里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

山中鹿之助の首塚

2010年05月12日 | 歴 史
鞆町には“山中鹿之助の首塚”というのがある。 
本名は山中幸盛といい、毛利元就に敗れた尼子氏を再興させる為に、
我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話がある事で有名な人の首塚だ。
場所は鞆城跡の北、嘗て毛利軍総帥・毛利輝元の本陣があった静観寺の門前だ。

静観寺山中鹿之助の首塚

当時、鞆には織田信長に都を追われた足利義昭が毛利元就の庇護の下に“鞆幕府”を
置いていたが、そこへ織田信長を後ろ盾に尼子家再興を目指しながら敗れた山中鹿之助
の首が首実験の為に送られて来て葬られたという事らしい。

何しろ一時期出雲一国をほぼ取り戻したものの又もや敗れ、毛利元就の次男吉川元春
に捕らえられた後、腹痛を装って何度も厠に入り、油断した監視の目を逃れて糞まみれ
になりながら脱走したと言われているほどの忠誠心だったそうなので、その忠誠心を感
じた者が葬ったという事だろう。

ところが、こんな忠臣の首塚の直ぐ傍の橋の袂には、今から約1700年前に何とも不謹慎
な連中が出没して居たらしい。 
首塚の説明と並んで書かれている説明を読むと、
「応神天皇(在位:270~310年)の頃、百済からの使節の接待役・武内臣和多利と官妓
 江の浦は、役目を忘れ夜毎この橋で恋を語っている事が噂になり、2人は海に沈めら
 れてしまった。 以来、この橋を“蜜語の橋(ささやきの橋)”と語り継がれている」
のだそうだ。

「何時の時代にも居るもんだな」と思いながらその橋の方へ目をやると、何と僅か1歩で
 渡れるほどの“ささやか橋”だった!
何だか、“はりまや橋”を思い出して、妙に納得してしまった!

尼子氏の興亡と山中鹿之助の運命
尼子晴久の時代には、出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後などの山陰・山陽
八ヶ国の守護となるほどの隆盛を誇ったが、その子義久の代には勢力を増した毛利元就
に居城の月山富田城を攻撃されて1566年に降伏した。

一方降伏に反対した家臣の山中鹿之助等は、織田信長を後ろ盾に尼子一族の尼子勝久
を立てて各地で戦ったが、播磨上月城で遂に敗北して勝久は自害し、尼子氏は滅亡した。
山中鹿之助は、当時織田信長に都を追われた室町幕府最後の将軍・足利義昭が鞆幕府
を置いていた、(現在の福山市鞆町の)毛利軍総師・毛利輝元の本陣へ護送される途中に
備中国・阿井の渡し(岡山県高梁市)で1578年に斬殺された。