一僧侶の日常の思いを語る
沙門の法話
長い旅路の一時
急に寒くなりました。やはりこの季節は風が強くなります。
一年とはあっという間です。多分、もう今年もあと幾日なんてことにあっという間になってしまうでしょう。
人間とは不思議なもので少しづつ智恵がついてきたと思ったら今度は身体が若いころのように動かなくなっていきます。
今思うと身体がよく動いた30代くらいに戻ってみたい、そんなふうに思います。
もっと効率よく、コンスタントに活躍できるのではないか、今の自分ならそう思えるのです。
この世のこの身体、つくづく乗り物に思えてきます。なんだか車を運転している感覚と同じ。
この乗り物がふとした拍子に動かなくなれば私の魂はぬけてしまうのです。
またふとした拍子に魂が抜けてしまっても身体は正常に機能しなくなり、死にいたります。
乗り手と乗り物がしっかりとしていないといけない、それがこの世で生活するための絶対条件です。
魂が病んでもうまく生きられないし、身体が病んでも魂は弱っていく。
つくづく思うのはこの世は仮の世だということ。魂は絶対になくなりはしない、この世の生を終えたとしても厳然と存在し続けるのです。
まるで車輪が回転するように時代は移り変わっていきます。しかし生を終えたとしても再びこの世に生をうけることもまず余程悟りを開かないかぎり必ずやってくるでしょう。
その時に再び大切な人とこの世で相まみえることができることにするための今です。
この今さえ怠らなければ必ず臨んだ世界へと戻れるでしょう。
この世の別れは一時。必ず笑顔で迎えられるために今を頑張りましょう。
誇り
人は一度に多くのことを抱えすぎると自分でも意識していなくても心が訴えるようになるのです。
辞めたい。もう嫌だ。疲れた。
それで疲れているのだからと休みがちになるとどうしてだか却って体調が悪化していきます。
だるいのに疲れているのにと思いながらなんとかこなし続けると不思議とできるものなのです。
正直、心の状態次第でいくらでも人の人生は変わっていくものかもしれません。
私は特に今、朝がきつく感じます。もう少し寝たい。その欲求は何よりも強いものです。
でも無理やりおこしてブツブツいいながら仕方なしに外にランニングにいくのです。
どうしてだろう。何でこんなことしなくてはいけないのだろうと思いながら約一時間。
家に戻ってくる頃には身体は快調で心もやる気にみなぎっています。
これが休めようと一時間寝ていたら一日が気持ち悪くなるでしょう。
今の私には自分自身の不調も当たり前と思える余裕があります。前ならどうにかしなくては、根性を出さなくては、もっと元気にならなくてはというような圧力を自分にかけていました。
けど今はこんな自分でいいと思えるのです。よーく頑張っていると褒めてあげたくもなります。
コロナに代表される最近の時代の変化は自分の生活にいろいろなものを運んできました。
また私自身においてもいろいろと大きな変化がありました。
それでもこうして日々前を向いて生きられることを誇りに思います。
気持ちが何よりも大切だから、それさえ折れていなければきっとどんな困難も乗り越えられる、そのように思うのです。
いつもありがとうございます
今日、あるお寺の前を通り過ぎた時にこのような標語がかかげられていました。
あなたが思えば思うほど
あなたのことを思ってくれている
旅立った大切な人はこの世ではもう会えない存在です。でもこちらから見えないけれど思いを向ければそれに見合って返ってくる、そのような意味だと思います。
この世はどうでしょう。どれだけ思ってもなかなか伝わらないのことに心憂うことが時々あります。
ストレートに思いが届かないのです。この世の物質の束縛を受けてのことなのか、因縁が邪魔をするのか。
もしかしたらあの世に旅立ってはじめて人はわかるのかもしれません。
自分がどれだけ人に大切に思われていたのかを。
毎日、神社にお参りにいくのですが絵馬にこのように書かれているのが目に留まりました。
いつもありがとうございます。
良いご縁に恵まれますように。
ごく普通の内容ですが私はふとこう思いました。
神様は私たちのごく普通の悩みをすべて聞いてくださっているのか。本当にありがたい。
私はもっと神様に感謝しなくては。
人の数だけ悩みがあり、人の数だけドラマがあり、悲しみがあり、喜びがあります。
願わくばひとりひとり分け隔てなく幸せでありますように。
やはり好きなんだ
久しぶりに霊山まで往復ランニング、四時間かかりました。
調子がよければ三時間以内だったのに、やはり練習は嘘つきません。
仕方ないのです。コロナもあり、大会が中止され続けているのと、疲労が抜けずらくなってきているので気持ちの熱量が下がってしまって。
それでも今日、風と秋の景色と匂いを感じて思いました。
走るのが好きなんだと。
秋風の匂いは田舎を思い出させます。
本当はこうしてどこにいても感じて、懐かしく思い続けることが出来るのかもしれません。
なかなか帰れなくても近くに思うことが。
無心に走っている内に何かを吹っ切ったような感覚がありました。
やっぱり私は走るのが好きなんだと思います!
形にとらわれるな
一休禅師はある日友人である蓮如上人をたずねました。あいにく不在だったのですが上がって待っているとのこと。
蓮如上人がかえってきてみると部屋にはご本尊の阿弥陀仏を枕にに寝ている一休禅師。
「おい、俺の商売道具を枕にするな」
。。。
なんとも言えないやりとりです。二人は歴史上有名な高僧です。
片方は仏様を枕に。片方はそれを商売道具と。
やはり二人とも型破りに傑物だったとしか思えません。
形にとらわれるな。そこにある真実におのれをゆだねよ。
形ばかりを気にしすぎな私には到底たどり着けない境地です。
よく考えると親鸞聖人もあの時代によく妻帯ができたと思います。今でこそ僧侶が妻帯するのは普通のことですがあの時代はタブーだったはずです。
それを法然上人の高弟としてある程度有名な親鸞聖人は公に妻をもったのです。
愚禿親鸞
禿げて愚かな人間だと自分をさらけ出すことに理解を示した人も、そうでない人もいたことでしょう。
しかし、それさえも上まわる人間性が聖人にはあったのだと思います。
昔、ある人にお前は道端にある地蔵尊に小便をかけることができるかといわれたことがありました。
形にとらわれるなとはそういうことだと。
もちろん、これは方便としての質問だったのですが私の本質を見抜く力はいまだに錆びた剣のままなような気がします。
形にとらわれるな
新しい時代はもうそこまで来ています。いよいよ思いっきりがよく生きなければなかなかそこまでたどり着けないような気がしてなりません。
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