里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

サンリンソウ、サンカヨウ、白花エンレイソウの花

2010年05月20日 | 庭の山野草
ヤフオクで、サンリンソウ、サンカヨウとエンレイソウの寄せ植え、白花エンレイソウ
(別名:深山エンレイソウ)を買ったが、綺麗な花をつけたままで送られて来たので
早速楽しませて貰った!
 
特に、サンカヨウは近々島根県の大万木山へ行って見学しようと考えていただけに、
もうこれで行かなくても良さそうだ?
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サンリンソウ(キンポウゲ科イチリンソウ属)→サンカヨウ(メギ科サンカヨウ属)→
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エンレイソウ(ユリ科エンレイソウ属)→白花エンレイソウ(ユリ科エンレイソウ属)→




臭亀?

2010年05月19日 | 動 物
家内が車で走行中に道路を歩いていた亀を見つけて持ち帰り、
「孫が夏休みに来た時に見せる」と、今から張り切っている!

どうせ世話をするのは私なので、ネットで調べてみたらどうやら“クサガメ”らしい?
未だ甲長が3cmほどの赤ちゃんなので育てるのが難しいかもしれないが、雑食性とい
う事なので何とかなりそうだ。

ところでクサガメは、襲われた時にくさい臭いを出すと言う。 ダボハゼ爺さんとして
は聞き捨てならず、早速鼻面を指で突っついてみた。 
すると、心なしか青くさいいやな臭いがした!  やはり“臭亀”君らしい?

〔クサガメ→甲羅〕
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クサガメ、臭亀(イシガメ科クサガメ属)
中国、韓国、日本の本州以西に生息するが、日本産の方が大きく甲長は最大30cm。
流れの緩い河川や、湖沼、水田などに生息する雑食性の亀で、子供の頃は“ゼニガメ
の名前で売られている。

〔名前の由来〕
襲われた時に、くさい臭い(苔の青臭い臭い)を出す事から“臭亀”と名づけられた。


ハヤトウリ

2010年05月18日 | 野 菜
道の駅で、発芽したハヤトウリを売っていた。
発芽したものに商品価値があるのか不思議に思い帰って調べてみると、実の中に1個ある
種が果肉と分離しない為に、実のまま植えつけるのだそうだ。 納得した!

ハヤトウリ、隼人瓜(ウリ科、ハヤトウリ属)、別名:千成瓜
熱帯アメリカ原産のウリ科の植物で、日本へは1917年にアメリカから渡来した。
日本では、主に味噌や酒粕に漬けて漬物として食べられるが、炒め物や煮物などにして
も食べる事が出来る。

〔名前の由来〕
日本では、最初に鹿児島へ渡来したので、隼人の瓜という意味で
“ハヤトウリ”と呼ばれるようになった。
別名は、1本の株に100個以上実をつける事から誇張して“千成瓜”と名づけられた。


ガク型の花が咲くガマズミ属

2010年05月17日 | 花 木
クロカンパークでは、今オオカメノキの花が咲いているが、この“ガク型”ガマズミ属
の仲間には次のような種類があるそうだ。

〔“ガク型”ガマズミ属の種類と特徴〕
名  称葉  の  形花序装 飾 花 の 形
オオカメノキ広卵形で葉脈が凹み皺状、鈍い重鋸歯無柄花弁5枚が同じ大きさ
ヤブデマリ長楕円形で先端は尖る、鋸歯は鈍い有柄花弁5枚で1枚は極小さい
カンボク広卵形で3深裂し先端は尖る、鋸歯は荒い有柄花弁5枚が同じ大きさ

一見すると、これらの“ガク型”はいずれも良く似ているように見えるが、
先ず、オオカメノキとヤブデマリについて比較してみると、装飾花の花弁の数がオオカ
メノキは5枚とも同じ大きさであるのに対し、ヤブデマリは5枚の内1枚だけ極めて小
さいので見分けられる。
左列:オオカメノキ右列:ヤブデマリ

次はカンボクだが、これは簡単だ。

ガク型の中で、この種類だけ葉が深く3裂
するので一番見分け易い。




オオカメノキ(スイカズラ科、ガマズミ属)
全国でブナ帯~亜高山帯に自生する落葉小高木だが、里山近くにも自生している。
花は5月頃に咲く。
果実は秋に稔り、最初は赤く後に黒く熟す。果実酒にすると美しい赤いお酒が出来る。
名前の由来は、葉が亀の甲羅に似ているので“大亀の木”と名づけられたが、
“大神の木”と言う説もある。 別名の“ムシカリ”は、葉を虫が好んで食べる事
から“虫狩”と名づけられたらしい。

ヤブデマリ(スイカズラ科、ガマズミ属)
本州以西で谷沿いの水分の多い場所に自生する落葉低木。
花は5~6月に咲く。
名前の由来は、藪に生え、花が丸く集まってつく為。

カンボク(スイカズラ科、ガマズミ属)
中部地方以北でやや湿った林縁、谷沿い、湿原などにに自生する落葉小高木だが、
中国地方にも点々と自生している。
花は5~7月に咲く。
カンボク(肝木)という名前の由来は不明。


クロカンパークのヒメザゼンソウ

2010年05月16日 | 山野草
昨日、ヒメザゼンソウがもう開花しているのではないかと思って道後山クロカンパーク
へ行ってみた。
しかし、あえなく空振りで全く花が咲く気配が無い!
今年は天候不順で余程時期が遅れているとみえて、今頃ようやくヤマザクラが満開だ。

我が家で花が終わった頃を目安に、もう山でも咲いてるのではないかと予測して行って
見るのだが、特に今年は空振りが多くガッカリさせられる。

木曜日に世羅町の“スズラン南限地:標高633.8m”へ偵察に行った時も僅か1~2株
咲いていただけで空振り、昨日のクロカンパーク(標高:700m)のスズランに至っては
まるで剣山のような有様で、開花時期を予測するのは難しい!
男鹿山で咲いていた1株クロカンパークの剣山?
男鹿山のレンゲツツジクロカンパークのレンゲツツジ

しかし、珍しくはないが幾つかの花が咲いていたのが、せめてもの慰めだった。 
次の観察会は6月6日だが、それまでにもう一回偵察に行って見るとしよう。
オトコヨウゾメ(スイカズラ科、ガマズミ属)ウワミズザクラ(バラ科、サクラ属)
サクラソウ(サクラソウ科、サクラソウ属)ヤマシャクヤク(ボタン科、ボタン属)
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フデリンドウ(リンドウ科、リンドウ属)

さて今回のお土産は、3ヶ所の道の駅へ寄ったのに、山野草は何もなくこれも空振り!

仕方なくてんぷら用にコゴミとコシアブラを
買ったが果たして調理して貰えるやら…?
心配だ!



ヒメウツギとアリドオシの花

2010年05月15日 | 花 木
ヒメウツギが未だ咲き続けている。
5号鉢に植えて小ざっぱりと育てているのだが、涼しげで香りも良くて気に入っている。

ヒメウツギ(ユキノシタ科、ウツギ属)→拡大
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もうひとつ、1月にホームセンターで買ったアリドオシも開花した。
“千両、万両、有り通し”の語呂合わせで、センリョウやマンリョウと共に正月の縁起物
として活けられるそうだが、私としては密かにこんな花(→)が咲く事を期待している!
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冗談はさて置き、このアリドオシの花はツルアリドオシに良く似ている。
同じアカネ科だから当然と言えば当然なのだろうが、一方が小低木なのに他方は多年草
で、木と草が同じ仲間とは素人にとっては何だか信じ難い!
アリドオシ(アリドオシ属)ツルアリドオシ(ツルアリドオシ属)、7月撮影



“仙酔島に残された地球変動の証”

2010年05月14日 | 地 学
先ず、開催者(福山市教育委員会)の話。
『5月10日が、H20年に制定された“地質の日”であり、
 広島県の天然記念物に指定されている岩脈・海食洞などがある仙酔島の遊歩道が、
 2004年の台風で崩壊後ようやく今年の4月に復旧した事から開催しました』

次いで、先生から“仙酔島の生い立ち”と、見学コース(①~⑩)についての話。
『仙酔島は、今から約9,000万年前頃(白亜紀)に、この辺り一帯で大規模な火山活動
 が起き、その時に噴出した高温の火山ガス・火山灰や岩片等が堆積して固まった流
 紋岩質溶結凝灰岩で出来上がったと考えられている』
『周囲約5kmの島の南側海岸沿いの遊歩道には、こうして出来た溶結凝灰岩以外にも、
 ・地下深くで出来た花崗岩が地表に現れた場所や、地下のマグマが岩盤を押し分け
  貫入して出来た岩脈、
 ・火山活動の激しい時に出来た断層や、火山活動が休止した合間に水底に堆積した
  “仙酔層”と呼ばれる地層など、様々な“地球変動の証”が残されている』

①海食洞

興味を掻き立てられた一行は、先ず渡船場の直ぐ近くの門を潜り出発。

以下は、随所で聞いた説明で、この小トンネルも元は小さな海食洞だったと思われるそうだ。
<>⑨火道→拡大

真ん中の窪んだ3角形部分が、マグマや火砕物が地上へ吹き出た通路(火道)で、その空間へ粉体と礫が堆積して堆積岩となっている。 この火道は枝葉の小さなものと思われ、他にもっとでかい火道があったと思われる。
<>⑨レンズ状溶結物(礫)→抜けた痕跡

火砕流が地表面で堆積する時に、岩片が押しつぶされて扁平なレンズ状となって固結したもので、大きさは数~10数cm。
これがあると火砕流の証拠となる。
②流紋岩質溶結凝灰岩と小断層群

画像真ん中あたりで白っぽく見えるのは凝灰岩層で、断層を境に食い違っており、画像の左の方でも幾つもこの小断層が見られる。
又、凝灰岩層の上下の厚い層には⑨で見られたレンズ状の岩片が見えるので、溶結凝灰岩と判断できる。
③仙酔層

先生の足元から頭上にかけて黒っぽく見えるのは、火山活動が一時衰えていた頃に、海底に凝灰岩質の泥や砂、礫が堆積して出来た地層で仙酔層と呼ばれる。
その上に見える白い地層は火山活動が盛んだった頃に出来た溶結凝灰岩の層で先生の立つ地下にも同様な層がある。
④貫 入
先ず、火山活動が活発な時に流紋岩質凝灰岩層(右)が出来、その上へ火山活動が休止した時に仙酔層(中)が堆積。
次いで、両者が断ち切られて断層を形成し、最後に珪酸の少ないマグマが貫入して、ひん岩の岩脈(左)を形成したと考えられる。
⑧複合岩脈

仙酔島(手前)と下加美島との間には、内側には花崗斑岩、その両サイドがひん岩というサンドイッチ状をした2種類の岩石が幅20mの岩脈として流紋岩質凝灰岩層へ鉛直に貫入した岩脈の水平断面が現れている。
⑤断層と海食

海水による侵食は断層に沿って進み、左側の奥に入り込んだ谷も侵食が進んだ事によって出来たと思われる。
<>⑦侵食が進む海食洞→その奥

⑥と同様に断層に沿って侵食が進んだもので、海食洞へ入って見ると正面の両側に断層があるのが見てとれる。
⑥海面より高い所にある海食洞

海水位の変動によって海面が下がってしまったと考えられる。
中央付近は鉄分を含む流紋岩なので赤く見え、周辺の色の異なる岩と併せて“五色岩”と呼ばれている。
⑩崩壊した海食門

昔、メガネ状になった海食門があったが、海水に侵食されて今ではW字形に崩壊してしまった。

と、マァこんな具合に説明を聞きながら回ったのだが、写真も撮らなければならず、
なかなか理解するのが難しかった。
しかし、仙酔島が小規模ではあるが、地学の宝庫である事は理解出来た!
先生の話では「また同じ内容の講座を計画している」との事なので、留年組として
は是非参加して勉強したいと考えている。


坂本竜馬所縁の地

2010年05月13日 | 歴 史
今年、福山市は竜馬一色で商魂逞しい!

その第一番目が“平成いろは丸”だ。
鞆町から対岸の仙酔島へ渡る航路に、今年の1月9日から就航した市営渡船だが、
言わずと知れた坂本竜馬ゆかりの船名のパクリだ。
定員99人、全長20m、高さ約10mの3本マストの小さな船を約8千万円で建造し、
大河ドラマに便乗して観光客を呼び込もうと言うさもしい考えだが、どうせ1年限りの
効果しかないだろう?

二番目は、“いろは丸事件”の交渉場所や沈没したいろは丸から引き揚げられた物だが、
建造物の価値は兎も角、竜馬絡みの話としてはこれらもあまりパッとしない!
竜馬宿泊跡(廻船問屋・桝屋清右衛門宅)紀州藩士宿舎跡(円福寺)
いろは丸展示館直談判跡(旧:魚屋萬蔵宅)

その他にも、例えばホテルなども“竜馬御膳”なるものをメニューに加えるなど、色々
な商売人が考えつく限りのアイデア商品を売り出しているが、これとても長続きしそう
にもなく、“竜馬”だけでは観光客を呼び込むほどのインパクトは無さそうだ!

聞くところによれば、シーズン中に鞆の町中で飾られる雛人形を見て回る観光客の方が
よほど多いらしい。 どうもご婦人方は歴史にはあまり関心が無いようだ。

いろは丸(160㌧)
坂本竜馬が伊予大洲藩から借りていた船で、1867年(慶応3年)鞆の浦沖で紀州藩の軍
艦明光丸(887㌧)と衝突して沈没。
竜馬は、鞆の浦の廻船問屋・桝屋清右衛門宅で大藩を相手に談判し、時には対潮楼に談
判の場を移し交渉するも決裂し、紀州船は強引に出航。
その後も粘り強く交渉して凡そ1ヶ月後に、紀州藩が8万3千両を支払う事となったが、実
際には7万両しか支払われず、しかも支払われる前に竜馬は京都の近江屋で暗殺された。


山中鹿之助の首塚

2010年05月12日 | 歴 史
鞆町には“山中鹿之助の首塚”というのがある。 
本名は山中幸盛といい、毛利元就に敗れた尼子氏を再興させる為に、
我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話がある事で有名な人の首塚だ。
場所は鞆城跡の北、嘗て毛利軍総帥・毛利輝元の本陣があった静観寺の門前だ。

静観寺山中鹿之助の首塚

当時、鞆には織田信長に都を追われた足利義昭が毛利元就の庇護の下に“鞆幕府”を
置いていたが、そこへ織田信長を後ろ盾に尼子家再興を目指しながら敗れた山中鹿之助
の首が首実験の為に送られて来て葬られたという事らしい。

何しろ一時期出雲一国をほぼ取り戻したものの又もや敗れ、毛利元就の次男吉川元春
に捕らえられた後、腹痛を装って何度も厠に入り、油断した監視の目を逃れて糞まみれ
になりながら脱走したと言われているほどの忠誠心だったそうなので、その忠誠心を感
じた者が葬ったという事だろう。

ところが、こんな忠臣の首塚の直ぐ傍の橋の袂には、今から約1700年前に何とも不謹慎
な連中が出没して居たらしい。 
首塚の説明と並んで書かれている説明を読むと、
「応神天皇(在位:270~310年)の頃、百済からの使節の接待役・武内臣和多利と官妓
 江の浦は、役目を忘れ夜毎この橋で恋を語っている事が噂になり、2人は海に沈めら
 れてしまった。 以来、この橋を“蜜語の橋(ささやきの橋)”と語り継がれている」
のだそうだ。

「何時の時代にも居るもんだな」と思いながらその橋の方へ目をやると、何と僅か1歩で
 渡れるほどの“ささやか橋”だった!
何だか、“はりまや橋”を思い出して、妙に納得してしまった!

尼子氏の興亡と山中鹿之助の運命
尼子晴久の時代には、出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後などの山陰・山陽
八ヶ国の守護となるほどの隆盛を誇ったが、その子義久の代には勢力を増した毛利元就
に居城の月山富田城を攻撃されて1566年に降伏した。

一方降伏に反対した家臣の山中鹿之助等は、織田信長を後ろ盾に尼子一族の尼子勝久
を立てて各地で戦ったが、播磨上月城で遂に敗北して勝久は自害し、尼子氏は滅亡した。
山中鹿之助は、当時織田信長に都を追われた室町幕府最後の将軍・足利義昭が鞆幕府
を置いていた、(現在の福山市鞆町の)毛利軍総師・毛利輝元の本陣へ護送される途中に
備中国・阿井の渡し(岡山県高梁市)で1578年に斬殺された。


平家の女官達の行く末

2010年05月11日 | 歴 史
嘗て、交易や潮待ちの為に多くの船が鞆港に出入りし、大可島の北側の麓には乗組員を
相手にする多くの遊女達が住んでいたのだそうだ。

現在でもそういった元遊郭の建物が何軒か残っており、その内の一つは明治時代末頃に
建てられ、その後旅館(旧対山館)に改造されたが、外観はほぼ当時のまま残っている
そうだ。

新対山館(画像後方が南の大可島)新対山館の西側の露地
露地奥の旧対山館(側面)露地奥の旧対山館(正面)

ところで、瀬戸内海を舞台に源平合戦が繰り広げられていた時代、
 ・1184年2月に“一の谷の合戦”で敗れた平氏は、屋島に逃れたものの、
 ・1185年2月には“屋島の合戦”でも敗れ、
 ・1185年3月に、遂に“壇ノ浦の合戦”で滅亡してしまったのだが、

この最後の、屋島(香川県)から壇の浦(山口県)に逃れる道中は実に悲惨で、足手ま
といになる女官達は鞆の浦で棄てて行かれてしまったという。
生きる手段のない女官達は、最も身分の高い上臈と呼ばれた者すら自ら身体を売って
生きるしかなく、この事から“上臈部屋”が転じて“女郎部屋”という言葉が出来たのだ
そうだ。

嘗て瀬戸内海の各地で栄えた遊郭も、やがて船が強力なエンジンを持つようになると、
潮待ちをする必要が無くなり廃れてしまった。
鞆の“旧対山館”も多分それで旅館業に転進したのであろうが、その後“新対山館”を
建設したものの昨年秋に至って破産してしまい、競売で同じ鞆町のホテル業者に買い
取られてしまう結果となってしまった。

何時の世も、時代に取り残されると悲惨な目に遭わされてしまう。
昨今の日本も、大企業は次々と外国へ進出して国内の産業は空洞化し、それに伴って
政治の世界も混迷を深めている。 時代の波に乗れない我々のような貧乏人は先行き
が心配でならない!