福山市の広報誌に、
「“福山西洋医学の父、寺地強平”の業績を讃えた記念碑が建てられている」
と紹介してあったので行って見た。
先ず、
嘗て福山城外堀の南東側にあった、“同仁館”と呼ばれる医学校兼病院の跡地。
現在は銀行の生垣の中に“福山医学黎明の地”の石碑(→)が立っている。
碑文や広報誌の記事によれば、
1869年(明治2年)、福山藩は藩士青木勘右衛門の邸宅を買い取り、藩校の誠之館
教授・寺地強平を院長とし、西洋医学による藩立の大規模な病院兼医学校を開設し
て広く住民に開放し、大きな足跡を残したという。
福山城北西の小丸山にある“先人の森”には、阪谷朗盧の書による石碑(→)が建
てられていて、彼の業績を讃えているのだそうだが私にはチンプンカンプンだった!
しかし調べて見ると、当時の藩主・阿部正弘は幕末の動乱期に老中首座を務め、
数々の難局を処理したというし、理化学や博物学にも通じた寺地強平のような優秀
な人も数多く居たらしい。
福山の先人達も、我々が想像する以上に高度な知識や技術を持っていたようで、認
識を新たにした!
阪谷素(号は朗盧)(1822-1881年)の略歴
備中(現岡山県井原市美星町)の人で、幕末・明治の進歩的漢学者。
初め大阪で大塩平八郎に学び、江戸に出て昌谷精渓の門に入り、次いで古賀侗庵
に師事。 嘉永10年(1853年)興譲館初代館長となる。
寺地強平(号は舟里)の経歴(以下福山市の広報誌から引用)
・文化6年(1809年)藩士寺地幸助の次男として生まれる。
初め漢医方を学んで、
・文政12年(1829年)京都で開業したが、西洋医学を学ぶ為に長崎に3年間遊学。
更に江戸に上って坪井信道の門に入り、同門の緒方洪庵ら
と共に学ぶ。
・天保8年(1837年)福山に帰郷して開業すると共に、自宅で蘭書の講義をする。
・天保14年(1843年)老中に列せられた藩主阿部正弘によって江戸に召しだされ、
蘭書を講議。
・嘉永2年(1849年)長崎に牛痘がもたらされた際、多くの反対を押し切って福山
地方で種痘を施種。
・安政2年(1855年)新たな藩校(福山誠之館)開校後は、洋学寮教授に任ぜられ、
多くの学生を育てた。
・安政3年(1856年)藩主の命を受け、関藤藤陰らと共に東蝦夷を踏査して帰り、
開拓策を答申。
・明治2年(1869年)福山藩が藩立の医学校兼病院“同仁館”を開設。
寺地強平が校長と病院長を兼ね、洋方医官8人が36人の生
徒に近代西洋医学を教授。
・明治4年(1871年)福山藩解体に伴い、“同仁館”は廃止。
・明治8年(1875年)没(66歳)、福山木之庄村に葬られた。
「“福山西洋医学の父、寺地強平”の業績を讃えた記念碑が建てられている」
と紹介してあったので行って見た。
先ず、
嘗て福山城外堀の南東側にあった、“同仁館”と呼ばれる医学校兼病院の跡地。
現在は銀行の生垣の中に“福山医学黎明の地”の石碑(→)が立っている。
碑文や広報誌の記事によれば、
1869年(明治2年)、福山藩は藩士青木勘右衛門の邸宅を買い取り、藩校の誠之館
教授・寺地強平を院長とし、西洋医学による藩立の大規模な病院兼医学校を開設し
て広く住民に開放し、大きな足跡を残したという。
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福山城北西の小丸山にある“先人の森”には、阪谷朗盧の書による石碑(→)が建
てられていて、彼の業績を讃えているのだそうだが私にはチンプンカンプンだった!
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しかし調べて見ると、当時の藩主・阿部正弘は幕末の動乱期に老中首座を務め、
数々の難局を処理したというし、理化学や博物学にも通じた寺地強平のような優秀
な人も数多く居たらしい。
福山の先人達も、我々が想像する以上に高度な知識や技術を持っていたようで、認
識を新たにした!
阪谷素(号は朗盧)(1822-1881年)の略歴
備中(現岡山県井原市美星町)の人で、幕末・明治の進歩的漢学者。
初め大阪で大塩平八郎に学び、江戸に出て昌谷精渓の門に入り、次いで古賀侗庵
に師事。 嘉永10年(1853年)興譲館初代館長となる。
寺地強平(号は舟里)の経歴(以下福山市の広報誌から引用)
・文化6年(1809年)藩士寺地幸助の次男として生まれる。
初め漢医方を学んで、
・文政12年(1829年)京都で開業したが、西洋医学を学ぶ為に長崎に3年間遊学。
更に江戸に上って坪井信道の門に入り、同門の緒方洪庵ら
と共に学ぶ。
・天保8年(1837年)福山に帰郷して開業すると共に、自宅で蘭書の講義をする。
・天保14年(1843年)老中に列せられた藩主阿部正弘によって江戸に召しだされ、
蘭書を講議。
・嘉永2年(1849年)長崎に牛痘がもたらされた際、多くの反対を押し切って福山
地方で種痘を施種。
・安政2年(1855年)新たな藩校(福山誠之館)開校後は、洋学寮教授に任ぜられ、
多くの学生を育てた。
・安政3年(1856年)藩主の命を受け、関藤藤陰らと共に東蝦夷を踏査して帰り、
開拓策を答申。
・明治2年(1869年)福山藩が藩立の医学校兼病院“同仁館”を開設。
寺地強平が校長と病院長を兼ね、洋方医官8人が36人の生
徒に近代西洋医学を教授。
・明治4年(1871年)福山藩解体に伴い、“同仁館”は廃止。
・明治8年(1875年)没(66歳)、福山木之庄村に葬られた。