里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

”ホリエモン” ショック

2006年01月17日 | 世 相
今日は株式が大暴落した。 
昨日ライブドアが、株式交換による企業買収に伴い不正を行った疑いで強制捜査を受け
たからだ。
暴落は全部がホリエモンのせいではなく、高騰し過ぎていた株価が”ホリエモン”ショッ
クを契機に整理に入った側面もある。
しかし、偽造マンションの事件と同じく、同様の悪事を働いていた者が居るのではないか
と疑心暗鬼にかられた投資家が、狼狽売りをした影響の方が大きいと思われるので、そ
の点では正しくホリエモンが与えた影響は大きい。

奇しくもこの2件とも、日米の貿易不均衡を是正する為に、米国側の要求で規制緩和を
したのは良いが法律に不備があり、そこを突かれこのような事態に到った側面もあるそ
うで、その点については政府の責任が大きいらしい。

お陰で、今日は一日中テレビで、ヒューザー小島社長の国会証人喚問やライブドア堀江
社長の記者会見を腹立たしい思いで見る羽目になったが、いずれも自分が悪い事をした
と思っては居ないらしく、関係者と国民に心から謝罪する気持ちなどはさらさら無さそう
に感じた。
 
ライブドアの関連会社だけでも、今日1日で約1500億円も価値が下がったそうだ。
その他の株式も合わせると、全体の時価額評価損は莫大なものとなろう。
小島、堀江両社長は、政府の規制緩和を良い事に、人を犠牲にして己の利益のみを追求
した疑いが濃厚だが、それが事実であれば許されない事である。

このような重大な犯罪で大混乱を起こさせ無い為には、法の抜け穴を塞ぐと共に、法を犯
した者には財産没収、長期懲役刑くらいの重罪とする法律を作るほか無さそうである。

我が家の戦後

2006年01月16日 | 家族・友人
私の父は、昭和18年9月に入営し、昭和20年5月に戦死した。
昭和22年に届いた公報によれば、フィリピンのルソン島ボンドック道で戦病死したと
ある。
所属部隊も不明で、何時そこへ行き、何時どんな病気で死んだのかさっぱり分らず、ただ
ボンドック道で戦病死したと言うのである。

私は昭和18年1月生まれなので、父の記憶は全く無い。
しかし、昭和22年10月に行われた合同町民葬の時は、5歳近くだったのでかすかに
覚えている。
白布に包まれた白木の箱を振ると、中でカタカタ音がするので不審に思って母に尋ねた
所、「兵隊に行く前の遺品が入っているだけで、お骨は入っていない」と言われ、子供心
に意外な思いがした記憶がある。

母も亡くなった今となっては父の事を聞く術も無いが、先日「男達の大和」を観たのを
機会に父母達がどんな時代を生きて来たのか、改めて考えて見た。
    
     (太平洋戦争史)                (我が家の歴史)
・S12年 盧溝橋事件起き、日中戦争に突入
・S15年 米国、対日禁輸           ・S15年12月 両親結婚 (父29歳)
・S16年 対米英宣戦布告           ・S16年11月 長女誕生 (父30歳)
・S17年 マニラ、シンガポール、ジャワ
      を占領
      ミッドウェー海戦で大敗、空母
      4隻を失い制空権を失い始める
・S18年 山本五十六戦死、学徒出陣    ・S18年 1月 長男誕生 (父31歳)
                            同年 9月 父入営
・S19年 マリアナ沖海戦で空母の大半を
     失い、マリアナ諸島守備隊玉砕
     レイテ沖海戦で連合艦隊ほぼ壊滅
     米軍レイテ島に上陸
・S20年 日本各地に空襲始まる        ・S20年 5月 父戦死  (父33歳)
     米軍沖縄上陸
      日本、無条件降伏

両親も随分難儀な時代に生まれて来たものだ。
正に太平洋戦争に突入する直前に結婚し、父は長男で両親も居るのでまさか兵隊に取ら
れる事は無かろうと思いつつも、怯えながら戦争真っ只中で子育てをしたのだ。
しかし、戦局が逼迫し入営する羽目になり、自分の妹婿に「四郎君行きたくないぞ!」
と涙ながらに言い残し、フィリピンに送り込まれたらしい。
当時フィリピン近海は既に制海権も制空権も失っていたと思われるので、果たしてフィ
リピンに行き着けたのかどうか分らないが、仮に行き着けたとしても補給も無く飢え死にさせられた可能性が高いのではないかと思う。
いずれにしても、父は両親と妻子の事を思いつづけながら死んで行ったに違いないが、
私も人の子の親となって、さぞ無念であったろうと痛いほど感じられる。

又、母も結婚して僅か2年9ヶ月に満たない結婚生活の後父は戦死し、その後再婚する
事もせず、女手一つで我々姉弟を育て両親を看取る苦労を背負った。
現在と違って働く場所も無かった時代に、自分が楽しむ事も無くひたすら生きた母を思
うと哀れであり、申し訳ない思いで一杯である。

かつて、日本全国でこのような様々な悲劇が何百万と起きたのである。
生き残った我々はこの悲劇を忘れてはならず、親たちの「戦争などするな!」の思いを
しっかり受け止めて生きて行かねばならない。

男達の大和(2)

2006年01月15日 | 歴 史
[映画を見た感想]

辺見じゅん(原作者)さんは
「戦争をテーマにすると ”反戦映画になっているか?”と議論になるが、反戦は言葉で
 語る事ではない」
「この作品には紛れも無く戦争に対するきちっとした回答が出ている」
 と話されているらしい。

確かに、
約15歳の少年達まで戦争に動員した事や護衛の戦闘機も無く、しかも片道の燃料だけ
で沖縄の米軍艦船と戦闘を交え、その後陸へ乗り上げてなお戦えと言う命令は戦争の理
不尽さを表しているし、
最後に出撃する時の家族との別れ、特に大和の最期の戦闘シーンは人間や艦体が到る
所で吹き飛ぶほど悲惨で涙を誘い、こんな戦争をしたい者はとても居ないと思わせる程
だった。

しかし、一方で
日本の朝鮮併合や中国侵略がアメリカの禁輸(当時石油、鉄、機械の2/3~3/4を依存)
を呼び、それが戦争の原因になった事は一言述べただけで、沖縄に迫った米軍から日本
を守る事だけが強調されている点については少し疑問が残った。

しかも、生き残ったかつての年少兵は
「死にぞこなって60年悶々として生きて来たが、今ようやく生きる意味がわかった」
と言うだけで、何が分ったのか言わず、何をするのかも話さない。

誰だって自分の国が外国から一方的に攻められたとしたら、愛する人や友人を守る為に
は自分の命をかけても戦うだろう。 だが、その情緒的な思いが、最期に臨んで大尉が
「戦争と言うものは有利な武器を持たなければ勝てない」
「時代遅れの戦艦や精神主義では勝てない」
「もはや日本が救われるのは敗れて目覚めるしかない」
と訓示した事と合わせて変に捻じ曲げられてしまうと、
「今度は勝てる武器で(侵略戦争を)戦おう」 と言う事にもなりかねない。

わが国も最近、憲法9条改訂だの、国を守る気概を持てだの、外国への派兵だの、様々
なきな臭い議論が本格的になって来たが、又ぞろかつての暗い時代に逆戻りしないよう
に心して掛かるとしよう。

男達の大和(1)

2006年01月15日 | 歴 史
先日息子が 「映画でも見に行ったら!」 とチケットをくれた。
見ると”男達の大和”だ。 今、広島県では尾道のロケ地(実物大の大和あり)、
呉の大和ミュージアム( 1/10 モデルの大和あり)が人気なのだそうだ。

映画は、二つの点で印象的だった。
一つは、若者を主人公にした点である。
これまでの映画では、例えば”連合艦隊司令長官、山本五十六”と言ったように上官を主
役にする事が多かったけれど、この映画では海軍特別年少兵(注)を主役に、彼等の面倒
を直接見る下士官を配し、彼等若者があの戦争をどのように考え、どのように戦ったか
を描いた事である。

もう一つは、ストーリーの導入とその後の展開の仕方が巧妙な点である。
先ず最初に、枕崎に訳あり気な一人の若い女性が訪れ、
「枕崎西方200kmまで船を出して欲しい」と懇願するのだが、誰もが「危険だから」
と言って引け受けない。
その中で訳あり気な老漁師が、女性が「大和下士官の娘」と名乗った事から引き受け、バ
イク欲しさにバイトで乗り組んだ15歳の若い漁師と一緒に、”明日香丸”と言う小さな
おんぼろ漁船で出航する所から物語が始まる。

やがて老人の脳裏に、かつて海軍特別年少兵であった60年前の記憶が鮮烈に蘇って
来、場面が一転してその記憶の世界へタイムスリップし、その年少兵達が大和に着任す
る場面に変わる。

そして、年少兵達は激しい訓練の後、昭和19年レイテ沖海戦に出撃し壊滅的な打撃を
受け帰国、昭和20年3月敗色濃厚な中、護衛の戦闘機も無く片道だけの燃料を積み、
沖縄防衛の為に最後の出撃をし、枕崎西方200km地点で米軍艦載機の猛攻撃を受け
沈没。

一方の漁船もその地点に到達し、やがて物語りは大団円を迎える。

女性は、「お義父さん帰りたかった大和よ」 と持参した遺骨を散骨するが、養父は、この
老人のかつての上官(下士官)で奇跡的に生き長らえたものの、その事を悔いその罪滅
ぼしの為に戦後十数人の孤児を育てたのだ。

老人は、
「大和で仲間と死を共に出来ず、60年間悶々と生きて来たが、今やっと生きる意味が分
 かった」 と叫ぶ。
老人も、かつて沈没しかかった大和で「最後まで一緒に戦う」と主張したが入れられず、そ
の上官達が海に放り出してくれたお陰で助かるが、帰国して見ると
「戦争が済んだら船を買って一緒に漁師をしよう」「名前は明日香丸と付けよう」
と話していた幼馴染の彼女は原爆で死亡しており、すっかり生きる意味を見失っていたのだ。

15歳の少年は、船内での会話から同年齢の少年達のかつての凄まじい経験を聞き、何
かに目覚めて力強く舵を握り帰途に着き、終幕。

若者達の家族を守ろうとしたひたむきな気持ちや女達との別れはさすがに涙を誘い、トレ
ーにポプコーンと飲み物のカップを載せ人前を傍若無人に往来きしていた若い観客から
もすすり泣きが聞こえる程だったので、一見の価値はあった。

(注)海軍特別年少兵
   1942年、中堅幹部養成の為に、満14歳の少年を志願によって採用開始。
   当初は3年間の基礎訓練後、海軍兵学校に学ばせる予定であったが、戦局の悪化
   に伴い、1年半で実戦に送り出した。
   1942年~1945年の4回募集され、11200人が教育を受け1期生は1944年
   (昭和19年)に実戦に投入され、約1/3 が戦死したと言う。

生牛乳

2006年01月14日 | 四方山話
隣町の友人の家の近所は結構民家が建て込んでいるのに、酪農家が十数頭の乳牛を
飼っているそうで、これは友人がその農家から聞いた話だ。

「何と妹尾さん、この間朝起きて牛舎を見回っていたらビックリする事があったんでぇ」
「何事があったん?」
「何とホームレスの爺さんが牛のオッパイにブラ下がってチュウチュウ吸ようるんで!」
「嘘を言うな!」 「そんな馬鹿な事があるか!」
「嘘じゃあないでぇ!」 「本当でぇ!」
と、大真面目で言うのだそうだ。

私も、まさか?と思ったが、どうも本当の話らしい。
確かに最近ホームレスが増えているのだ!
それにしても、大の大人がぶら下がってチュウ、チュウとは! さぞ酪農家もビックリし
た事だろう!
ワッ、ハッ、ハッ!

さぞ、”チュウ、チュウ さん”は新鮮な牛乳をたらふくゴチになったのだろうが、さて
その間ウシ君はどうして居たのだろう?
「何だ?コイツ!」 と思ったのか? 
「気の毒だからボランティアをしよう!」 と思ったのか?
考えていたらすっかり楽しくなった!

マンション購入

2006年01月13日 | 家族・友人
娘夫婦が世田谷にマンションを購入し、今日引っ越した。
お婿さんは未だ29歳だが、この年で新築マンションを購入するとはたいしたものだ。
何はともあれ、おめでとう!

彼は新潟出身で娘と結婚する直前には新潟大地震があり、マンション購入直前には
耐震偽造の大騒動があり心配の連続である。
しかも今日が13日の金曜日とあっては、ここは一番、厄除けをせずばなるまい。

もう少し暖かくなったら、記念樹としてエドヒガン(山桜)でも植えるとしよう。
何しろエドヒガンは、1000年以上も長生きするそうだ。

娘夫婦とマンションが負けずに長生きする事を願う。

女王様

2006年01月12日 | 動 物
野外講座仲間が常山で越冬中のスズメバチの女王を見つけた。
気温が低い為に活動が鈍っていたが、骨太な彼の親指の丈ほどある超弩級サイズで
迫力は正に”戦艦大和”並みである。



今は他の働きバチなどは全部死んでしまっているが、その前に交尾を済ませた彼女
は5月頃から産卵を始め、最終的には1000匹にも増えると言う。

私の山にもこんな奴が居るのである。
こんな奴が1000匹もの編隊を組んで攻撃して来るのかと思うとゾッとする。
クワバラ、クワバラ。

常山城

2006年01月12日 | 歴 史
今月のNHK野外講座は児島半島(玉野市)常山(つねやま、海抜307m)。

終日快晴無風のポカポカ陽気であった。
いきなり急坂の石畳の登山道(常山城への登城路)を登るが頂上まで目ぼしい植物
は無く、予想していたとは言えガッカリした。

しかし、頂上からの眺望は良好で、南には瀬戸内海と島々、北には広大な児島湾干
拓地が広がっていた。

常山から北側の眺望

岡山城築城(1583年)以来、江戸時代にも盛んに干拓して1600年頃には現在の児島
半島(当時児島と呼ばれていた島)が倉敷側と地続きになり、その後明治32年から
昭和38年にかけても約5500ha(後楽園球場約4058個分)干拓して出来た平野だそ
うだが、ここも他の干拓地同様に後継者難と米余りの難問を抱えて困っているらしい。

もうひとつ意外な物があった。
頂上の城址にある城主上野隆徳の腹切り岩と、そこから少し下った所にある侍女達
の墓である。


歴史を調べてみると、
 ・1554年 常山城主上野隆徳、備中松山城主三村家親の娘鶴姫と結婚
 ・1566年 家親、宇喜田直家に暗殺される
 ・1568年 家親の子三村元親、宇喜田直家に城を奪われる
 ・1571年 毛利元就の支援を受け、備中松山城奪還
 ・1572年 宇喜田直家毛利方となる
 ・1574年 備中松山城主三村元親、織田信長方となり備中兵乱始まる
 ・1575年 6月2日、三村元親自刃
      6月7日、上野隆徳ら自刃
とあった。

何と上野隆徳は、前回野外講座で訪ねた備中松山城の城主家親の重臣で、家親の子
元親の妹婿だったのである。
上野隆徳は、自分が織田側につく事を進言した手前、毛利・小早川の大群の猛攻を
受けた際、裏切りや逃亡の相次ぐ中、妻や侍女達34名まで徹底抗戦し、そして最後
には妻子共々自害したのだそうだ。 凄まじくも哀れな話であった。

しかも、織田信長は6年後には明智光秀に殺され、7年後には備中も豊臣勢力下に
入ったとあっては、弱肉強食の必然の末路を見る思いがした。
昨今の ”強い者が勝つ”と言うやり方が、果たして人間が幸せに暮らせる事にな
るのか改めて心配させられてしまった。


ボケ比べ

2006年01月11日 | 家族・友人
夕方家内と近くのショッピングセンターへ出かけた。
すると駐車場で70歳台の上品なお爺さんが、
「どこへ車を止めたか分からんようになったー」 と困っていた。
余り気の毒なので特徴を聞いて捜してあげたがやはり無い。
まさか車が一人で帰るわけが無いので、もしやと思い反対側を捜して見た。
すると、買い物袋をぶら下げてウロウロしているお婆さんの近くに、愛車がチャン
と待っているではないか!
「ありましたよ」と声をかけると、先程の老人2人がやって来た。夫婦だったのだ。
「良かったですね」 「どこから来られたのですか?」 と尋ねると、
「油木町です」 「ありがとう御座いました」 と丁重な返事が返ってきた。

老夫婦と別れ、
「広いし、分かり難い駐車場だから仕方ないね」 と話しかけると、
「そうよね」 「年だし、田舎の人だから余計分かり難いのでしょうね」
「そう言えば、貴方も最近少しボケて来たね」  と来た。

ン! お前にそんな事を言われる筋合いはない! 
「そう言うお前こそ、お金が行方不明になっていないか?」 とすかさず反撃。
「洋服の中へ入れてそのまま洗濯してしまったかも…」
「でも紙幣は丈夫だから、問題ないよ」 とほざいた。
全く ”ああ言えば上祐” である。
「前にも私の免許証を洗濯した事があるだろう!」 と追い討ちをかけておいた。

確かに紙幣は丈夫で、少し皺にはなっていたが頑丈そのものであった。
それに引き換え、先程の老夫婦も我々も目くそ鼻くそのボケ仲間かも…

マネーロンダリング?

2006年01月11日 | 家族・友人
今日は久し振りの小春日和となった。
すると家の鬼嫁が、すかさず「洗濯物を干しておいてくれ!」 と言い放つや出か
けてしまった。
丁度庭の植木も水を欲しがって居たので、快く(?)引き受けた。

所がである! 何と洗濯物の中から6万円が出て来た! ン?資金洗浄?
家には家内と息子だけでギャングなど居ない筈だが…

私は無一文だし、息子も年中金欠病だし、どうせ粗忽者の家内の仕業に違いない。
今は電話帳の間に挟まって私のお尻の下にいるが、いっそこのままネコババして
やろうか!?