今月のNHK野外講座は高梁市の備中松山城周辺。
注目の植物はモミであったが、確かに沢山のモミの大木が生えていたが余り珍しくは
無かった。
しかし、標高430mの急峻な山頂にある備中松山城は、こじんまりしているが山城
の中では日本で一番高い場所に天守閣が残っているお城として有名なのだそうだ。
備中松山城は、山陽と山陰を結ぶ要衝に建てられただけに、幾度もの争奪戦が繰り返
されており、特に ”備中兵乱” と呼ばれる歴史は非常に興味深いものであった。
・1561年、毛利元就の後ろ盾を得た成羽鶴首城主三村家親が、尼子の城代吉田氏
を討ち、備中松山城主となる。
・1566年、毛利元就、月山戸田城の尼子氏を滅ぼす。
三村家親、備前備中境の石山(後の岡山城)に勢力を伸ばして来た
宇喜田直家に暗殺される。
・1568年、宇喜田直家に備中松山城を乗っ取られる。
・1571年、 家親の子元親が元就の支援で城を奪還、城郭整備し勢力拡大を図る。
・1574年、 織田信長に対抗する為に毛利元就と宇喜田直家が提携する事となり、
元親は心ならずも宇喜田直家と協力せざるを得なくなる。
しかし、父を暗殺され、備中松山城奪還戦で兄が戦死したり、初戦で大
敗を喫した恨みを持つ元親は織田信長の誘いに乗り、宇喜田直家追討を
決断。
これを聞きつけた元就は激怒し、大軍で支城を攻撃・落城させ、備中松
山城を包囲して長期戦に入る。
・1575年、長期篭城戦で逃亡や裏切りの出る中、家臣の説得で城を落ち、
同年、城内で自害しなかった事を悔やみつつ自刃、三村氏は滅亡。
死の間際、毛利方の立会人に
「この度の離反は宇喜多氏への怨念から、断じて毛利を裏切り致した訳では御座らぬ」
と伝え、辞世の句
「人といふ 名をかるほど 末の露 消えてぞかえる 元の雫に」
を残したと言う。
生年は不詳で一説に1546年とあったが、それが本当なら20歳で父を殺され、その後
城を取り返すまで戦争に明け暮れ、挙句の果てに仇敵と組まざるを得なくなり、最後に
は僅か29歳の若さで腹を切らされたのである。
生き残るためには肉親さえも犠牲にする、喰うか喰われるかの戦国時代に、意地を貫
き通した生き様は凄まじく、心ならずも切腹させられる無念さは哀れであった。
現代もある意味で喰うか喰われるかの戦国時代であるが、理不尽がまかり通る世の中
で惰性に流されずに、元親を見習って強く生きたいと思った。
注目の植物はモミであったが、確かに沢山のモミの大木が生えていたが余り珍しくは
無かった。
しかし、標高430mの急峻な山頂にある備中松山城は、こじんまりしているが山城
の中では日本で一番高い場所に天守閣が残っているお城として有名なのだそうだ。
備中松山城は、山陽と山陰を結ぶ要衝に建てられただけに、幾度もの争奪戦が繰り返
されており、特に ”備中兵乱” と呼ばれる歴史は非常に興味深いものであった。
・1561年、毛利元就の後ろ盾を得た成羽鶴首城主三村家親が、尼子の城代吉田氏
を討ち、備中松山城主となる。
・1566年、毛利元就、月山戸田城の尼子氏を滅ぼす。
三村家親、備前備中境の石山(後の岡山城)に勢力を伸ばして来た
宇喜田直家に暗殺される。
・1568年、宇喜田直家に備中松山城を乗っ取られる。
・1571年、 家親の子元親が元就の支援で城を奪還、城郭整備し勢力拡大を図る。
・1574年、 織田信長に対抗する為に毛利元就と宇喜田直家が提携する事となり、
元親は心ならずも宇喜田直家と協力せざるを得なくなる。
しかし、父を暗殺され、備中松山城奪還戦で兄が戦死したり、初戦で大
敗を喫した恨みを持つ元親は織田信長の誘いに乗り、宇喜田直家追討を
決断。
これを聞きつけた元就は激怒し、大軍で支城を攻撃・落城させ、備中松
山城を包囲して長期戦に入る。
・1575年、長期篭城戦で逃亡や裏切りの出る中、家臣の説得で城を落ち、
同年、城内で自害しなかった事を悔やみつつ自刃、三村氏は滅亡。
死の間際、毛利方の立会人に
「この度の離反は宇喜多氏への怨念から、断じて毛利を裏切り致した訳では御座らぬ」
と伝え、辞世の句
「人といふ 名をかるほど 末の露 消えてぞかえる 元の雫に」
を残したと言う。
生年は不詳で一説に1546年とあったが、それが本当なら20歳で父を殺され、その後
城を取り返すまで戦争に明け暮れ、挙句の果てに仇敵と組まざるを得なくなり、最後に
は僅か29歳の若さで腹を切らされたのである。
生き残るためには肉親さえも犠牲にする、喰うか喰われるかの戦国時代に、意地を貫
き通した生き様は凄まじく、心ならずも切腹させられる無念さは哀れであった。
現代もある意味で喰うか喰われるかの戦国時代であるが、理不尽がまかり通る世の中
で惰性に流されずに、元親を見習って強く生きたいと思った。