里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

矢野の火道角礫岩

2008年03月31日 | 地 学
吉備高原の一角にある世羅台地には、今から800~1200万年にマグマ(玄武岩)が
噴出し、20個近い火山が出来たそうだ。

その中の、府中市上下町矢野の“火道角礫岩”は、800万年前に噴出した時の火道
(マグマの通り道)の空間に火山灰や火山砕屑物などが堆積して出来、それが長い
年月侵食されて地表に露出した非常に珍しいもので、府中市の天然記念物に指定さ
れているという。
言うなれば、火山の芯を見る事が出来るというわけだから興味深々で、どんなもの
か見に行って来た。

それは、道路脇の小高い丘が少し崩れているだけの様に見え、掲示してある説明を
見落とすと、全く気がつかないような代物であった。
説明によると、
「舞鶴層群(砂岩泥岩互層)を貫いてマグマ(玄武岩)が噴出した時の火道が露出
 したもので、その大きさは、東西約20m、南北約40m、高さ約25m」
との事であった。

ひょっとすると、
「径が約20×40mのマグマがゴーッ!と噴出したのかも知れない」と想像する
と相当な迫力を感じた!

(正面=東側斜面)見える部分は殆ど火道角礫岩


南側の斜面には、火道角礫岩の左端と右下に砂岩泥岩互層が見られるが、その傾き
から見て、砂岩泥岩互層を玄武岩のマグマ(火道角礫岩)が貫いて噴出したと考え
られて居るそうだ。

(正面に向かって左側=南側斜面)


火道は主に玄武岩の火道角礫岩からなり、一部には礫が取り込まれているが、その
多くは丸みを帯びた玄武岩の礫で、砂岩泥岩互層や花崗岩の角ばった礫も取り込ま
れて居る。

(例:南側斜面の右下)



四国霊場巡り

2008年03月30日 | 神 仏
何を血迷ったか家内が急に四国霊場巡りをすると言う。
近所の熱心な人の誘いで、お調子者の家内がスッカリその気にさせられたらしい。
早速装備を整えてヤル気満々だ!

「弘法大師とは何者?」、「お遍路の意味は?」と尋ねても何も知らない!
「それでよく行くね?」と問いかけたがどこ吹く風で、総勢20名の団体に加わり、
「お陰を貰って来まーす!」の声を残し能天気に出発した!

「行ってらっしゃーい!」 (「ずーっと回っていても良いよ!」)
とまあ、私も3日間は心おきなく命の洗濯が出来るので気持ちよく送り出した。

とは言うものの、かく言う私も全く知識が無いので調べてみた。
すると、
「弘法大師が若い時に修行した四国八十八箇所の霊場には、今でも弘法大師が巡っ
 ているとされており、お遍路が祈願の為にこの霊場を巡り歩く事で弘法大師の功
 徳が得られる」
「首に掛けた巡拝袋に書かれた“同行二人”の文字の意味は、お遍路が一人で歩い
 ていても常に弘法大師が連れになって守ってくれているという意味で、
 持っている杖にも弘法大師が宿ると言われている」
という事らしい。

お遍路の心や服装も特に決まりが無いとも言うが、祈願といってもどうせ
「3億円当たりますように!」といった不純なもので叶う筈も無いだろう。
ゴクロウサン!

弘法大師(空海の死後、生前の徳を称えて贈られた号)の略歴
 ・774年、讃岐(善通寺市)の豪族の子として生まれる。 幼名は佐伯真魚。 
 ・788年、15歳で都に出、叔父の阿刀大足に学ぶ。
 ・791年、18才で大学に入る。
 ・792年、大学での儒教中心の勉学に飽き足らず次第に仏教に興味を持つように
       なり、19歳を過ぎた頃から大学を去り奈良や四国の各地で修行をする。
 ・793年、20才の時に周囲の反対を押し切って得度。
 ・795年、22才の時に名を空海と改め、名僧達に仏の教えを乞うが、それに満足
        出来ず唐へ渡る決心をする。    
 ・804年、最澄らと留学僧として唐に渡り、真言密教第七祖の恵果和尚に学ぶ。
 ・805年、遍照金剛の法号を授けられ、真言密教の第八祖となる。
 ・806年、無事に九州へ帰国。
 ・809年、都に上り、
 ・810年、嵯峨天皇より真言宗を開く許しを得、庶民の救済と社会の浄化に着手。
 ・815年、42才の時に、若い時に修行した四国各地を遍歴し、お寺やお堂を建立。
 ・816年、嵯峨天皇から許可を得、高野山に金剛峰寺という根本道場を建て、約
       20年間高野山を中心にして全国への真言密教の布教に努める。
 ・823年、嵯峨天皇より東寺を賜り、教王護国寺と称し真言密教の布教に努める。
 ・828年、誰でも勉強できるように、京都に綜芸種智院という学校を創る。
 ・835年、没。
 ・921年、醍醐天皇から、“弘法大師”という諡号(おくりな)を賜る。
 

茅葺き辻堂と牛地蔵(?)

2008年03月29日 | 神 仏

荒戸山の少し南で珍しいものを見つけた。 茅葺きの辻堂と色々な石塔や石像だ。
この一角だけ長閑な風景で、まるで江戸時代にタイムスリップしたような感じがする。


石塔をよく見ると、
白い背高のっぽは観世音菩薩像で最近建てたものらしい。
その次にでかいのは地神で珍しくはなかったが、左右両側にあるものは文政9年
(1826年)から明治4年(1871年)に建てられた比較的新しいものだが、始めて見
ただけに珍しく感じた。

先ず、左側の二つだが
左端のは?。 その右は“牛塚”。


右側の四つについては、
左端は“金”と彫ってあるが?。 その右の3つは、牛馬の安全を願って建てたり、
死んだ牛馬の供養の為に建てたものらしい。


気をつけて見ると、荒戸山一帯にはこの手の牛馬に関係する石塔がたくさん建って
いた。 これを見ると、当時のお百姓さんが牛馬を大切にし、牛馬の安全や供養に
まで気を配っていた事がよく分かる。 

翻って現代を見ると、果たしてどうなのだろう? 
今一番子供の教育費のかかる50才前後の人、これから未来を担う20~30才の
人、働き手として大事にされているのだろうか?
よもや、餌も与えず仕事をさせ、死んだらほったらかしという事になってしまった
のでは無いでしょうね?


荒戸神社の“柱状節理”

2008年03月28日 | 神 仏

荒戸神社には、玄武岩があちこちに使われている。

先ず、2番目の鳥居の前に立ててある石柱。
これは、柱状節理(熔岩が冷えて固まる時に収縮して出来た柱状の割れ目の事)に
沿って崩れた石柱を立てたものだ。 何の為に立ててあるのかは?
最初の鳥居2番目の鳥居(画像左端は玄武岩の石柱)

参道の石段や本殿土台の石垣なども全部玄武岩だ。
土台の石垣は、まるで荒戸山の中腹で見た“柱状節理”そのものに見える。

この他にも、神社周辺や荒戸山中腹には、熔岩が冷えて出来た玄武岩が至る所へ転
がっていて、 大昔、よほど大きな噴火があった事が窺える。
山 門本 殿
荒戸山の柱状節理(上から見た)荒戸神社本殿土台の石垣

荒戸神社は、由緒を読むと、
祭神は、大錦積命、天照大神、他に16神。
当初、正中元年(1324年)、山頂に創建されたが、
   嘉吉2年(1442年)、火災により消失。
   文安元年(1444年)、現在地に再建された。
本殿は、室町時代の建築様式を伝える建造物として、岡山県の重要文化財に指定さ
れている。
特徴は、入母屋造桧皮葺で、向拝(社殿や仏堂の正面に本屋から張り出して庇を設
けた部分)を持たない屋根は全国的にも少ない形態で、基壇を作らず石敷とした床
下の工法は古式のものである。

と書かれていた。 今から564年前に造られた貴重な財産だ!


荒戸山火山

2008年03月27日 | 
鯉が窪湿原の少し東北にある荒戸山中腹には、約200万年前に噴火していた頃の
火道(熔岩の通り道)と思われる部分が露出しており、熔岩が冷えて出来た玄武岩
の“柱状節理”を見る事が出来るという。
何の事か分からないが、ダボハゼとしては興味津々で、早速熔岩を触りに行った。

荒戸山(標高:761.9m)は、“鍋山”とか“阿哲富士”と呼ばれるだけあって、
遠くから見ると正しくその通りで小さいけれど形の良い山だった。
登山口は、標高600mくらいの所にある荒戸神社の脇。  登山開始だ!
荒戸山(上南北バス停より撮影)荒戸神社

中腹まで登った所で、その“柱状節理”が急に出現した。
径が20cm余りの無数の柱状の石が束ねられて、地中に斜めに埋めてある感じだ。
束を上から見ると5角形か6角形をしていて、まるで石垣を積んだように整然と並
んでいる。

“柱状節理”というのは、熔岩が冷えて固まる時に収縮して出来た柱状の割れ目の
事で、この石垣に見えるものは嘗て熔岩が上昇する火道だった部分が、長い年月を
かけて侵食されて露出したものと考えられているそうだ。

因みに、玄武岩マグマは温度が高く(1200℃前後)粘り気が弱い為に、ドカン!と
噴火するのではなく、比較的穏やかな噴火(噴出)であったらしい。

幸いな事に、今は噴火から約200万年後。 いくら触っても蹴飛ばしても火傷はしない。 
熔岩を尻の下に、ゆっくりとお弁当を食べさせて貰った!
>>
側面から見た柱①(→②)上部から見た柱①(→②)
玄武岩玄武岩が風化して出来た黒土

頂上には平坦な短い尾根が続き、360°見渡せる展望台もある。
名前は“幸運の塔”で、その高さ15.1mを加えると荒戸山の標高が777mになる
というシャレらしい。本当のところはパチンコ好きな人が考えた事かも知れない?

しかし、肝心な展望は北に大山が見えるというのに、立ち木が少し邪魔をする上に
霞がかかっていてサッパリだった。  残念!!

吉備高原の火山活動とその名残り
先ず、約8000万年前に地下深くでマグマがゆっくり冷やされて花崗岩となり、やが
て長時間をかけて押し上げられて地表に出現した。
次に、約960~1000万年前にこの花崗岩の岩盤を貫いて至る所で火山の噴火が起き
て玄武岩を噴出し、その後長い年月を経て侵食されて現在の富士山型やドーム状の
小丘が出来上がったと考えられている。

しかし、各地に沢山残っているこの玄武岩の小丘の多くは噴火した当時より相当侵
食が進み、荒戸山などは今や噴火した時の火道や地下の熔岩溜まりが地表に出て来
ていて、火山の最後の末裔とも考えられている。 
火道が地表に露出しているその他の例としては、(男鹿山・女鹿山の北方の)上下
町矢野に、火道内の角礫岩と火道周りの地層との接触部が見られるそうだ。

(吉備高原に残っている玄武岩小丘)  
広島県:猪辻山、米見山、仙養山、男鹿山、女鹿山、新山など
岡山県:荒戸山、日野山、弥高山、須志山など
 ※噴火活動の時代
  米見山 100万年前
  荒戸山 200万年前


トキソウ

2008年03月26日 | 庭の山野草
庭の“リュウノヒゲ”の中に芝が入り込んでしまったので、一旦全部引っぺがして
植え替え、芝が進入出来ないように境へ畦用の薄いシートを入れてやった。
<>
植え替えたリュウノヒゲマキの木の下のユキワリイチゲ(→ユキワリソウ)

ところが、ホームセンターで畦用シートを買う際、つい誘惑に負けてトキソウも買
ってしまった。 本来、花は5~7月に咲くというのに、多分温室で促成栽培した
のだろうが綺麗な花を咲かせている。 
我が家の先住トキソウは未だ発芽すらしていない。

草間カルスト山荘のユキワリソウ

2008年03月25日 | 山野草
草間カルスト山荘から“雪割草展”の案内状が来たので行ってみた。
先ず、久しぶりの井倉洞に挨拶。


草間カルスト山荘は、この井倉洞の山上に広がる“草間自然休養村”の一角にある
宿泊研修施設で、標高400mの断崖絶壁に建っている。


一帯はカルスト台地で至る所に石灰岩が露出しており、山荘の横手の林縁には沢山
の雪割草(ケスハマソウ)が自生している。

傍には桃畑があって、昨年訪れた時同様に小父さんが桃の木の手入れをしていた。
この小父さんが面白い! 
見学に来ている人達を相手に、
「隣の入野園にもたくさん山野草が咲いているよ!」「蕎麦も美味しいよ!」
と、しきりに客引きをするのだ!
しかもだ! 昨年来た時は、一旦カルスト山荘を出なければ隣の入野園に行けなか
ったのに、今年は桃畑の中を通り抜けられるようにしてある。 マメな人だ!

しかし、こちらにも数は少ないが雪割草が沢山咲いている上に、ユキワリイチゲ・
アズマイチゲ・ホソバナコバイモなどが咲き、暖かい所ではカタクリも咲き始めて
いた。

実は、草間を訪れた目的はアズマイチゲの満開を見たかったからで、正しく願いが
叶ってラッキーだった!



成羽町のセツブンソウ

2008年03月24日 | 山野草
Rohman さんの2月25日のブログで、成羽町のセツブンソウ自生地を紹介してお
られたので、花のあるうちに偵察に行ってみる積もりだったのだが、つい行きそび
れていた。
そこで、来年に備えて先ずセツブンソウの偵察に行き、ついでに草間カルスト山荘
のユキワリソウを見て来た。

先ず成羽町のセツブンソウ。
その場所は、嘗ては畑だったらしい西向きの斜面へ持ち主の方が繁殖させたものだ
そうだが、今は葉ばかりになっているものの、その群生は総領町の自生地を上回る
見事なものであった。
僅かに1輪だけ残ったセツブンソウがお愛想をしてくれ、ヤマネコノメソウも付き
合ってくれたが、来年は花盛りの頃に是非行ってみたい思いがした!
自生地の遠景鳥居脇の群生(遠望)
残っていた一輪のセツブンソウヤマネコノメソウ



北ってどっち?

2008年03月23日 | 地 学
最近はカーナビのついている車が多いのでドライブ中にどちらが北か迷う事はない
が、さてこれが無いと大変困ってしまう。
道に迷ってしまおうものなら、どちらへ向かって走っているのか道路地図を見ても
さっぱり分からない!

これが夜なら北極星を見つけるという手もあるが、昼だと太陽の位置では凡その方
向しか見当が立たず、通りすがりの人に「スミマセーン!」と尋ねるしかない。

そこで、私は愛車(軽トラ)で山に出かける時は、必ず方位磁針も持って行く事に
している。 そうすると道に迷った時に役立つだけでなく、見つけた植物が東西南
北の内のどの方向を好んでいるかも分かるので一石二鳥だからだ。

ところがこの方位磁針、つくりは簡単だがあれでいて結構ややこしい。
 ・磁針が指し示す北の方向は、日本では真北より少し西へ偏り、しかも北へ行く
  ほどその偏り(偏角)が大きくなると言うし、
 ・水平に支えられている磁針も、実は何も細工をしてないと、赤道付近では水平
  が保たれるが、北に行くほどN極側が下がって行き、遂には完全に逆立ちをし
  てしまうと言う。 この水平状態からの下がり具合(伏角)に応じて水平を保
  たせる為に、S極側へ使用する場所に応じた錘をつけてあるのだそうだ。

とまあ、この辺りまでは何とか理解できるが、
 ・地磁気の磁力の強さは、この100年間で約5%減少していて、この割合で減
  少すると2000年後には地磁気が消滅するかもしれないと言うし、
 ・伊能忠敬が日本地図を作った約200年前には、

江戸周辺の偏角はほぼ0°で、
それ以前は東に偏っていたと言う。

つまり、磁針の示す北(磁北)が時代と共に
移動しているという事で、
中には地球のN極とS極が過去100万年間に
4回も逆転したという学説もあるそうだ。


もうここまで来ると、方位磁針もどちらを向いたらよいのか困ってしまいお手上げ
だろう!

真 北
地球の自転軸の北端(北緯90度地点)を指す。
北極星は、地球の自転軸を北極側に延長した線上(天の北極)に位置しているので、
真北の目印にされる。
又、地図については北半球では上を北にして作られているが、オーストラリアでは
南が上になった地図を観光客用に作っていると言う。

地磁気の要素とデータ(国土地理院のHPから引用)


F:全磁力と言い、地磁気の大きさを表す。
全磁力のデータ

D:偏角と言い、Fが水平面内で真北となす角度を
表す。
偏角のデータ

I :伏角と言い、Fが水平面となす角度を表す。
伏角のデータ





箱田良助誕生の地

2008年03月22日 | 歴 史
県道393号線を走っていると神辺町箱田に“榎本武揚の父、箱田良助誕生の地”
と書いた看板が立っているので、予てから気になっていたので行ってみた。

すると、一軒の大きなお屋敷の前に、武揚の曾孫に当たる方の書による、石碑が立
って居た。 

碑文の略歴を読んでみると、

「良助は、寛政2年(1790年)箱田村庄屋細川園右衛門の次男として生まれた。
 通称良助、後に左太夫、源三郎。
 細川家が一時期箱田氏を称した事により、箱田姓を名乗った。

 文化4年(1807年)17歳の時、江戸に出て伊能忠敬に入門、測量術を学んだ。
 九州第1次、第2次測量に参加した後、忠敬の筆頭内弟子として測量及び地図作
 成に尽力し、文政4年(1821年)の大日本沿海興地全図完成に大きく寄与した。
 
 文政5年(1822年)榎本家に入り榎本園兵衛武規と改名、御徒士となる。
 弘化元年(1844年)御勘定方となって旗本の列に加えられた。
 
 榎本武揚は園兵衛の次男、オランダに留学して帰国後明治元年(1867年)幕府艦
 隊を率いて函館五稜郭に立てこもった。
 後、明治政府の要職を歴任した」 

と書かれていた。
まさかこんな人物が隣町に住んで居たとは、今迄60数年生きて来て全く知らなか
った!

それにつけても、我が一族にはどこを探してもこのような名のある人物は居ない!
お金持ちの子は元々頭が良いのか、それともお金持ちの家は教育にお金をかけるか
らなのか、貧乏人はつい僻んでしまう!