里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

木次線のトロッコ列車

2008年09月30日 | その他
一昨日、家内と一緒に「木次線のトロッコ列車に乗るバスツアー」に参加した。

先ず、バスでJR備後落合駅に到着。 備後落合は芸備線(備中神代⇔広島)の途
中にある駅で、ここから木次線(備後落合⇔宍道)につながっている。
嘗ては、備中と安芸、山陰と山陽を結ぶ要衝として栄えたそうだが、今は見る影も
無く無人駅だ!

(備後落合駅舎→路線図)
>

列車は、先頭がディーゼル機関車で、2両目は普通の客車、3両目はトロッコ車で
窓は無くて椅子は木のベンチだ。 指定席券を買っておくと、トロッコ車が寒い時
や吹き降りの時などには2両目の客車にも移れるので心配は無い。
>

いよいよ出発だ。
三井野原を過ぎると、前方にお待ち兼ねの“おろちループ橋”が見えてくる。
平成4年に開通した、三井野原と坂根を結ぶ日本最大規模のループ式の道路で、
11の橋と3つのトンネルからなる。
・メインの赤い三井野橋は、奥出雲を代表する“たたら製鉄”の炎や、おろちが噴
 く火などをイメージし、
・二重のループは、二重にとぐろを巻くヤマタノオロチをイメージして建設された
 という。
総工費が140億円かかった(?)らしくて、流石に壮大だ!
>

さて、今度は我々の列車が出雲坂根へ向かって下って行く番だ。 
3段式スイッチバックといって、三井野原駅と出雲坂根駅の間で一度、出雲坂根駅
でもう一度方向転換して、標高差167mを下って行く。
>
>

ディーゼル機関車の煙を吸いながら、中学校の修学旅行で行った九州のスイッチバ
ックを思い出し、久しぶりに童心に返り楽しませて貰ったが、もっと面白い事があ
った。

出雲坂根駅には“延命水”という有名な水が出るのだが、駅構内の水は如何にも出
が悪い。 そこで、止せば良いのに一組のツアー客が、もっと水の出が良い駅より
ずっと下の水を汲みに行ったものだから乗り遅れてしまったのだ!

列車の車掌とツアーの添乗員が大慌てで、我々の降りる予定の出雲横田駅と連絡を
とりあったが、そんな苦労をよそに、出雲坂根駅の近くの手馴れた店の人が列車を
追い抜いて一つ手前の駅まで送ってくれたので、何食わぬ顔で乗り込んで来た!

仲間の客は、半分嫌味で「良いオプションでしたね!」と冷やかした。
ローカル線の旅は親切な人にも出会え、色々なハプニングもあるので結構面白い!


朝日自然教室「宮島」(2)

2008年09月29日 | 野外講座

昔、神様が自分のあちこちの体毛で色々な樹木をつくり、杉や楠からは船を、桧か
らは家をつくれと人間に教えたのだそうだ。
又、お尻の毛から高野槙をつくりこれからは棺おけをつくれと教えたのだそうだが、
死人を神様の尻の毛で葬れとは…!?
しかし、神様の真意は全く分からないものの、高野槙からつくられた棺おけは最高
なのだそうだ。

余談はさて置き、宮島には楠が多く自生しているが、
水に強い性質を持っている事から、神様の教えを応用して平安時代から水中に立つ
大鳥居に用いられていて、今はその鳥居を建て直す為に1000年委員会を作って楠の
木を保護しているのだそうだ。

しかし、何しろこの大きさ、島の楠の木は度々の台風で相当数が倒れてしまい、果
たして1000年後に鳥居用の楠の木が確保できるのかどうか危ぶまれているという。

(海側から見た大鳥居→社殿)
>

このような努力をしている人達がいる反面、宮島では今年山頂に至る登山道の樹木
や岩などに多くの赤い印がつけられる騒動があった。
ただ単に世界遺産であるだけではなく、神様のつくった木にこのようなに落書きをす
るとは許し難い連中だ!



朝日自然教室「宮島」(1)

2008年09月28日 | 野外講座
昨日、朝日新聞と森林文化協会の共催で、「厳島神社弥山原始林山麓を歩く」とい
う催しがあったので、一昨年の3月に続き2回目の参加をした。


講師は、宮島にある「広島大学宮島自然植物実験所」の先生で、概要の説明の後で
早速探索を開始した。 すると、いきなり「宮島では珍しい植物」を紹介された。

(講師の説明を聞く参加者→宮島では珍しい植物)
>

珍しい理由は鹿の食害で無くなるからなのだそうだ。 何しろ鹿が立ち上がった高
さまでは、どこまで行っても全く植物が見当たらない!

(鹿→食害跡)
>

僅かに食害から逃れたのは、ハスノハカズラ・トラノオジソ・ダンドボロギクくら
いなもので、これらは余程嫌いらしい!



ヒガンバナとマメアサガオ

2008年09月27日 | 山野草
近くの川の土手でヒガンバナが群生していた。 
実はつけ無い為に、分球のみで長い年月かかってここまで殖えたものだ。
 
昔、中国から渡来し、
・鱗茎が有毒なので田の畦や墓地に植えて、ネズミ・モグラやその他の動物の進入
 を阻止するのに使ったり、
・薬用に用いたり、デンプンを含有するので飢饉の時などに食用としたらしい。

彼岸花・曼珠沙華・墓花・死人花・地獄花・幽霊花・狐花・仏花など、実に多くの名前で
呼ばれているそうだが、私の地方ではキツネバナだ。
何本も花を集め、ネックレスを作ったり、竹かごに挿して花神輿を作って遊んだものだ!

土手には、マメアサガオ(白色花)とベニバナマメアサガオ(淡紅紫色花)も群生
し、2cmにも満たない小さな花をつけていた。
こちらは北米原産で、私が子供の頃には見た事も無かった。



芦田川大渡し跡

2008年09月26日 | 歴 史
江戸時代に山陽道を東進する場合、現在の大渡橋の少し北の郷分側から芦田川を東
岸に向けて渡っていたそうだ。

当時は現在のような大きな橋は架けられていなくて、普段は川の中を歩いて渡り、
冬季になると1枚板の仮橋が架けられ、大水の時は渡し舟で渡っていたという。

今は、当時の名残りは何も残っていないが、大渡し跡を示す立て札のみが立てられ
ている。

(下流側から見た山陽道脇の大渡し跡→立て札)
<>

その場所の直ぐ西側の丘の中腹には神社があり、境内には渡し舟の安全を守る為の
灯台の役目をする“帰帆燈籠”が今も残されている。

(丘の中腹の神社→帰帆燈籠)
<>

国防の為に大きな橋を架けなかったのか、或いは技術やお金が無かったのかは分か
らないが、ここまで大真面目に「下にー! 下に!」とやって来た大名行列も、ここで
一斉に尻はしょりして褌まる出しで渡ったのだ。
当時のお百姓さんも「ざまを見ろ! 間抜けな姿だ!」と溜飲を下げたのだろうか?


芦田川砂土手の話

2008年09月25日 | 歴 史
(御幸町郷土史研究会の「備後福山御幸町の昔話(2)」から引用)

江戸時代に芦田川の堤防を築いた時、福山城と城下町を芦田川の洪水から守る為に
様々な工夫(?)がされたらしい。

先ず、東岸(城側)の堤防を西岸の堤防より高くして洪水の際には水が西岸の郷分
や山手村の方へ溢れるようにし、
そして、決め手としては、上流の芦田川が大きく蛇行する羽賀付近で堤防を一箇所
だけ94mにわたって水面よりやや高い程度の“乗越堤”と呼ぶ低い堤防(赤丸
にしてこの場所で洪水を溢れさせる事で福山城と城下町を守ったのだ!


当然の事ながら、一旦大雨が降って水かさが増えると洪水は乗越堤を越え、放水路
(昔の川の跡)を抜けて森脇・中津原・岩成の平野は水浸しになる訳で、何とこの
地域の住民は江戸時代を通じて洪水の苦難を強いられたという!

しかし、明治10年頃に至りこの地域の住民もようやく自衛手段として、乗越堤へ
砂を盛って砂土手を築くようになったが、それに対し羽賀で堤防が決壊してくれた
方が都合が良い下流の郷分・山手村の人達との間で争いが絶えず、明治38年に
なって「3尺の高さの砂土手までは認める。その基準となる石柱を設ける」という条
件で何とか決着したという。

嘗て砂土手があった一帯は今や福山ゴルフクラブのゴルフ場に変わっていて、砂土
手の痕跡は全くないが、砂土手があった事を示す説明板のみが埋め込まれている。

(上流から見た砂土手跡の遠景→近景、説明板) 
<>

又、「砂堰(せき)高三尺」と刻まれた砂土手の高さの基準となる石柱は、

「我々芦田川沿岸地方住民の命を守るための多年悪戦苦闘の古戦場の羽賀砂土手
の由緒あるこの標柱、めまぐるしく変わる世の中、あとかたもなく消えてなくなる事を
おそれ、ここに移築して、祖先の恩を感謝する材料とする」
という意味の言葉を刻んで、昭和8年に森脇八幡神社の境内に移されている。

(石柱→先端部分)
<>

さて、この砂土手の話から私はつい、派遣やパートなどの非正規社員として働かさ
れている現代の若者達と相通じるものを感じてしまった。
 
この1700万人を超える若者達、低賃金の為に結婚する事も出来ないばかりか、景気
が悪くなると一番に首を切られてしまう、まるで企業を守る為の砂土手のように見
える! ここに来て、サブプライムローンに端を発した金融不安から世界中の景気
が停滞し、若者達の先行きが非常に心配でたまらない!


志川滝山城の攻防

2008年09月23日 | 歴 史
加茂町四川を遡ると正面にかなり険しい山があり、その山頂(標高:396m)の山
城を巡って、今から456年前に激しい攻防戦があったそうだ。

(下流の四川ダム堰堤から見た志川滝山城跡)

備後南部・神辺平野での覇権を失いつつあった宮入道光音が、一族を糾合し尼子氏
を後ろ盾に、失地回復を狙って安芸の毛利氏を迎え撃ったものらしい。

(更に上流にある大谷池の堰堤に立つ説明板)

戦いは、城の弱点である西方の尾根続き(画像の後方)で主に行われ、毛利方にも
226名にも達する戦死傷者が出たという。
戦には石礫なども多く使われたそうで、府中市歴史民族資料館に展示してある資料
によれば、阿曾沼廣秀の部隊の負傷者17人の内10人が石礫によると報告されて
いるほどだ。

毛利勢の攻撃で志川滝山城は落城し、敗走した宮入道光音は現在の郷分町で討ち取
られたという。

備後地方では、今から約450年前に至る所で毛利・尼子の合戦があり、多くの死者
が出たようだ。 ひょっとして、今でもその怨霊達が出没しているかもしれない?

(郷分町・山陽道高架下にある宮入道光音の首塚→拡大)
<>



大鬼谷の雌滝・雄滝

2008年09月21日 | 神 仏

大鬼谷オートキャンプ場を上流へ遡って行くと二つの滝があった。

下流の雌滝は落差15mで、昔この滝から“謄視正衣冠尊”の6文字が書かれた鏡が
見つかり、鶴岡八幡神社の社宝とされているという。
鶴岡八幡神社といえば源氏の氏神とされているそうだ。 或いは嘗てこの地を源氏
の領主が支配していた(?)事から奉納されたのであろうか?

上流の雄滝は落差21mで、滝壺には龍が棲んでいるというが、水量が少ない為に
滝壺といわれるほどの深みは無かった?

その上には高龗神社の小さな祠(→)があった。
祭神は、高龗神(たかおかみのかみ)で、伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際
に生まれた神とされている。“高”は山の上を意味し、“龗”は龍を意味しており、
山にあって龍(神)が水や雨を司り、穀物を豊かに稔らせてくれるとして信仰され
ているという。
雨の少ない瀬戸内海地方では、神頼みしなければならないほど旱魃で苦しんだとい
う名残りであろう。
>

引き返す途中で、赤褐色の小さな蛇が死んでいた。
まさか雄滝に住む龍でもあるまいが、“ヒバカリ”で猛毒という声も聞かれた。

帰って調べて見ると、
赤褐色の蛇はシマヘビの幼蛇で、成蛇には黒化型もいて“カラスヘビ”と呼ぶらしい。
どちらも初めて知った!

(左:シマヘビの幼蛇、右:シマヘビの成蛇)



大鬼谷の植物(2)

2008年09月19日 | 野外講座

特に珍しい植物は無かったが、オオハンゴンソウが蔓延っているのが気にかかった!

オオハンゴンソウは北米原産の繁殖力旺盛な帰化植物で、在来植物の生態に大きな
影響を与える恐れがある事から、他の植物11種と共に特定外来生物に指定されている。

特定外来生物に指定された植物は、野外へ播いたり植えたりする事が禁止されてい
て、個人の場合懲役3年以下もしくは300万円以下の罰金に処される事になって
いるのだが、大鬼谷では既に随分と蔓延っていて先行きが非常に心配だ!

大鬼谷オートキャンプ場


大鬼谷の植物(1)

2008年09月18日 | 野外講座
2ヶ月ぶりの野外講座で、庄原市高野町大鬼谷オートキャンプ場周辺を訪ねた。

今回のテーマはつる性のマメ類で、この時期に咲いて実をつける10種類に注目し
て探索したが、ありふれたクズを除いて4種類を見つける事が出来た。

調べて見ると、改良されて野菜になったものや、自身で食用になるものもあり、古
くから興味を持たれていた事が窺われ興味深い!
・ホドイモは、地下茎の所々に小塊根をつけ食用になるが余り美味しくない。
・ヤブツルアズキを改良してアズキをつくった。
・ヤブマメは、地下の閉鎖花に種子を1個つけ食用になる。
>
ノササゲ(別名:キツネササゲ)→実ノササゲ(小葉は3枚)
ホドイモ?ホドイモ(小葉は3又は5枚)
>
ヤブツルアズキ→花ヤブツルアズキ(小葉は3枚)
ヤブマメヤブマメ(小葉は3枚)

(見つけられなかった種類)
ハナナタマメ(海岸)、ツルマメ、ノアズキ(別名:ヒメクズ)、タンキリマメ、
トキリマメ