松杭が使われていました。
あれの解体工事はかなりの困難を極めたと。下手に掘ると杭が折れて取り出せなくなって
しまうということで、確か基礎解体工事だけで二年くらいかかったんじゃないかしら。

 

ー続くー

 


フランス紀行[6]  アヴィニョン⑥ 朝のアヴィニョン

2013年10月17日 08時28分25秒 | フランス紀行2013

旧市街地の朝。南仏らしい太陽の光が注いで、とても清々しい朝です。

朝の8時頃。まだ道行く人もまばら。

 

 

一番大きなパン屋さん。まぁ、沢山の種類のパンやらサンドイッチ、そしてジェラートの
数々。一体何種類あるんでしょう。これ選ぶのも大変。

恐らくフランスのパンは世界で一番うまいんじゃないかとボクは思っていますが、何故
なんでしょう。小麦がいいのかなぁ。あの代表的なフランスパンなんて、かなりでっかい
バケットでも一本軽く食べられちゃう。それで、腹にもたれるということがありません。

お店はまだ開いていませんが、結構有名なブランド店が並んでいます。

この巨木の並木がいいですね。向こうからくる人、一瞬マツコ・デラックスじゃないかと
(爆)

 

ー続くー


フランス紀行[5]  アヴィニョン⑤ モロッコ料理を食す

2013年10月16日 16時28分50秒 | フランス紀行2013

この日の夜はこんな店を見つけてしまって。モロッコ料理店です。
フランス、スペインは結構アラブ料理店がどこでもある感じ。特にフランスのアラブ料理
は流石に食のお国だけあって洗練されたお店が多いというのが過去の経験値。 

 

壁には絨毯とかジャンビア(刀)とかモロッコの伝統工芸品が

この店主に寄れば壁に掛けられた絵はじいちゃんの当時の姿であるそうな。その昔、7世紀から
14世紀までフランス・イタリア・スペインを支配したアラブ人の末裔でありました。

店内は極度に照明を落として。デジカメでないと多分写せない(店内でフラッシュはやはり
不味いですよね)
海外の中華料理店なんかホント、暗闇で食事という感じの店が多いのですけど(笑)慣れないと
最初店に入るのも勇気が要ります。

これ調味料入れ。タジン鍋みたいなカタチをしてます。可愛いでしょう。絵柄もいいですね。

モロッコ料理の代表、「クスクス」。アフリカ大陸の西海岸のサハラ砂漠の上の国々で最も
ポピュラーな食事です。実はモロッコはフランスの植民地でありましたが、フランス人が
現地の主食であったとうもろこしの粉を使って仕上げたパスタなんです。異文化が交流して
出来た傑作だとボクは思ってます。

アフリカ大陸の東海岸ではこの習慣は根付かず、現在でもとうもろこしの粉を水で練った
ウガリ」と呼ばれるものが常食です。この理由は、東海岸は遊牧民が多く、クスクスの様に
熱を加えて加工するための燃料(薪)が不足していたからだとボクは思っていますが。
ウガリはケニアにいた時何回か食べてますが、うどん粉を水で練っただけのもの想像して戴ければ
理解できると思いますが、ボクにはとても食べられません。喉を通らないんです(苦笑)

その点、このクスクスは小さな粒がぷちんぷちんと口の中ではぜて、その食感がとても
嬉しいのです。

それにしてもこのクスクスの量の多いこと。丼メシ四杯分くらいはありました。いくら食べても
まだ残ってる(爆)

こうしてクスクスを皿にとって、このラム肉の煮付けを上にかけて食べます。流石、
フランス料理、味付けがさいこ~~。こちらの料理はアンズで煮込んでおりましたが、
アラブの果物デーツとかナッツとか松の実とかの色々な隠し味を使って、複雑系の
微妙な味わいでありました。

久々に美味しいクスクスを戴きました。え~と、因みに旧フランス領であった国々では
美味しいクスクスが食べられますよ。ベトナムのクスクスも押しなべて美味しい料理屋
が多かったです。フォーといううまい麺に飽きたら是非探してみて下さい。

そうそう、フランスではラム肉は高級料理の部類に入ります。純粋フランス料理も
いいのですけど、是非色々な国の料理を一回は楽しんでみて下さい。 中華、ベトナム
料理も厳しいフランス人の舌と目で鍛えられて、本場とは又違った味で、一層上品に
パワーアップしたものが食べられます。

 

ー続くー

 


フランス紀行[4]  アヴィニョン④ 夜の旧市街2

2013年10月16日 08時17分27秒 | フランス紀行2013

再び城塞の中に入り、散策を続けます。このあたりからメインの繁華街となるのですが、
ヨーロッパの場合、ケバい看板等やらネオンサインがないので非常に落ち着いて見えます。

レストラン街がずっと続いて。ヨーロッパの人たちって屋外で食事を楽しむのが本当に
好きですね。ボクはパリのカフェでコーヒー一杯で道行く女性を眺めているのは好きですが、
どうも食事を外でというのは、落ち着きません。

こちらは5つ星のホテル。現役時代は出張で5つ星は泊まったことはありますが、ここ
数年は星なしばかり。見るのはただですので(笑)、ちょっと覗いてみましょう。

恐らく昔の貴族の館をリノベーションしたホテルだと思いますが、やたらリビングルーム
が多かったです。ボク等のように朝から晩まで観光で歩き続けていて、ホテルは寝るだけ
という旅人には猫に小判。昔は年取ったらこういうリビングでゆったり過ごす旅をしたいね
なんて奥様と言ってたものですが・・・
やはり貧乏症のボク等夫婦には永遠に全く縁がないようです。

こちらはダイニング。写真奥の中庭までずっと続いて。一体何席あるんだろうという感じ。
でも、室内で食事をしている人は全然おりませんでした。

鈴蘭水仙(すずらんずいせん)のランタンが一杯。そうそう、この花はこのあたりが原産地
でありました。

 

ー続くー

 


フランス紀行[3]  アヴィニョン③ 夜の旧市街1

2013年10月15日 16時27分53秒 | フランス紀行2013

宿で暫く横になって休憩。
夜の9時近く徐ろに旧市街を散策に。明後日以降の見所を下見にです。

このアヴィニョンの観光資源は旧市街地に殆どあります。フランスでも珍しい城塞都市。
城塞都市といえばボクのヨーロッパ経験では、完全な姿をしているのはここと、スペイン
の「アビラ」とドイツの「ローテンブルグ」のみっつかなぁ。その中でもアビラが一番
規模が大きく、モスリムとの激しい戦いを連想させるものでした。こちらとかローテンブルグ
の城塞は寧ろある程度平和時のそれという感じがしますが、いずれにしてもほぼ完璧な
カタチで残っているのは素晴らしいことです。

明日以降の下見ということで城壁にそって散策。まぁ、人通りのすくないこと。バカンス・
シーズン前ということもありましょうが、とても閑静な街です。

この城塞都市はアビラ同様に世界遺産の指定となっており、城壁の外にでっかい観覧車が。
フランス人ってこの観覧車が好きですね。ルーブル宮のそばにも確か。そうそう、大阪にも
とんでもないところに、ビルの屋上かなんかにありましたっけ(笑)

夕日に映えるのはアヴィニョン教皇庁の宮殿。これは後日「登りに」(笑)行きます。
教皇庁宮殿と言ってもまるでこれも要塞です。

ローヌ川の向こうに夕日が沈んで行きます。ヨーロッパはこの時期から夏場まで
日が沈んでからが長いんです。いつになったら眠れるのって感じで(爆)

向こうに見えるる中途半端な橋。これがかの有名なアヴィニョン橋。これについては
また別途渡った時に。今回のこの地の訪問の最大の目的はここを渡ることでありました。

新しい橋の上で記念撮影。しかし、凄い格好をしてます(ボクのこと)
今回の旅行中は殆どこの格好で。手に持つ白いバッグには望遠レンズが
入っているだけ(笑)

法皇庁の大聖堂の上に立つ聖母マリア像です。

アヴィニョン橋。

 

ー続くー


フランス紀行[2]  アヴィニョン② ホテルの前で事故を目撃

2013年10月14日 16時50分22秒 | フランス紀行2013

スマホでの撮影です。
ここは在来線のアヴィニョン駅から徒歩5分くらいの距離にあるガード下。撮影している
ボクの後ろはこの日泊まるホテルがあるのですが。丁度画面の向こう側の歩道を歩いて
来て、「ああ、あそこが今日のホテルだよ」と奥様に向かって指さした瞬間でした。

突然ボク等の反対車線から一台の乗用車が横倒しになったまま、ボク等の方向
に突進してきたのです。

ありゃ、やばいなと思った瞬間、なんとこの円柱の支柱に車がぶつかって三本目で
漸く停止。もし、この支柱がなければ中央分離帯を乗り越えてきっとボクに直撃して
いたかも知れません。

写真は後続車が急停車して、後続車の乗客が急いで横倒しになった事故車のドア
を開けて、運転手を救出したところです。

幸いなことに運転手に大きな怪我はなかったし、他の車と接触するようなこともなくで
ほっとしました。それにしても、いきなり車が横倒してそのまま滑ってくるとは!
アクション映画ではよくあるシーンですが、なんでこんなことが起こったのか不思議。
この道にはコーナーなんてないので傾く原因が全く分かりません。こういう不可思議
なことって現実にあるんですね。

フランスの警察、消防もかなり優秀ですね。ものの5分もしないうちに必要車両が
全部そろいましたよ。それにしても、この鉄道のガード下で火災でも起こしていたら
大変。大過なくて本当に良かった。

こちらが泊まったホテル。こじんまりした良いホテルでした。

 

ー続くー


フランス紀行[1]  アヴィニョン① TGV駅

2013年10月13日 16時12分24秒 | フランス紀行2013

イタリアのジェノバを出たのが朝の9時。アヴィニョンについたのは夕方6時頃。
途中2回のトランジットがありましたので、それほど飽きるということはありません。
夕方だというのにヨーロッパの初夏の日差しはまだ強く、これから日光浴が十分
出来そうです(笑)

この駅はTGV専用駅。日本でも新幹線専用駅があるのと同じですね。
流石フランスが誇る高速鉄道だけあって、この駅舎もかなり、もだ~んな
造りになっています。日本もこういうセンスのある駅を今度のリニア新幹線
で採用して欲しいです。

ガラス張りの内部は全部乗降客のロビーになっていて。なんとまぁ、贅沢な空間設計
なんでしょう。日本なら確実に駅弁屋と立ち食い蕎麦屋、コンビニで所狭しとなるんで
しょうけど。

この内部の半分を使った大胆なスロープは旅行客には本当に有難いです。エスカレーター
もいいのですけど、大きなトランクを持って歩くと結構危ないことも。
今度の東京オリンピックの諸施設にはこういうバリアフリー的な設計が高齢化社会
には必要でしょうね。

駅舎のスペースとしてはかなりコンパクトでありますが、片面が全面開口、反対側
はルーバ形式の壁で閉塞感は全く感じられません。かなり秀逸なデザインだと
思います。

1階部分のコンコース。こういうふうに機能を完全に分けて。すっきりしていてとても好感が
持てました。

外からの外観です。こうして眺めていると日本の新幹線駅にも似ています。
この駅広から観光の中心である旧市街地へはシャトルバスで10分くらいの
距離にあります。結構旧市街地までの道は渋滞していて、倍の20分くらい
はかかったでしょうか。やはり夕方の帰宅ラッシュはどの国でも同じです。

 

ー続くー