里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

備中松山城

2005年12月15日 | 歴 史
今月のNHK野外講座は高梁市の備中松山城周辺。

注目の植物はモミであったが、確かに沢山のモミの大木が生えていたが余り珍しくは
無かった。
しかし、標高430mの急峻な山頂にある備中松山城は、こじんまりしているが山城
の中では日本で一番高い場所に天守閣が残っているお城として有名なのだそうだ。



備中松山城は、山陽と山陰を結ぶ要衝に建てられただけに、幾度もの争奪戦が繰り返
されており、特に ”備中兵乱” と呼ばれる歴史は非常に興味深いものであった。

 ・1561年、毛利元就の後ろ盾を得た成羽鶴首城主三村家親が、尼子の城代吉田氏
        を討ち、備中松山城主となる。
 ・1566年、毛利元就、月山戸田城の尼子氏を滅ぼす。
        三村家親、備前備中境の石山(後の岡山城)に勢力を伸ばして来た
        宇喜田直家に暗殺される。
 ・1568年、宇喜田直家に備中松山城を乗っ取られる。
 ・1571年、 家親の子元親が元就の支援で城を奪還、城郭整備し勢力拡大を図る。
 ・1574年、 織田信長に対抗する為に毛利元就と宇喜田直家が提携する事となり、
        元親は心ならずも宇喜田直家と協力せざるを得なくなる。
        しかし、父を暗殺され、備中松山城奪還戦で兄が戦死したり、初戦で大
        敗を喫した恨みを持つ元親は織田信長の誘いに乗り、宇喜田直家追討を
        決断。
        これを聞きつけた元就は激怒し、大軍で支城を攻撃・落城させ、備中松
        山城を包囲して長期戦に入る。
 ・1575年、長期篭城戦で逃亡や裏切りの出る中、家臣の説得で城を落ち、
        同年、城内で自害しなかった事を悔やみつつ自刃、三村氏は滅亡。

死の間際、毛利方の立会人に
「この度の離反は宇喜多氏への怨念から、断じて毛利を裏切り致した訳では御座らぬ」
と伝え、辞世の句
「人といふ 名をかるほど 末の露 消えてぞかえる 元の雫に」
を残したと言う。

生年は不詳で一説に1546年とあったが、それが本当なら20歳で父を殺され、その後
城を取り返すまで戦争に明け暮れ、挙句の果てに仇敵と組まざるを得なくなり、最後に
は僅か29歳の若さで腹を切らされたのである。
生き残るためには肉親さえも犠牲にする、喰うか喰われるかの戦国時代に、意地を貫
き通した生き様は凄まじく、心ならずも切腹させられる無念さは哀れであった。

現代もある意味で喰うか喰われるかの戦国時代であるが、理不尽がまかり通る世の中
で惰性に流されずに、元親を見習って強く生きたいと思った。

誕生日

2005年12月09日 | 家族・友人
今日は家内の誕生日。 ロウソクを立てたら火事になる程の年だ。
又息子が食事を奢ってくれると言う。 何時も気遣ってくれるのでありがたい事だ。

今回は、アメリカからBSE牛が入って来る前に焼肉をゴチになる事にし、喰わず嫌
いな私だが、初めてタンに挑戦した。
子供の頃にザラザラの舌で舐められた事や、何となく牛君とディープキスをする感じ
が喰わず嫌いの原因だったが、食べて見ると淡白な味でなんて事も無かった。

息子に、「何でも挑戦して見たら?」「引っ込み思案になるとボケるよ!」 と言わ
れてしまった。
「負うた子…」ではないが、息子の言う通りだ。 
このブログも自分で始めた物ではなく、息子の勧めがあったから始めたものだ。
夫婦共々ボケないようにしよう。
差し当たり、手近かな所でコテッチャンから挑戦して見るか!?





サンフレッチェ VS エスパルス

2005年12月05日 | スポーツ
夜釣りを優先した為に応援に行けなかったが、何と最終戦に勝ってしまった。
ホームでの久し振りの勝利は是非見たかったが孫悟空ではないのが残念であった。

さしたる有名選手もいないのに、一時は優勝戦線にも絡みそうな勢いがあり、最終
的には7位に終わったがJ2に落ちた事のあるチームとは思えない程の好成績で
あった。
やはり、各段階のサッカースクールを地道に運営して来た成果が、好成績と観客動
員数増につながったのであろう。

昨今社会人のスポーツクラブが相次いで閉鎖される中で、Jリーグの目指している
システムが有効である事を物語っているようである。
各地方でスポーツクラブを作り、そこへ色々なスポーツのプロとアマが集結して総
合的に運営され、それをスポンサーが支援すると言う理想の形を作れないものか?




メバル釣り本番

2005年12月05日 | 釣 り
友人2人と私の3人で、土日にかけて豊島へ夜釣りに出かけた。
豊島と言ってもあのゴミの島ではなく、大崎下島の西隣りの豊島である。

竹原からフェリーを乗り継いで、大崎上島を経て大崎下島へ着くと、何と昔の面影
は無かった。
大崎下島と東隣りの岡村島、西隣りの豊島は夫々橋で繋がっているし、豊島とその
西隣りの上蒲刈島は架橋工事中であった。
昔はそれらの島へ行くには全部船を使わなければならなかったので、随分便利にな
ったものである。

目的地に着き、この冬一番の寒気団が南下し強い季節風が吹く中で本番開始。
数は少ないものの、近年には無い良形のメバルが釣れた。
1番若い友人は、今回の竿頭で、夜中に回って来た釣り雑誌の取材を受け、1月号
に載る事になった程であった。
何たる珍事、師匠と一緒に行くと良い事があるとは言え、さすがに”ユタカな島”である。

お陰で今日は強風で雪。 明日も雪が降る事になってしまった。
でも、私にとってはラッキーである。
実は竿頭君は我々のアッシー君であり、今回の一件で釣りが又病みつきになる筈
で、必ず近いうちに 「又行こう」 と誘って来るに違いないからである。

是非、早めの誘いをお願いします。

ササユリ繁殖作戦開始

2005年12月01日 | ササユリ山に咲く花
採取しておいたササユリの種を今日ようやく山へ播いた。
ほんの10株から採取しただけなのだが、何しろ一鞘の中にビックリするほどの数
の鱗片状の種が詰まっているので、家内に手伝って貰って何とか済ませた。

岡山山草会の講師の話では、
「種を採取したら直ぐに播いた方が良い」「日にちが経つと発芽し難くなる」 との
事で、気にはなっていたのだがつい1ヶ月ほど遅くなってしまった。

今年は先ずリハーサルと言う事で、発芽しなくて元々のバレ元作戦で取り敢えず
スタートだ。
何しろ開花まで6~7年かかると言うのだ。 
先は長い。 焦らずゆっくり ”カメの歩み” で行くとしよう。