里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

福山医学黎明の地

2008年08月31日 | 歴 史
福山市の広報誌に、
「“福山西洋医学の父、寺地強平”の業績を讃えた記念碑が建てられている」
と紹介してあったので行って見た。

先ず、
嘗て福山城外堀の南東側にあった、“同仁館”と呼ばれる医学校兼病院の跡地。
現在は銀行の生垣の中に“福山医学黎明の地”の石碑(→)が立っている。

碑文や広報誌の記事によれば、
1869年(明治2年)、福山藩は藩士青木勘右衛門の邸宅を買い取り、藩校の誠之館
教授・寺地強平を院長とし、西洋医学による藩立の大規模な病院兼医学校を開設し
て広く住民に開放し、大きな足跡を残したという。
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福山城北西の小丸山にある“先人の森”には、阪谷朗盧の書による石碑(→)が建
てられていて、彼の業績を讃えているのだそうだが私にはチンプンカンプンだった!
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しかし調べて見ると、当時の藩主・阿部正弘は幕末の動乱期に老中首座を務め、
数々の難局を処理したというし、理化学や博物学にも通じた寺地強平のような優秀
な人も数多く居たらしい。 
福山の先人達も、我々が想像する以上に高度な知識や技術を持っていたようで、認
識を新たにした!

阪谷素(号は朗盧)(1822-1881年)の略歴
備中(現岡山県井原市美星町)の人で、幕末・明治の進歩的漢学者。
初め大阪で大塩平八郎に学び、江戸に出て昌谷精渓の門に入り、次いで古賀侗庵
に師事。 嘉永10年(1853年)興譲館初代館長となる。

寺地強平(号は舟里)の経歴(以下福山市の広報誌から引用)
・文化6年(1809年)藩士寺地幸助の次男として生まれる。
           初め漢医方を学んで、
・文政12年(1829年)京都で開業したが、西洋医学を学ぶ為に長崎に3年間遊学。
           更に江戸に上って坪井信道の門に入り、同門の緒方洪庵ら
          と共に学ぶ。
・天保8年(1837年)福山に帰郷して開業すると共に、自宅で蘭書の講義をする。
・天保14年(1843年)老中に列せられた藩主阿部正弘によって江戸に召しだされ、
           蘭書を講議。
・嘉永2年(1849年)長崎に牛痘がもたらされた際、多くの反対を押し切って福山
           地方で種痘を施種。
・安政2年(1855年)新たな藩校(福山誠之館)開校後は、洋学寮教授に任ぜられ、
           多くの学生を育てた。
・安政3年(1856年)藩主の命を受け、関藤藤陰らと共に東蝦夷を踏査して帰り、
           開拓策を答申。
・明治2年(1869年)福山藩が藩立の医学校兼病院“同仁館”を開設。
           寺地強平が校長と病院長を兼ね、洋方医官8人が36人の生
          徒に近代西洋医学を教授。
・明治4年(1871年)福山藩解体に伴い、“同仁館”は廃止。
・明治8年(1875年)没(66歳)、福山木之庄村に葬られた。


シラヒゲソウ

2008年08月30日 | 庭の山野草
今、庭でサギソウが花盛りだ。

それに次いで、シラヒゲソウ(上から見た花→横顔)も咲き始めた。 白い顎鬚の
お爺さんが5人頭をくっつけているような面白い形をしている!
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ウメバチソウとは同属だけに似た所もある。 共に可愛らしい花だ。 
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ウメバチソウの花(→拡大)07.9.21 竜王山シラヒゲソウの花
ウメバチソウの葉シラヒゲソウの葉

シラヒゲソウ、白鬚草(ユキノシタ科、ウメバチソウ属)
本州以西で沢や湿地沿いの斜面に自生する多年草。
根元から葉柄を伸ばして心形の葉をつけ、それとは別に茎を抱いて円形の葉もつける。
花期は8~9月で、白色の5弁花は、先が糸状に裂けている。 
花の中心の膨らみが花柱(雌しべ)で、その周囲に5本の雄しべがあり、更にその
外側には、先端が3分岐した5本の仮雄しべ(雄しべの変化した物で花粉は無し)
がある。

(名前の由来)
花弁の先端が白い鬚に見える事から“白鬚草”と名づけられた。



ショウジョウソウ(猩々草)

2008年08月29日 | 園芸種
盆以来、何だか雨が多くて幾らか過ごし易くなったのは良いが、今日などは雷雨で
何も出来ずスッカリ引きこもり状態だ。

ボンヤリ玄関先を見ると、ショウジョウソウが咲いている。
昨年どこからかやって来て居ついたもので、放っておいたらスッカリ数が増えてし
まった。

赤橙色の葉がまるで花のように見え、花の色から“猩々草”と呼ばれているらしい
が奇抜な植物だ。 おまけに、熱帯産の植物だというのに種子を落としては繁殖し
続けるタフな奴だ!

ショウジョウソウ、猩々草(トウダイグサ科、トウダイグサ属)
北米南部・ブラジルなどの熱帯各地に見られる多年草だが、日本では一年草。
花期は8月頃で、茎の先端に花弁の無い地味な花がまとまってつく。
葉はバイオリンのような形で、茎の先端近くではその基部が赤橙色をしていて、ま
るでそれが花の様に見える。 
(名前の由来)
茎の先端近くにつける葉の色を、猩々の赤い毛の色に見立てて名づけられた。

※猩 々
 ・オランウータンの別名。
 ・又は想像上の動物で、
  オランウータンに似て髪は赤く長く垂れるが、顔と足は人間に似る。 
  良く酒を飲むとされるので、転じて大酒呑みの人の事も猩々と呼ぶ。

  

憎っくきイノシシ!

2008年08月28日 | 動 物
舅の畑のサツマイモが全部イノシシに食べられてしまった!
私が毎年苗を買って届け、「高圧電線を張り巡らしておいた方が良いよ」と言うの
だが、「家の直ぐ前だから大丈夫」と取り合ってくれず、これで3年連続の被害だ。

この時期になると、イノシシやタヌキがやって来て全部食べてしまう。 
作物が稔った頃やって来て、年寄り達が丹精して育てた作物を横取りされるのだか
ら堪ったものではない。

先日(22日)にも、舅の家から遅播きトウモロコシを貰って帰ったばかりだが、
何とその夜に、イノシシがトタン板の垣を飛び越えて入り、大方食べてしまった
という。 おまけに、垣の下にトンネルを掘ってタヌキまで入って来るというから
始末が悪い。

田や畑を全部トタン板や高圧電線で囲っているのだが、それでも僅かな隙を突いて
イノシシやタヌキが入って来る。
その上、裏の畑ではカラスが毎日やって来てブドウを盗んで行くし、少し北の集落
ではサルまでやって来て農作物を掠め取ってしまうという。

限界集落の年寄り達とギャング達の虚々実々の駆け引きが毎日続けられている。
何とかならないものだろうか?


舅の誕生祝

2008年08月27日 | 家族・友人
舅が84歳の誕生日を迎えたので、食事に誘ってささやかに祝った。

場所は矢掛町の“石亭、松の茶屋”。 
昔は庄屋だった家を買い取って料理屋に改造したのだそうだが、外から見ると単な
る大きな古いお屋敷だ。

門を潜ると蔵が2棟あり、小川が流れている庭は大木こそないものの瀟洒な造りで、
昔はさぞお金持ちだった事をうかがわせる。

中に入って、客が少ないのを幸いにあちこち見て回ったが、食事をする場所から滝
が見える部屋もある。 昔の庄屋というのは大した暮らしをしていたらしい!

極めつけはその奥にある蔵を改造した部屋で、床下に一抱えもある銭甕が5~6個
もある! 戦後GHQがやって来て、屋内を徹底的に調べた時に見つかったもので、
それまで家人も知らなかったそうだ。 何とお金持ちというのはおおらかなものだ。

我々の家に、もしそんな物があろうものなら気になって仕方が無いのだろうが、
まあ、お金が貯まる前に使ってしまうので気にかける事も無さそうだ。
「一度くらい、銭甕を泥棒に盗られる心配をしてみたい」
と一同大笑いだ!

という訳で、貧乏一家が和やかに一日を過ごした。
何はともあれ、舅夫婦には元気で長生きをしてくれるように願うばかりだ!


モグラの博物館(2)

2008年08月26日 | 地 学

さて、お目当てのクジラの化石だが、
博物館が所蔵する物の一部がこのほど新種の化石と認められたのに伴い、それを
“特別展”として展示してあった。(以下全て比和自然科学博物館の資料から引用)

いずれも、嘗て中国山地の一部が古瀬戸内海であった頃(約1600万年前)の、
ケトテリウム科のクジラ(絶滅種)が化石となったもので、
・化石研究に功績のあった広瀬繁登氏の功績を讃えて“ヒロセヒバクジラ”、
・地域や発見者に因んで“ショウバラクジラ”、“ヤマオカクジラ”
と名づけられており、“新庄町産”の化石が新種と認められれば、これにも改めて
名前がつけられるらしい。

クジラ等の多くの化石が出ているのも驚いたが、化石が主に西条川(標高約240m)
などから出ているばかりか、庄原市の北にある標高1239mの吾妻山の山頂にまで貝
などの化石が出るといい、嘗てその辺りが瀬戸内海の底だったという事にも驚かさ
れた!

又、自然科学博物館も化石を発掘し、丁寧に保存している。
正に「良い仕事をしていますねェー」だ!

ヒロセヒバクジラの頭蓋骨後部
>
ショウバラクジラの頭蓋骨(→復元図)
ヤマオカクジラの顎
>
新庄町産クジラの全身(→産出状態)

中国山地の生い立ち
年代(万年前)地 球 環 境 の 変 化
20,000~長く海底にあった日本列島は隆起を始めて広い地域が陸地化した。
13,500~6,500中国地方一帯に激しい火山活動が起き、中国山地の元になる岩
石が生まれ中国山地の土台が出来上がった。
約1,600アジア大陸と地続きだった日本列島は陥没して低地になり、中国
山地の一部は古瀬戸内海の海底にあった。
530~165中国山地の各地で火山活動があり玄武岩が噴出したが、
吾妻山はこの頃(約180万年前)噴出した玄武岩で出来上がった。
165~ 1その後、日本列島は隆起してこの時代にほぼ現在の形になった。
その頃、中国山地の各地で再び火山活動があり玄武岩が噴出した。

約1600万年前の中国山地周辺の地形図

※備北層群:備北地方が古瀬戸内海の海底だった頃に、海底に堆積して出来た地層。



モグラの博物館(1)

2008年08月25日 | 動 物
先日TVで、
「庄原市比和町の“自然科学博物館”でクジラの化石を展示している」
と報道していた。

そこで、家内(運転手)を口説いて行ってみた。  
すると、何とそこは福田頭(毛無山)へ向かう途中にある、予てから気にかかって
いた場所だった。

何しろ、建物にはモグラの絵が描かれているし、道路上の下水道マンホールもモ
グラの絵だ。 いかにも面白そうで期待が高まる!

(比和自然科学博物館→下水道マンホール)
>

館内に入ってみると、主に中国山地に生息する10万点をこえる動物・昆虫・植物
などの標本が収蔵されていて、特にモグラ類などの小型哺乳類の標本は4,000点以
上もあり、“モグラ博物館” の愛称で親しまれているとの事。

成る程、ようやく納得した。 建屋は小さいが、展示してある標本は種類といい、
数といい圧巻だった!

(標本の一部)※以下全て博物館の資料から引用
>
世界のモグラ→中四国(?)のモグラ
>
ブッポウソウ→オシドリ



上帝釈峡 

2008年08月24日 | 
今回の“里山を歩く”講座は上帝釈峡。
吉備高原の一部にあり、
帝釈川が帝釈台(約3億年前の石灰岩などからなる標高500~600mの台地)を侵食
して出来た約18kmに及ぶ渓谷で、両岸には急峻な岩壁や岩峰が連なり、天然橋・
洞門・鍾乳洞なども見られる。
嘗て、黒部渓谷・昇仙峡・長瀞・長門峡と共に日本5大名峡に数えられて以来、多
くの人に親しまれている。

“野山の植物を楽しむ”講座でもよく行く所で、今回は上流の永明寺から下流の
神龍湖畔まで歩き渓谷美を楽しんだ。

先ず最初は永明寺(→拡大)。
今は石雲山を背景に本院のみが残っているが、昔は子院七坊を有していたそうで、
帝釈峡の名の起こりとなった帝釈天を祀ってあるのだそうだ。
帝釈天は、如来・菩薩・明王に次ぐ位の天部の一つで、仏教に帰依し仏教を護る神
とされているという。 
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次は、鬼の唐門と(→雄橋)。
過去の鍾乳洞の一部分だけが天然橋の形として残っているもので、唐門の高さは
約8m。 雄橋は、水面からの高さ約18m、長さ90m・高さ約40m・幅約19mで、
世界の三大天然橋の一つとされていている。
同様にして出来た雌橋の他に、白雲洞(鍾乳洞)などもある。
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“鬼の唐門”の近くには“鬼の供養塔”が立っている。
10mに及ぶ石柱は、帝釈天に命じられて雄橋・雌橋を造った、陰陽2鬼神の供養塔
といわれている。

このコースで気に入っているのがこの長閑な石塔。
幸神、さいのかみ”、“塞の神”、“才神”、“障の神”などとも呼ばれ、村落
の境界で悪霊を塞(さえ)ぎり村落の安全を守る幸福をもたらす神として信仰され
ているそうだ。
元々は、「古事記」で、死んだ妻の伊弉冉尊を黄泉の国に訪れた伊弉諾尊が、妻の
余りにも醜い姿に驚き逃げ帰る時、追っかけて来た妻を妨害しようとして投げつけ
た杖から生まれた神とされているとか。

まーるくて“幸神”と彫ってあり、傍にはユーモラスな甕が置かれ、キツネノカミ
ソリの花も咲いている。 いかにも幸せにしてくれそうな神様で、これを見てその
他の石塔などに興味を持つようになった因縁の石塔だ!

アッという間に、終点近くの“神龍橋”に着いた。
帝釈峡は秋の紅葉の頃が最も景色が良いが、何時来ても楽しませてくれる所だ!



ハブソウ

2008年08月23日 | 園芸種
上帝釈峡の駐車場脇の畑でたくさん咲いていたこの花。
てっきり、先日 Rohman さんがブログに載せておられた“エビスグサ”だと思っ
て写真を撮って帰ったのだが、
調べて見ると、小葉と果実のつき方から見てどうやら“ハブソウ”らしい?
(両者の差)ハブソウエビスグサ
小  葉長楕円形で4~6対、葉先は尖る倒卵形で2~3対、葉先は丸い
果実の鞘水平よりも上を向く湾曲して垂れ下がる
種子名望江南(ボウコウナン)決明子(ケツメイシ)
種子の形扁平卵形やや長い六角形

両者とも外来種のマメ科センナ属で良く似ていて、どちらも夏に5弁の黄色花をつけ、
秋に稔った種子は軽く炒って“ハブ茶”として飲まれるが、健胃・利尿・緩下などの
効果があるという。

ハブソウについては、
花が比較的大きくて美しいので切り花用に栽培されたり、葉をお茶にして飲んだり
する事もあるそうで、画像を改めて見ると確かに刈り取った跡があった。
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ハブソウ?(→実)
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エビスグサ、画像はRohmanさんから借用(→実)

(名前の由来など)
ハブに咬まれた時に葉の汁を塗ると効果があるとして導入された事からハブソウ
(波布草)と名づけられ、異国から導入されたのでエビスグサ(夷草)と名づけら
れた。

ハブ茶は、本来ハブソウの種子(望江南)を軽く炒ったものを指したが、現在販売
されているのはエビスグサの種子(決明子)を用いたものの方が多いという。


裁判員制度導入間近

2008年08月21日 | その他
来年の5月にはいよいよ裁判員制度がスタートし、これまでの裁判官3人に、裁判
員6人(場合により8人)が加わって、強盗や殺人・放火などの刑事事件を裁くの
だそうだ。

そこで、ど素人としてはいかにも心許ないので裁判所のHPの裁判員制度を覗いて
少し勉強をした。

先ず、H19年に於ける全国の刑事通常事件(一審)の事件数は97,826件で、その
内、裁判員制度の対象となる事件数は2,643件。 全体の約2.7%に過ぎず意外に
少ないらしい!

広島県の場合についてみると、
・裁判員制度対象事件数は、H15~19年の5年間の平均では約56件/年
・これを裁判員が加わって裁く訳だが、裁判員は各地方裁判所ごとに、管内の市町
 村の選挙管理委員会がくじで選んで翌年の裁判員候補者名簿を作成し、最終的に
 事件ごとに裁判員6人(又は8人)が選任される。
 つまり、1年間で最大56×8=448人の裁判員が必要となるという訳だ。 
・H20年6月に於ける、広島県内の選挙人名簿登録者数は2,331,489人だから、
 仮に、1年毎に448人ずつ順番が回って来るとしたら、5204年かかってようや
 く一巡する事になる。 
 実際には、事件数が増えたり、裁判員の中で都合のつかない人や不適格の人も
 居るので、これより早く順番が回ってくるかもしれないが、多くの人が勤めを果た
 さずに済みそうだ。
・裁判員の日当は1万円以内とされている一方で、知識も経験も無い素人が裁判官
 と同じように人の運命を決める重い責任を負う事になる。
 1年毎に5204人に1人は当たりくじを引く事になる訳だが、いくら国民の義務と
 はいえ、出来ればこの当たりくじは引きたくないものだ!