里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

“森の石松”の早とちり?

2008年12月21日 | 神 仏

次郎長親分の代参で金刀比羅宮に参拝した“森の石松”。
帰りに江州草津の見請山鎌太郎を訪ねた際、先年死んだ次郎長親分の奥さんへ
の香典として25両を託されたが、清水港近くまで帰って遠州中郡の都鳥吉兵衛を
訪ねたばかりに、そのお金を盗られた上に殺されてしまったのだそうだ。

金刀比羅宮の主祭神・大物主神といえば、航海の神・国や人々の平安を守ってくれ
る神の筈だが、その参拝の帰りに殺されてしまったとは合点がいかない!

何でも、途中の旭社が余りにも荘厳なので本宮と感ちがいし、親分から託された刀
を奉納してすっかり役目を果たしたと勘違いをしたらしい?
或いは、本宮に祀られている大物主神がそれを見て、自分が“しかと”されたと思
って怒り、お仕置きをしたのであろうか?

もしそうなら、もう93段石段を上って本宮を参拝していれば命を落とす事も無か
ったかもしれない?
いずれにしても、せっかちは身を滅ぼす元だ。 精々ゆっくり生きて行くとしよう!



神様は二重人格?

2008年12月20日 | 神 仏

「金刀比羅宮の主祭神は、大物主神(おおものぬしのかみ)で大国主命(おおくに
 ぬしのみこと)の和魂神(にぎみたまのかみ)である」
と書かれていたが、何の事か分からないので尋ねてみた。

すると、神道において神の霊魂には、人間の性格と同じように、
 ・荒玉(あらみたま)という荒々しい面と、
 ・和魂(にぎみたま)という優しく平和的な面の二つの側面があり、
和魂は更に、
 ・幸魂(さきみたま)という、運によって人に幸いを与え収穫をもたらす働きと、
 ・奇魂(くしみたま)という、奇跡によって直接に人に幸いを与える働きに分け
                られるという。

つまり、大国主命は荒々しい側面の出た神で、大物主神は優しい側面の出た神で
本来は同一の神なのだそうだ。
何だか分かったような分からないような話で、まるで神様は二重人格のような感じ
がしなくもないが、どうやら大国主神が不安定な日本の国を安定させて国造りをし、
平定した国を大物主神の持つ五穀豊穣や平安を祈る力で治めたという事らしい。

又、人々は神の怒りを鎮め荒玉を和魂に変える為に、供物を捧げ儀式や祭りを行う
のだともいうそうだ。
こちらは私にもよく理解できる。
うちの山の神などは荒玉しか持ち合わせていないほどの悪妻だが、供物を捧げると
俄かにご機嫌が麗しくなる。 何だか神様も人間と同じようで親しみを感じてしまう!


金刀比羅宮参拝

2008年12月19日 | 神 仏
登山の後はお決まりの温泉だ。
今回は“こんぴらさん”の麓の温泉に決まっていたが、ここまで来て温泉になど
浸かっては居られない。
何しろ、次郎長親分の代参で森の石松が金刀比羅宮に参拝した帰路に殺され
てしまったという話もあるし、私にとっても三十数年ぶりで実はこちらの方を楽し
みにしていたくらいだ!

という訳で、1368段の石段の先にある奥社を目指す事にした。


先ずは、駐車場の大センダンの木。 
大きさもさる事ながら、万葉の昔にはこの木の下で恋人同士がデートしたとか?
凡そ似つかわしくない話(→)が残っているそうだ。
>

表参道に入ると、参道脇には客を乗せて運ぶ駕籠もあったが、ウィークデーなので
随分参拝客が少なく乗る人は居ない。 いよいよ石段に差し掛かる。

暫く行くと、“金刀比羅本教総本部”というのがあった。
「主神である“大物主大神(おおものぬしのおおかみ)”の恵みを多くの人々に受
 けて戴き、教祖の“厳魂彦命(いずたまひこのみこと)”の教えを後世に伝える
 為に昭和44年に宗教法人を設立した」
のだそうで、戦国時代に神社の復興と布教に努めた“金毘羅大権現別当金光院”
院主だった金剛坊宥盛を、明治維新後の神仏分離令により“厳魂彦命”なる神名
に改めて、飽くまで神道として活動しているらしい。

それを過ぎると大門だ。 ここまで365段ある。
1650年に初代高松藩主・松平頼重公(水戸光圀の兄)から寄贈され、楼上の額の
“琴平山”の文字は有栖川宮熾仁親王の筆によるそうだ。

更に長い参道を進むと厩に神馬が居た。
神様が乗る為の馬で、生馬を奉納できない時には木や土や鋳物で馬形を造り献納し、
更には額に馬の絵を描いて献納したが、これが後に絵馬へと変遷したのだそうだ。

次は書院。 
社務所門を潜ると300年以上前に建てられた書院や御守所(→)があり、書院では
円山応挙の襖絵が公開されているが見る間なし。 
それにしてもこの他にも至る所に建屋がある。 宏大だ!
>

更に参道が続き、629段で旭社に到着。
祭神は、天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・伊邪那岐神・伊邪那美神・天照大
御神・天津神・国津神・八百万神などで、 
社殿には至る所へ天保美術の粋を集めた彫刻が施され、約40年の歳月を費やした
といわれているそうだが、時間がないのでゆっくり鑑賞できなかった。 残念!

鳥居の先の賢木門を潜るとようやく本宮に到着。 ここまで785段で海抜251m。
祭神は大物主神と崇徳天皇で、農業・殖産・医薬・海上守護の神として古くから
信仰されている。

(賢木門、本宮→向かって右の神饌殿)
>

本宮前には神木のクスノキがあり、幹の周りは約4.7m、高さは約25mあるそうだ。
本宮の北東側を望むと、さっき登った飯野山が見える。
飯野山を造ったといわれる“おじょも”という大男が、出来上がった飯野山とこの
金刀比羅宮の鎮座する琴平山(象頭山)に足をかけて用を足したところ、その間に
大きな土器川が出来たという伝説があるそうだが、二つの山は約10kmも離れて
いる。 どうも讃岐の人はほら吹きのようだ!

更に進むと、951段で白峰神社だ。
今から約820年前に建てられたもので、崇徳天皇と天皇の母親の待賢門院が祀られ
ているそうだ。

奥社はこれからさき石段を417段登らなくてはならず、未だ15~20分かかるそ
うで、時間がない為に今回は残念ながら参拝できなかった。
奥社は正式には“厳魂神社”といわれ、金刀比羅本教教祖の“厳魂彦命”が祀られ
ているそうだ。 又三十数年後に参拝するとしよう!


飯野山(讃岐富士)登山

2008年12月18日 | 
昨日は、今年最後の里山講座に参加した。
場所は丸亀市の飯野山(讃岐富士)で、今年の3月に山野草講座で“コクラン”を
見に行った山だ。

瀬戸大橋を渡り終える場所からは正面にお椀を伏せたような可愛い山が見えてくる。

登山口は前回と同じく南側で、お天気も快晴。 一同元気に登山開始!

ところが、暑かった! 
みんな厚着をしているところへ、日差しは強く風も無い為に暑いのなんの、てんで
に1枚脱ぎ2枚脱ぎしながらようやく頂上(標高:421.9m)に到着した!

頂上では先客のグループ(→)が、お互いに「300回記念」とか「200回記念」とか
讃えあいながら和やかに楽しんでいた。
>

残念ながら遠くは霞んでいる為に見晴らしはイマイチだったが、そんな事はものと
もしない我がグループは賑やかに昼食だ。

私は以前来た場所で珍しくも無く、しかも見るべき植物も無かったのでいささか退
屈したが、記念にこの飯野山を造ったという“おじょも”の足跡と、その後植えら
れた“おじょも桜”の写真を撮っておいた。



恐るべし“お題目”!

2008年12月17日 | 歴 史
福山市加茂町芦原に妙言という地域があり、そこに「南無妙法蓮華経」の経塔が立
っているが、この由来はかなり深刻だ!

言い伝えに寄れば、
「安永5年(1776年)に大旱魃が起きた時、天領の芦原村と福山藩の中野村との間
 で加茂川の分水を巡って大喧嘩が起きたが、
 この時中野村の庄屋は福山藩奉行所に訴え、芦原村の百姓頭は上下代官所に訴
 え、駆けつけた両者の役人の前で夫々の意見を主張したがおさまらず、結局権力
 の強い天領の役人の言いなりになり中野村は負けてしまった。

 おさまらない中野村の庄屋は、“道通さん(蛇神)”に願掛けをして芦原村の百
 姓頭を呪い殺してしまったが、殺された百姓頭は芦原村の庄屋の夢枕に立ち
 “この恨みを晴らして欲しい!”と懇願した。

 それを受け芦原村の庄屋は、屋敷の中に“南無妙法蓮華経”の経塔を中野村の
 庄屋の方向に向けて建てたところ、直ぐに中野村の庄屋も亡くなった」
という。 (※画像後方のお屋敷は無関係)

両者とも、神や仏の力を頼ってでも“殺してしまおう”と考えるほど憎しみが強く、
それほど旱魃が生死にかかわる深刻な状態であった事が窺われる話だ!

経塔というのは経文を彫ったもので、本来は仏祖の徳に報じる為に建てたり、地域
で信仰をする為に建てたり、祖先の供養の為に建てたりしたものだそうだが、呪い
にまで用いるとは正に世も末の感じがする。

昨今の経営者と労働者が、その昔に行われた不毛の闘いを繰り返す事の無いように
国を挙げて英知を絞り共に栄える世の中をつくって欲しいと願わずにはいられない!


雇用不安

2008年12月16日 | 政 治
昨今、急激な不況に陥り非正規雇用労働者の首切りが問題になっている。
新たな求人もない中で雇用保険や健康保険も無く、暮も押し迫って住む場所を追い
出されてホームレスになってしまった若者も出ているそうだ。

経営者達も、
「国際競争に打ち勝つ為にはやむをえない」「会社が倒産すると全員が失業する」
と主張し、今や35%を超える非正規雇用の労働者を雇用調節の安全弁として、
正に調節を始めたわけだ。 これから来年にかけて更に厳しい雇用状況が予測さ
れているそうだ。

H20・5・18 の朝日新聞の報道によれば、中村政則・一橋大名誉教授が1980年末
に提起した「「2千ドルの壁と1万ドルの罠」という経済と政治の発展に関する仮説
があるという。
つまり、一人当たりGNP(国民総生産)が、
 ・2千ドルに達しないと民主主義が定着せず、
 ・2千ドルの壁を超えると激しい民主化の波に洗われ、ようやく民主化が定着する。
 ・しかし、1万ドルを超えると経済は停滞し政治的緊張の波に洗われる。
という仮説だ。

これを日本について見ると、
 ・経済成長の果実が実感できた時代
  昭和30年代後半から高度経済成長が始まって2千ドルの壁を超え、激しい
  労働争議や学生運動が起きたが、やがて経済成長で中流層が多くなり所得
  や教育水準も高まって政治的にも安定。 
 ・成長の飽食感と共に方向を見失った時代
  昭和59年に1万ドルを超えると、貿易不均衡の是正を求められるようになり、
  金融緩和や公共事業などで内需主導に変える事などを試みたが悉く失敗。
  円高や企業の海外進出が進み国内産業の空洞化が進む中で、平成4年に
  3万ドルを超え、平成18年には34,181ドルになったが、GNPは世界20位
  に後退し人口減少と高齢化が世界最速で進む一方で、
  成長から取り残される不安と成長への懐疑が強まる時代に突入した。
という事になるらしい。

正しくその通りだ!
私の息子などもベビーブーマーの申し子で、就職氷河期の真只中で何とか就職して
連日深夜まで働かされているが、このような世の中の有様ではこの先心配でならない!
何としても、一生懸命に働く者が報われる世の中にしたいものだ!


御領遺跡の見学会

2008年12月14日 | 歴 史
12月11日の朝日新聞に、
「沖積平野で縄文期の住居跡が出土、県内初」「13日に見学会」と載っていた
ので、昨日見学に行って来た。

場所は国道486号線と国道313号線が交わる三叉路の東側で、東西1.6km・南北1.4km
にも及ぶ一帯は“御領遺跡”と呼ばれ、今までに縄文時代の土器片や弥生時代前期
から古墳時代前期にかけての環濠集落などの多数の遺跡が見つかっているという。

今回発掘された遺跡は、国道313号線バイパス工事に伴い発見されたもので、御領
遺跡の西端に位置し、北から(313号線沿いに)流れ出る堂々川に接している。
313号線から見下ろすと、東に井原線の高架が見え発掘現場はその手前だ。

未だ発掘途中だが今までに、次のようなものが見つかっているそうだ。
・縄文後期(紀元前1500年頃)の竪穴住居跡1軒(SB1)と土坑3基、土器類や石器
・弥生時代後期の土坑1基
・古墳時代前~中期の住居跡6軒(SB2、3など)、土師器や鉄製品・水晶
・時代不明の掘立柱建物跡4棟(SB6など)

(発掘現場→拡大)
<>

早速、説明を聞きながら見て回ると、
縄文時代の住居跡(SB1)は、6本の柱を立てた直径約5mのほほ円形で、周囲に
は溝が掘られ中心には炉の跡も残っているという。

残っている柱の跡は、嘗て土中に埋めてあった柱の下部の辺りで、今は何も残って
いない。 当時の地面は現在の地面とほぼ同じ高さであったと考えられているので、
柱は約50cmの深さまで埋めてあったという事らしい。

作業中の人に、「適当に穴を掘って住居跡などと言っているのでは?」と意地悪な
質問を投げかけると、
「遺跡の土は周辺の土と色が違う上に硬さも違うのでその部分だけを掘り取っている」
と返事が返ってきた。
近くの井戸らしき直径2mくらいの遺跡を見ると、底の方の土は明らかに色が異な
るし柔らかいようだ。 
成る程、どこかの“ゴッド・ハンド”のようなインチキはやっていないらしい!


古墳時代前~中期の住居跡(SB3)は、大きさが4.5×4mで、多くの土師器のほ
か鉄製品・水晶・動物の骨などが出土しているが、場所が堂々川の氾濫した跡に近
い事から、氾濫に関係した祭祀が行われた場所だと考えられているという。

(遺物を含んでいる部分(突起の部分)を徐々に発掘中)

今回発掘された遺物は今のところ次のようなもので、石鏃はサヌカイトでつくられ
ているそうだ。 
坂出市の国分台周辺や大阪と奈良の境にある二上山周辺で採れ、楽器などにも用い
られている非常に硬い石だそうだが、当時から往来があったとは驚きだ!
遺物の発掘作業縄文土器、鍬先
小型丸底壷石鏃と有孔円盤

そのほかにも、その他の御領遺跡から出土した弥生時代の土器も展示してあった。
左から、食器などを載せる台、高杯2個などの食器3個、米を炊く壷、食べ物や水を入れる壷

この御領遺跡には弥生時代の御領環濠遺跡があり、その西の方には大宮、亀山など
の環濠遺跡もあったが、今は残されていない。

公共事業で遺跡が見つかるのは良いが、今回発掘された遺跡も掘り取られてやがて
道路に変わってしまうそうだ。
古くから米作りをやっていた遺跡も、単に記録で残されてしまうだけでは如何にも
勿体無い。 何とか別の場所に復元してでも残して欲しいものだ!


福山城外堀遺構保存の“変”

2008年12月12日 | 政 治
今年の漢字は“変”に決まったそうだ。
日本の“首相交代”や米次期大統領の“変革”或いは株価暴落など、政治経済の
様々な変化が多かった一年を象徴する漢字として選ばれたという。

我が福山市でも今日、JR福山駅前の福山城外堀遺構を巡って“変”が起こった。
市議会の全員協議会で、今まで揉めてきた遺構保存について決着がついたらしい。
結論は、
「予定していた地下送迎場の規模を縮小し、遺構の大部分は残しておいて埋め戻す」
だそうだ。

何て事はない。 
ややこしい問題は将来の子孫達に任せ“臭いものに蓋”をしただけで、今まで
“スッタ モンダ”で時間と経費を浪費した挙句の果てがこれだ!

「これって、何だか変?」の“変”で、政治家も官僚も締りが無い事夥しい!


フウランの冬越し

2008年12月08日 | 山野草
友人がフウランをどのようにして冬越しさせているか見に行って来た。
すると、母屋の東側の南側だけ開放してある物置に吊るしてあった。
お天気が良くてミズゴケが乾燥している時には外に吊るして水をやり、日向ぼっこ
をさせてやるのだそうだ。

我が家では母屋の東側の軒下に吹きさらし状態で吊るしているのだが、
「まさか麻生首相より寿命が短いのでは…?」 と心配している。



九州女性は美人?

2008年12月07日 | 歴 史
昨日は“新市歴史民俗博物館”へ“福山市北部の発掘調査報告”を聞きに行って来た。
新市町・加茂町・神辺町で発掘された遺跡の調査報告だったが、先人達の暮らしの
一端を聞き非常に興味を持った。

そこで、先ず“加茂倉田遺跡”を訪ねてみた。
場所は加茂中学校北側にある正福寺の裏山一帯の尾根らしいのだが、お寺で尋ねて
見ると、
「福山市北部工業団地への進入路を造る為に工業団地の一角に移築された」という。

(東の石鎚山古墳から見た倉田遺跡、進入路で掘り取られた尾根と正福寺)

工業団地の脇の一番高い丘へ登ってみると、嘗て一帯にあった古墳群を集めて復元
してあった。 “粟塚古墳の丘”と名づけられているが、まるで古墳の団地だ!

(粟塚古墳の丘の全景、概略図→説明)
<>

目的の“加茂倉田遺跡”は? と探すと、何と古墳の丘の一番南東の隅に
“正福寺裏山1号古墳”のみ移築してあった。 どうやらその他の遺跡は移築され
なかったらしい!

(正福寺裏山1号古墳の石室と暗渠排水溝→説明)
<>

さて、今回の目的はその移築されなかった土壙墓群なのだが、説明板の中に航空
写真が載せられていた。

この土壙墓(素堀り又は木棺を埋葬した墓)群、弥生時代後半から古墳時代前期に
かけて造られたもので114基あるそうだ。

面白いのは、この土壙墓群に乗っかっている、桃色で示した3基の石棺だ。
2基のみ人骨が見つかり、いずれも青年女性のもので、やはり当時から女性上位だ
ったらしい! 
しかも、1の方は鼻が高く、2の方は平べったい顔をしている事から、前者は九州系
で後者は備後系の人間である可能性もあるらしい。 当時既に九州と往き来があっ
たのだとしたら驚きだ!

私の妻は典型的な備後系の顔で、お世辞にも美人とは言えない! 
九州系の人間は鼻が高いのだとすると、或いは美人が多いのだろうか? 何時か行
って確かめてみるとしよう!