昨日は、新聞記事に釣られて、福泉坊のシダレザクラ見物に出かけた。
一帯は“
平家谷”と呼ばれ、今も平家の末裔達が住んでいるらしい。
狭い谷の入口には赤幡神社があり、その境内には平家谷の由来が書かれていた。
暫く進み福泉坊への分岐で細い坂道を登って行くと、
福泉坊裏手の駐車場に到着。
お目当てのシダレザクラは福泉坊の裏にあり、福山市の保護樹木に指定されているよう
だが、幹周り1.7m、樹高12mの
エドヒガンは樹齢が250年とは思えないほど樹勢があり、
若木と言ってもよいほど痛みのない木だった!
駐車場の脇では“
梟の石絵”なるものが展示してあり、どうやら販売もしているらしい。
福泉坊の横手には、“小宰相の局(平通盛の妻)”の墓があった。
この福泉坊の由来は、
『平通盛の遺子・平秀盛から15代目に当る平秀裔が、京都本派本願寺・顕如上人の時
に仏門に入って名を秀円と改め、天正10年(1583年)に平家歴代の菩提を弔う為に
“月高山福泉坊”を建立した。
現在の住職は、秀円から15代目に当る』 のだそうだ。
本来なら、我々のような備後の水呑み百姓の立ち入れるような場所ではなさそうだ!
次に、
通盛神社に向かった。
先ほどの分岐まで戻って右折して“ツバキ谷”に向かうと、正面の丘の上にあった。
由来を読むと、
『平通盛(教経の兄で清盛の甥)と妻・小宰相局の木造が祀られ、平家谷の氏神である。
旧暦8月13日の祭礼には、海戦で命を落とした平氏の魂が宿る“
平家蟹”が能登原の
海岸から山をよじ登って参拝に来たと語り継がれている。
嘗ては、藁で編んだ笠を被り、顔を隠して踊る“
すぼかずき”という素朴な踊りが奉納さ
れていた。
社殿の脇にある自然石が苔むす小さな墓は、通盛主従のものと伝えられている』
と言う。
何だか、全てが“負け組”を象徴しているようで、社殿にぶら下がった赤い紙垂(しで)や
墓の前に立てられた赤い御幣が物悲しく感じられた!