甲斐にやってきた永楽銭(その2)

2021-01-27 09:18:53 | 紹介
当館の特別展示室にて展示しております、「古銭」のさし銭
中国で鋳造された永楽銭が、どうして甲斐国に?
武田氏館の城下町跡で出土した「古銭」の旅をたどっていましたが・・・
時事ネタでいろいろとアップ記事があり、年末に書き始めてからずいぶん時間が経ちました。
ちょっと長くなってしまい、(その1)、(その2)と掲載していました。
リズムよく♪更新したかったところ、年をまたいでしまい、申し訳ありませんでした🙇
つづきの記事になりますが、お付き合いくださいませ。


そんなわけで、武田氏館や城下町跡からも出土する永楽銭です。
この「永楽通寶」は15世紀初頭以降、明で鋳造された銅銭。

宋銭、洪武銭、永楽銭に、私鋳銭・・・国内で流通していた複数の銅銭。
同じ銅銭ながらも、品質はさまざまで、ちょっとでも良いお金がほしいのは、大名含めて皆同じ😉 
銅銭を選り好みする傾向は、日ごとに深刻になっていたのでしょう😨
そこで、ものが、お金が滞らないために発布されたのが「撰銭令」。
室町幕府や戦国大名は、法令や法度で銭貨を選ぶことを禁じたり、
銅銭ごとの換算レートをもうけたり、お金にまつわる取り決めを試行錯誤。

というのも、円滑な物流は、戦国大名の生命線。
戦の絶えない世において、人、食料、武器などを調達する能力は、
強兵の条件といっても過言ではないくらい。
それを支える、しっかりした物流システムと交通網はなくてはならないものでした。

何かを運ぶ時、最もシンプルなのは、陸路を使うことでしょうか。
しかし、7世紀頃、なるべくまっすぐ平たんに整備された幹線道路のルートは、
集落や町から外れることも多かったようで、流通にはちょっと不便だったとか。
さらに、一人の人間が運搬できる量には限りがあり、馬は、と言えば高価な家畜。
こうした問題の他に、治安の問題もありました。

陸路のほかに重要な役割を果たしたのが海路🌊です。
天候に左右される運搬手段ながらも、
たとえ小型船でも、その運搬量、スピード共に、陸路より勝ること間違いなし。
水路の玄関口は交通の要衝として発展し、莫大な経済力を生むにいたります。
「東洋のベニス」と称された堺が良い例です。

当時は、この堺の他にも伊勢の商人たちも活発な活動をしていたようです。
伊勢の場合、港だけでなく、全国的な信仰を集め、多くの荘園を持つ伊勢神宮があり、
そのネットワークをベースに、そのまま全国展開の物流ルートに。

その伊勢商人が中心となって、銭を大量に東国、そして甲斐にも流したようなのです。
伊勢と甲斐!?
その結びつきにピンときませんが・・・
ちょっと長くなってしまったので、今回はこの辺で。

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