里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

福符義倉(ふくふぎそう)

2010年12月21日 | 歴 史
朝日新聞に、地元の作家・藤井登美子さんの執筆による“備後歴史紀行”が連載されて
おり、12月12日には“福符義倉”が紹介されていた。

義倉”や“社倉”というのは、天明大飢饉の悲惨な体験から全国各地に設けられた、災害
や飢饉に備えて米や穀物を備蓄する倉庫の事で、今も日本で2箇所だけ残っていて、その
一つが福山城の直ぐ東側に財団法人義倉として残っているというので訪ねてみた。
 
玄関の右手には、中心になって義倉を設立した千田村庄屋の河相周兵衛の像があった。
周兵衛は、8年もの年月をかけて目論見書作成し、文化元年(1804年)に帰藩された
藩主阿部正精公から義倉設立の認可を受けたそうで、“福府義倉”の名は藩主の命で
菅茶山がと名づけたという。

その目論見書の骨子は、
『深津村庄屋石井武右衛門から託された遺金の銀60貫と、同志の庄屋や豪商から募っ
 た240貫の銀のあわせて300貫を拠出して、当時財政難に喘ぐ福山藩が恥も外聞もな
 く石州銀山から借りていた借財銀300貫を肩代わりし、その見返りとして利息相当分の
 銀45貫を15年間に限り下賜を受ける約束を取り付け、これを元手に農村の疲弊を救済
 する』 というものだったそうだ。

周兵衛達が拠出した銀300貫は、
・現在の銀価格で言えば、300貫×3.75kg×@81,900円≒9,214万円に相当するが、
・幕府の通貨の交換レート(金1両=銀60匁=銭4貫文)で、1両が現在の価値で5万円
 と想定すると、5万円×(300×1000)匁÷60匁≒2億5000万円もの巨額となるらしい。

お金持ち達は一揆が起きると打ち壊しに遭う事が多く、同志の一人で銀30貫を拠出した
戸手村の庄屋・信岡平六の屋敷には、天明の一揆の際に品治郡や芦田郡の一揆勢が
屋敷になだれ込んだという。
いずれにしても農民や町人の窮乏を見かねて拠出したのであろうが、打算にしろ、義憤にしろ、その巨額さには驚いてしまう!
 
玄関の左手には、義倉田の石碑があった。
義倉が設立されて11年後の文化11年(1814年)、蓄積された基金で中津原村に初めて
1反3畝21歩の畑地を購入してこの石柱を建立したのを手始めに、天保9年(1838年)
には領内に53町歩の土地を所有し、昭和21年の“農地改革”でその全てを没収される迄
の140年余で実に120町歩余を蓄えていたという。

ただ単に食べ物を配ったり備蓄するだけではなく、“義倉田”を徐々に増やして基金が目
減りするのを防ぎ長期に亘って救済事業を継続しようと考えた、周兵衛達の先見性は現
代を凌ぐもので感心させられる!
 
天明の大飢饉で死んだ人の数は、正確な統計数字は無いものの、天明6年(1786年)
当時の人口2,509万人(※Wikipedia から引用)の約4%(100万人)に相当する犠牲者
が生まれたとも言われている。 

こうした悲惨な体験から、設けられた各地の“義倉”や“社倉”も明治新政府の方針で多く
は消えてしまったが、その中で“福府義倉”は戦時中の空襲で諸施設を消失したり、或い
は戦後の農地改革で田んぼの全てを没収される憂き目にあったが、今は僅かに残った
土地を原資に、設立の精神に立ち返って「福祉・教育・殖産等の公益事業の補助」を行
っているそうだ。

欧米には、ビルゲイツのように自分の残りの半生を慈善事業に捧げた人も居ると聞く。
日本にも、明治時代には日露戦争で増えた孤児を救う為に、経営する会社の利益の大半
(現在の金額で数百億円)を投入した大原孫三郎さんのような人も居たが、昨今大金持ち
が多いというのに、周兵衛達のように私財を投げ打って世の中に奉仕する人の話は聞い
た事が無い。
周兵衛達の遺志を引き継ぎ今もって活動を続けている財団法人“義倉”は貴重な存在で、
その200年余に及ぶ活動に敬服した!

以下、義倉資料館から引用
〔文化元年(1804年)設立当時の出資者〕 
石井 武右衛門深津村庄屋銀 60貫
河相 周兵衛千田村庄屋銀 15貫
信岡 平 六戸手村庄屋銀 30貫
神野 利右衛門城下の豪商銀 30貫
大阪 五軒屋城下御札座銀150貫
福井 常右衛門城下の豪商銀 10貫
大戸 久三郎府中の豪商銀  5貫

 
〔文政元年(1818年)追加出資者〕…大阪五軒屋出資分返済に充当
石井 武右衛門深津村庄屋銀 20貫
信岡 平 六戸手村庄屋銀 20貫
神野 利右衛門城下の豪商銀 20貫
河相 清兵衛周兵衛の分家銀 20貫
河相 料兵衛周兵衛の分家銀 20貫


〔福府義倉が、江戸時代の凶作に際し救済に充てた米の量
文政6年(1823年)3,120俵
天保7年(1836年)1,000俵
嘉永2年(1849年)1,000俵
嘉永3年(1850年)  500俵
嘉永6年(1853年)2,120俵
文久元年(1861年)1,320俵



天明の一揆

2010年12月20日 | 歴 史
朝日新聞に、地元の作家・藤井登美子さんの執筆による“備後歴史紀行”が連載されて
いて、昨日は天明の一揆を誓った場所である“素盞鳴神社”を紹介していた。

内容は、
『数年間に及んだ天明の飢饉では、福山藩でも長雨と洪水によって作物は稔らず、人々
 は飢餓に苦しんでいた』
『当時の4代目藩主・阿部正倫は幕閣への栄達を望んで、当時の権力者達に賄賂を贈
 り続けた為に財政が厳しく、農民や町人から過酷な収奪を行った』
『そして、天明6年(1786年)未明、蛇円山であげられた狼煙を合図に遂に一揆が勃発
 し、先鋒隊の品治郡や芦田郡の一揆勢は戸手村の天王社(現在の素盞鳴神社)に終
 結して庄屋の屋敷になだれ込み、同じく安那郡、深津郡、沼隈郡の農民も決起して天
 王社近くの天王河原に合わせて数万人が終結し、福山藩に対峙した』
『一揆の代表は大阪城代へ越訴する為に当時の法を犯して岡山領へ侵入し、万余の民
 衆は神辺平野へ集結して、昼夜となく大声で威嚇して仲間の安全を隣国へ訴え続けた』
『この時、悲願の老中就任を控えていた藩主は、隣国へ居座る一揆勢の存在を隠し通す
 事が出来ないと考え、公になるのを恐れて一揆勢の要求を丸呑みせざるをえなかった』
『こうして一揆は一人の犠牲者も出さずに収束し、知略を用いた民衆の完全勝利となった』
というものだ。

天王社(現在の素盞鳴神社)は、高天原を追放されたという“荒ぶる神”須佐之男命を祀ってある神社で、今は夏に行われる祇園祭での喧嘩神輿が有名だ。
近くの天王河原には、宝暦と明和の一揆の際にも農民達が結集したと言うが、農民達は
こうした荒々しい一揆を起こすに相応しい場所としてこの地を選んだのであろうか?



レア・ シュガー

2010年12月16日 | その他
昨日の日経には、香川大学希少糖研究センターの研究成果も載っていた。

内容は、
『香川大学を中心に、約10年にわたり産学官の研究を進めて来たが、今年は希少糖を
 使った甘味料の“スティックシュガー”などの新しいビジネスが生まれた』
『希少糖は自然界に微量しか存在しない約50種の糖の総称で、今迄は入手が難しく応用
 開発研究も困難であったが、自然界に大量に存在する天然型単糖(ブドウ糖、果糖など)
 から、新規に発見した酵素を使って大量に生産する事が可能になった』
『今年は、この技術で作った希少糖“D-プシコース”を使って“スティックシュガー”を商品
 化し、今後は“アロース”の医療分野への応用研究を進める』
『“D-プシコース”は、砂糖の7割程度の甘さがあり、体内で分解されない為にゼロカロリ
 ーで済み血糖値の上昇を抑制する効果もあるので、糖尿病の人や予備軍の人にとって
 極めて効果的な糖だ』
『“アロース”には、抗酸化作用があるので高血圧や脳梗塞などに有効性を期待しており、
 がん細胞の増殖を抑える効果にも期待している』
というものだ。

基礎研究の分野では“死の谷”という言葉があり、基礎研究を基に応用研究や事業化を
進める中で、資金や人材不足などにより事業化が難しい状態の事を言うそうだ。
香川大学で研究を始めた約30年前には「何の役に立つのか?」と言われたそうだが、
“死の谷”を乗り越えて事業化に漕ぎつけた研究者達に脱帽だ!

糖の分類〕…Wikipedia から引用
 ・単  糖(それ以上加水分解されない糖類)       
  グルコース(ぶどう糖)、フルクトース(果糖)、ガラクトース、マンノース、リボースなど
 ・二  糖(単糖2分子が結合したもの)  
  マルトース(麦芽糖)、スクロース(ショ糖、砂糖)、ラクトース(乳糖)、トレハロースなど
 ・三  糖(単糖3分子が結合したもの)
 ・オリゴ糖(単糖が2~20分子程度結合したもの)
 ・多  糖(単糖が2桁以上結合したものを言う事が多い)


効率よく 「石油」 を作る藻

2010年12月15日 | その他
12月15日の日経に、
沖縄地方で筑波大の渡辺教授が発見した「オーランチオキトリウム」という藻の記事が載
っていた。
 
『石油とほぼ同じ成分の油を作り出せる藻で、従来から研究している藻類と比べて一定の
 個体数から得られる油の量は少ないが、繁殖速度が極めて速いので生産性は12倍に
 達する』
『これまで知られていた藻類からの油の生産コストは1リットル当たり約800円と見られて
 いたが、今回見つかった藻の場合は1リットル当たり50円程度で生産出来る見通しで、
 本格的な商業生産には10年程度かかると見ている』

というもので、渡辺教授は「これほど効率よく石油と似た油を作る藻は世界でも例が無い
と話しているそうだ。

今年の3月には、ユーグレナ(東京大学発のベンチャー)が開発した技術を元に、
『長さ0.1mmの“ミドリムシ”を水槽やプールで人工的に培養し、その体に含まれる油分
 を抽出後精製する量産技術を確立し、1リットル当たり約70円で燃料を生産する計画』
という報道もあった。

資源の少ない我が国にとって面白い話だ! 
10年と言わず2~3年で、しかも「限界集落で商業生産をしてくれれば」と密かに期待して
いる!


一揆の英雄 “徳永徳右衛門”

2010年12月14日 | 歴 史
隣町に「江戸時代に一揆を指導した庄屋が居た」というので訪ねてみた。

先ず最初に、神辺町徳田の砂原池土手の生家跡地を訪ねた。

今は生家の痕跡も無いが、砂原池土手に金毘羅大権現の石灯籠が立っている辺りが
生家だったそうで、現在脇を流れている六反田川が高屋川へ注ぐこの辺りは満々と水
を湛えた沼沢だったという。
又、その生家は、明治10年頃に神辺からお嫁入りがあった時には、嫁入り道具を積ん
だ先頭の船が到着したというのに、最後尾の船は未だ神辺を出たばかりだ、というほど
のお金持ちだったそうだ。
南側から見た風景 (大木の下の金毘羅大権現石灯籠が立つ辺りが生家跡)
金毘羅大権現の石灯籠背後の砂原池

次に訪ねたのは、JR福塩線・湯田村駅の直ぐ北側の宝泉寺。

この寺の門前には、檀家10人が今年7月に建てた英雄の顕彰碑がある。
地元の作家・藤井登美子さんが、「天明の篝火」という小説で徳右衛門を主人公として取
り上げた事もあり「改めて、その功績を見直そう」という事になったらしい。
湯田村駅ホームから見える宝泉寺(左端が顕彰碑)参道を横切る福塩線!
参道脇にある顕彰碑

江戸時代は全期を通じて寒冷な時期で、冷害や 干ばつ、水害などが起きたばかりでは
なく、火山噴火も加わって凶作や飢饉が絶えなかったそうだが、
それに加えて、阿部氏が入封した時には石高が15万石から10万石に減らされていた上
に、幕閣の中枢に加わる事が多くて経費がかさみ財政が相当厳しかったらしい。

その為に福山藩では度々一揆が起きたが、この天明飢饉はよほど酷くて、いかな藩主
と言えども首謀者を打ち首にする事が出来なかったという事だろう。
「その後暗殺された」という説もあるらしいが、いずれにしても命をかけて訴えた庄屋に
対する村人達の思いが今に語り継がれているというわけだ。

政府に金はなく、ますます先細りの昨今の情勢を見ると、何だか「過去の江戸時代の話」
とは思えない。 「明日はわが身か?」と思うと身につまされる!

顕彰碑の碑文
 『江戸時代の天明年間(1770年代)全国的に飢饉があり、各地で百姓一揆が起こった。
  その中でも福山藩は、藩主が江戸詰めに在って大層な財政支出を余儀なくされた。
  未曾有な飢饉にもかかわらず、過酷な税金供出を迫られた民衆が一揆を起こした。
  安那郡徳田村の庄屋徳永徳右衛門は、藩に対して30ヶ条の要求を突きつけ越訴して
  一揆を成功させ、事実上の徳政令を勝ち取った。
  首謀者が獄門の刑に処せられるのが普通であった当時の法を省みず、立ち上がった
  徳右衛門は一人の犠牲者も出さずに一揆を成功に導いた』

江戸四大飢饉〕…Wikipedia から引用
名   称時   期被害の中心地原   因
寛永の大飢饉1642年~1643年
全国(特に東日本の日本海側)全国的な異常気象
享保の大飢饉1732年中国地方以西(特に瀬戸内沿岸)冷夏と虫害
天明の大飢饉1782年~1787年全国(特に東北地方)浅間山等の噴火による冷害
天保の大飢饉1833年~1839年全国(特に東北、陸奥国・出羽国)大雨、洪水と、それに伴う冷夏



ストレリチア(極楽鳥花)

2010年12月12日 | 園芸種
我が家の“極楽トンボ”が友人から、“極楽鳥花”の大きな株を貰って来たが、例によって
玄関脇へ放りっぱなしにしていた。

何時もの事なので仕方無しにあり合わせの12号鉢に植えたが、ちょっと鉢が大き過ぎた
ようだ。
調べて見ると、南アフリカ原産のバショウ科の常緑多年草で極楽鳥に似た花を咲かせる
らしい。 冬場は5℃以上に保ってやらなければいけないらしいが、こんなにでかい鉢を
狭い部屋のどこへ置けと言うのか?  マッタク、もぉ!



山野草育ては先ずドングリから

2010年12月11日 | 山野草の繁殖
“ササユリ山”には多くの桧が植林してあり落葉樹は極めて少ないので、桧を間伐した空間
へクヌギを植える事にした。
理由は二つ。 
 ・風に強い落葉樹と桧を混交植林すると、桧が台風で倒れるのを防ぐ事が出来る事と、
 ・落葉樹の下では、山野草が開花する初夏までは日当たりを遮る葉が無く、夏になると
  広い葉が暑い陽射しを遮ってくれる。 その上、落ち葉が適当な湿気と肥料を与えてく
  れるので山野草には良い事ずくめだからだ。

帰りに、久し振りに家内の実家へ寄ってみた。
ところが驚いた事に、1ヶ月前に納屋の軒先へ吊るしておいた干し柿が半分ほど無くな
っていた!
どうやら、実家の地方では今年は遅霜で柿の花芽が全滅したので、他人の家の軒下で
これ見よがしにぶら下がっているのを見て、つい“魔が差した”らしい?

よく、立木からサクランボやブドウが盗まれたり、田の稲や倉庫に保管中の新米が盗ま
れる話を聞くが、まさか自分の身の回りでそんな事件が起きるとは思いも寄らなかった。
それにしても、他人が苦労して作ったものをコッソリ盗んで行くとは許し難い!

つい、“ササユリ山”の“イノシシ除け大明神”の事が気になった。 無人の山中だけに黙
って持って帰られないとも限らない。
無くなってしまうと、3万円以上かかった費用が無駄になるばかりではなく、何よりイノシシ
に山野草が荒らされるのが困る。  私にとっては干し柿よりはるかに痛い!



薄幸の皇女の墓?

2010年12月10日 | 歴 史
今日の朝日に「中大兄皇子の娘の墓か?」と題する、次のような記事が載っていた。

『奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳の約20m南東で新たに棺を納める石室が見つかり、これに付近の地名から越塚御門(こしづかごもん)古墳と名づけた』
『日本書紀には“斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめひこ)を合葬し、孫の大田皇女(おおたのひめみこ)を御陵の前に埋葬した”と記述されているが、牽牛子塚古墳からは2人用の棺が納められる石室が見つかっている事から、二つの古墳の位置関係から見てこれら3人を埋葬したとする説が有力である』

『大田皇女の父は中大兄皇子(後の天智天皇)。
夫はおじの大海人皇子(後の天武天皇)で、斉明天皇(祖母)や夫と共に九州に遠征する途中に大津皇子と大伯皇女をもうけたが、夫が天皇に即位する前20代前半で世を去った。
大田皇女の子・大津皇子は母の死で後ろ盾を失い、謀反の疑いをかけられ24歳で命を絶ったとされている』
『中大兄皇子が母と妹のそばに若くして世を去った娘を葬ったのではないかと見る学者も居るが、宮内庁では牽牛子塚古墳の西約2.5kmの所にある車木ケンノウ古墳を斉明天皇陵、その近くの丘陵を大田皇女の墓と指定しており、現段階では陵墓指定の見直しはしない』

というもので、牽牛子塚古墳の位置は近鉄吉野線“飛鳥駅”の直ぐ西だった。

面白かったのは当時の風習で、
Wikipedia によれば、中大兄皇子は弟の大海人皇子に4人もの娘を与えたのだそうで、大田皇女の妹の鸕野讚良皇女(後の持統天皇)も大海人皇子に嫁し、九州に遠征する際に草壁皇子を産んだのだという。
いとこ同士なら最近まで聞いた事があるが、叔父にしかも4人も与えるとは驚きだ!!

天智天皇の子女の内で大海人皇子に与えた子女の名前〕…Wikipedia から引用
大田皇女鸕野讃良皇女、建皇子、御名部皇女、阿閇皇女、山辺皇女、明日香皇女、
新田部皇女、志貴皇子、大友皇子、阿閇皇子、阿雅皇女、川島皇子、大江皇女、泉皇女、水主皇女

天皇に仕えた女性の身分〕…Wikipedia から引用
皇后(正妻)・妃(正妻)・夫人(皇后・妃の次に位する後宮の女性で三位以上から選んだ)、
 嬪(寝所に侍する女官で四位・五位の者)

金星探査機“あかつき”

2010年12月08日 | 地 学
今年の5月21日に種子島から打ち上げられた金星探査機“あかつき”、
約5億2千万km飛行して金星上空千数百キロに接近したところで、逆噴射により金星を
周回する軌道に入れる予定だったのだが、残念ながら失敗してしまった。

上空を覆う硫酸の雲、自転速度の60倍にも及ぶ暴風、高濃度の二酸化炭素の温室効果
による460℃に及ぶ気温など謎だらけで、それが解明されるのを楽しみにしていたのに
ガッカリだ!
でも、未だ6年後にまた軌道に乗せるチャンスがあるらしい。 開発費と打ち上げ費用の
合計で250億円もかかったらしいので、小惑星探査機「はやぶさ」のように任務を果たして
くれるように期待している!

金星周回軌道での観測計画…宇宙航空研究開発機構(JAXA)から引用
(1)金星探査の目的  
 あかつきは、重さ約500kg、大きさ1.04m×1.45m×1.40mの箱型で、金星を周回する
 楕円軌道(金星からの距離300km~8万km)に投入された後、
 ・金星全体の気象現象や地表面を広い範囲で調べたり、
 ・金星から宇宙空間へと逃げ出す大気の観測や雲のクローズアップ撮影を行う。
 ・また、金星表面には自転速度の60倍にも及ぶ毎秒100mに達する暴風が吹き荒れて
  いるが、雲の下の大気や地表の様子を赤外線によって観測し、その謎の解明に迫る。
 ・その他にも、金星での雷の放電現象や、火山活動の有無等についても調査する。
  
(2)地球型惑星の比較
  金星は、太陽から約1億820kmの距離の所を公転していて、地球と共に約46億年前
  に誕生したと考えられる地球型惑星で、岩石の地面をもつ惑星である。
  大きさや密度が地球と同じくらいであるため、金星は地球と似た過程で作られた双子
  のような惑星であると考えられているが、その環境は地球とはかなり違っている。
  海はなく、大気は地球に比べて乾燥していて主に二酸化炭素からなり、その量がとて
  も多い為に地表気圧は90気圧にもなる。
  高度60km辺りには硫酸の雲があり、この雲は地球の雲と違って惑星全体をすき間
  なく覆っていて、時速400kmという速さで東から西へと流れている。
  地表気温は460℃にも達する。
地球型惑星の比較金 星地 球火 星
太陽からの距離(長半径、億km)     1.08     1.50     2.28
赤道半径 (km) 6,052 6,378 3,397
質量 (10の24乗kg)     4.87     5.97     0.64
公転周期 (日)   225   365   686
自転周期 (日)    243.0      1.00      1.03
表面の温度 (℃)    460    17   -60
表面の気圧 (hpa)   92,100   1,013      5.6
大気の主成分二酸化炭素96.5%窒素・酸素二酸化炭素95.3%

(3)地球型惑星の大気大循環のイメージ
  地球では、熱帯地方では自転と逆方向の東風(貿易風)が吹き、中緯度や高緯度
  では自転方向の西風(偏西風)が吹いているが、偏西風の風速は30 m/秒程度で
  赤道での自転速度460 m/秒の1割にも達していない。
  それに対し、金星の雲はどこでも自転と同じ方向に 100m/秒もの速さで流れ、赤道
  での自転速度1.6 m/秒の60倍もの速さで回っている事が分っている。
  この風は、自転速度を超えて吹くという意味で“スーパーローテーション”と言われ、金
  星最大の謎の一つとされていて、これを解明するのが今回のミッションの大きな目的
  とされている。
  


宇宙生物学上の発見?

2010年12月03日 | その他
NASAが先月末に、「宇宙生物学上の発見に関する記者会見を開く」と予告して以来、
世界中で「地球外に生命体が発見されたのではないか?」「宇宙人?」「UFO?」等と
様々な憶測が広がっていた。

ところが、今日発表された内容を見ると、
『カリフォルニア州のモノ湖(砒素を多く含む塩水湖)で、生命の必須元素の一つである
 リンが無い環境でも生きられる細菌を発見した』
『通常、生物は必須元素(炭素、酸素、窒素、水素、硫黄、リン)を摂取して体を作り生
 きているが、この細菌はリンの代わりに猛毒の砒素を大量に食べて生長出来る事が
 分った』
という、何だか肩すかしを喰らったような話だった!

どうやら、「宇宙には今までの常識では考えられない生物が存在する可能性がある」
という事らしい。 何はともあれ、エイリアンでなくてよかった!

細菌…Wikipediaより引用
大腸菌、枯草菌、シアノバクテリアなどを含む生物群。 形状は球菌か桿菌、ラセン菌が
一般的で、通常1-10 μmほどの微小な生物。 地球上のあらゆる環境に存在しており、
 ・チーズ、納豆、ヨーグルトなどの発酵に用いられたり、食物の消化過程には欠かす事
  が出来ない。 
 ・一部のものは病原細菌として、ヒトや動物の感染症の原因になる。