皆既月食のつづきのお話 信玄公に仕えた占星師

2021-05-28 20:40:40 | 紹介
先日のスーパームーンと言われた皆既月食。
北にお住いの方はきれいにご覧になれたようですが、こちらは薄曇りでモヤッとして、はっきり見ることができませんでした。
また、12年後のお楽しみです。

さて、珍しい天体ショーでしたが、こうした出来事は過去からずっと繰り返されてきたわけで、
科学の進んだ私たちは、何年、何十年に一度の天体ショーで嬉しい!と気楽に
騒げるわけですが、昔はきっと別の意味で大騒ぎ。
何しろ、急に月が消えて、しばらくしてまた戻るのですから。
本来、月は約29.5日周期で満ち欠けを繰り返すもので、時間軸を設定するには用いやすく、暦に用いられたわけです。
形も朔(新月)・望(満月)・上弦・下弦などは分かりやすいのですが、
それを無視して月が満ち欠けする皆既月食は、衝撃的な出来事だったと思われます。
最近は、上弦・下弦と言えば、鬼を想像する方も多いと思いますが、いずれにしても夜は陰の世界。
心穏やかではいられません。

皆既月食に限らず、様々な気候の変化、太陽・太陰(月)・星々の尋常ならざる変化の前では、
人々は恐れ、何か吉凶の前触れと捉えられたのかもしれません。
その恐れを取り払うべく、平安の都が栄えたころより活躍し、天変地異や怪奇現象が
起こるたびに活躍したのが陰陽師。

そうした陰陽師の流れは脈々と受け継がれ、戦国時代にも歴史の陰に隠れて
活躍していたのです。
全国の戦国大名の中には、そうした陰陽師を召し抱え、あるいは保護した者も多かったようです。
信玄公もまた、その一人。
武田家では、判兵庫なる占星師?陰陽師?と言っていいのかわかりませんが、占星術師が仕えたようで、
『甲陽軍鑑』品第8 判兵庫星占之事 で紹介されています。

生まれは江州(滋賀県)石寺と言いますから、今の近江八幡市出身で、
天文20年(1551)ころに甲府に来て仕えたようです。
永禄12年(1569)の暮れから煙を出す星が現れ、翌13年の7月まで続いたため、
信玄公が吉凶を占わせた逸話が紹介されています。
煙を出す星、なんて、怪しい星ですが、流れ星が続いたのか、あるいは彗星が現れたのか定かではありません。

占った判兵庫曰く、
この星は、天下怪奇の星で、名門の公家や武家は没落して、下の者が上の者にとって代わり、権威を誇る寺院も新興宗教に代わられる。と占ったようです。
後々、名門武田氏は滅亡してしまうわけですが、くしくも兵庫の星占いが当たってしまったことになります。

今でも不安や悩みを抱えて占いに心を傾ける方も多い世の中ですが、いつの世も
人の心は変わらないのかもしれません。


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昨夜はスーパームーンで皆既月食でしたが・・・

2021-05-27 16:13:30 | イベント
2021年最大の天体ショー🌕ということで、ちょっと話題になりましたが、
珍しい皆既月食がありました。
地域によってはあいにくのお天気で月さまも最初から姿を見せなかったところも多かったようです。
当館でも仕事の合い間に慌てて外に出て、同時刻に南東の空を見上げてみましたが、
甲府盆地は薄曇りで、月食しているのか、そもそも雲で見えないのかも判断できず・・・。
結局、信玄ミュージアムからは、月食時間に確認することができず。
見ることができなかった原因は後ほど判明しましたが、この時は曇のせいにしてしまいました。

皆さんのお住いの地域からは、いかがでしたでしょうか?

帰宅途中で甲府市街地方面に南下したところでようやく薄雲の中で光を回復するお月様をキャッチ。
高さは意外と低く、館跡周辺からでは古府中を囲む山々が邪魔をして、
探しても見えないのは仕方なかったことだとわかりました。
確認した頃には、4割くらいまで月の形が回復していました。

珍しい天体ショーでしたが、戦国時代にも同じことが起こっていたはず。
科学が発達していない当時の人々は、世にも不思議な怪奇現象?あるいは、神のお告げ、はたまた悪しき前触れなどなど、
どのような思いで見上げたのでしょうか?

戦国時代に使われていた暦は、太陰太陽暦。
月の満ち欠けに合わせて作った太陰暦に、
1年の日数を地球の公転周期をもとにした太陽暦を合わせて、季節のずれを修正した暦。
こんな風に、月の満ち欠けをみながら生きていた時代です。
スーパームーンという用語は、占星術由来の新しい用語のようですが、
月の満ち欠けだけでなく、月の遠近にだって意識を向けていても、意外ではなくむしろ自然。
少なくとも鎌倉時代までの文献では、「月食」を「月蝕」と表記したり、
また、月食は不吉だから、その光に当たらないように細心の注意を図ったとか。
・・・残念ながら、武田氏と月の関係を知る手がかりは、あまり見当たりません💦
しいて言えば、武田氏ゆかりとされる軍配の日月と北斗七星のものとか。

鉄製軍配(天目山栖雲寺(甲州市)所蔵)

でも、やっぱり!
武田と言えば、スーパームーンならぬスーパーサン!
日の丸の御旗(雲峰寺(甲州市)所蔵)

ですが、天文については、当時は陰陽道が力を発揮した時代。
信玄公の近くにも判兵庫なる陰陽師がいて、占星を行ったとか。
つづく・・・。


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絶対!甲州枡じゃなきゃだめなんだ!

2021-05-26 13:14:56 | 紹介
安永5年(1776)、各地の枡を統一することで、枡座を確立し、
全国規模での商業統制に乗り出した徳川幕府ですが・・・

甲斐の国では、「国枡」=甲州枡の廃止にお百姓が大反対!
こちらは甲府市の方にご寄託いただいた甲州枡

幕府は、かなり理解のある妥協案を出しますが、それにもやっぱり大反対!

そして、牢につながれることも厭わない!
という覚悟を確認しあい、代表の村役人14名が江戸に出向きます。
その要望は、「京枡に樽屋の押印はいいが、「国枡」への押印は勘弁してほしい。
それでは、古来からの「国法」に変更が加わって、「国法」そのものが別物になってしまう!」

この訴え、なかなか決着がつかず・・・
天明4年(1785)の暮れ、幕府は、甲州の心配は「単なる推量にすぎない」とぼやきつつ、
ついに、「甲州枡の使用はこれまで通り」と認めます。

拒否したのは、枡座の押印=幕府による管理、介入だったのかもしれません。
が、こうまでして「国枡」、「国法」を守らなければならなかった理由ってなんだったのでしょう。

ちなみに「国法」とは、信玄公が定め、家康公もそのまま認めた甲斐の法律。
その3本柱が、甲州金であり、甲州枡であり、そして大小切(だいしょうぎり)税法でした。

そして、この事件のキーとなったのが、おそらくは大小切税法。
「大切」=米納(一部金納)と、「小切」=金納で税を納める方法のことで、
山がちでお米があまり取れない甲斐国ならではの制度ですが、
結果的に、商品作物、貨幣経済も発達し、年貢の負担軽減にもなる、
なんともありがたい、そして絶対に手離したくない制度だったようです。
起源不明の「大小切税法」を、信玄公が定めた由緒あるもの!
と主張するようになったのも、この頃ではないかと言われています。

だからこそ、「国法」の一画が崩され、
なし崩し的に、税の納め方にも手が加えられ、年貢負担を増大されちゃあかなわない!
「国法」は1文字たりとも変えさせないぞ、という思いで反対したのかもしれません。

自分たちの大切なものは、自分たちで守らなければいけないんだ!
そういう意識は、突然生み出されるものではありません。
それには前振りがあり、甲斐国でいえば、
明和5年(1768)の元文金と甲州金の両替率問題がそれでした。
下落する幕府鋳造の貨幣と甲州金の両替率を固定化しようとした幕府に対し、
両替するだけでこっち(甲斐)は損してしまう(!)と大反対。
そりゃそうだね😓ということで、訴えは認められ、従来通りの変動制で一件落着。
この時、反対運動の中心的役割を果たしたのは、より危機感をもったお百姓でしたが、
枡の問題に至り、運動は完全に組織化され、甲斐国をあげてのものになったのです。

・・・
一連の出来事の中で整備されたのが、館跡の「武田法性宮」の石祠であり、火葬塚でした。

さらに、寛政10年(1798)には、
甲州枡を守ることができたのは、ひとえに信玄公のおかげ(!)ということで、
三郡(山梨郡、八代郡、巨摩郡)一致して信玄公の祭礼を願い出ます。
以降、そのご命日である4月12日には、ゆかりの場所に参詣の群れ群れ群れ・・・
祭礼は定着していきます。
(※)現在も続く「信玄公祭り」は昭和22年(1947)からスタートしたイベントであり、
地域の方々によって始まった祭礼とは異なります。

最後に。枡の製作から販売を一手に担う枡座の力が及ぶに至ったのは、
結局のところ、直轄領とその周辺のみだったとか。
各地それぞれに、思い入れ深い「枡」があった・・ということかもしれません。
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甲州枡じゃなきゃ、だめなんだ!

2021-05-24 14:13:04 | 紹介
令和3年5月も、もう後半です。甲府の梅雨も、もうそこまで☂

5月と言えば・・・

天明元年(1781)の5月、武田氏館跡(躑躅が崎館跡)に、
信玄公をお祀りする武田法性宮(ほっしょうぐう)の石祠が建てられたのもこの頃。

信玄公の墓所は、その死を秘したということもあり、何か所かありますが、
そのうちの一つ「火葬塚」も、武田法性宮に先立つこと2年、発掘・整備されているんです。

こちらが「火葬塚」の写真です。当館からも、歩けます!

天明といえば、天明の大飢饉、天明2年(1782)~天明8年(1788) を思い浮かべる方も多いかと。
けれど、天明年間は、そんな全国規模の大飢饉のみならず、政変、噴火、大火などにも見舞われた大変な時代。

厳しい時代だからこそ・・・でしょうか。
甲斐の人々は、再び信玄公を思い、荒れ果てたゆかりの土地を整備していきます。
でも、どうやらきっかけとなる出来事もあったようで・・・。

それは、甲州枡の廃止を巡る江戸の枡座と甲斐の人々のひと悶着。

事の発端は、石祠が建てられる5年前、安永5年(1776)、
枡の規格を全国で京枡に統一しよう(!)と、各地で実施された「枡」チェック!

ここで、ちょこっと甲州枡のご紹介💡
甲府市の方からご寄託いただいている甲州枡

穀類などを量るのが「枡」ですが、
当時、徳川幕府が全国的に普及させたかったのが「京枡」の一升枡(約1.8ℓ)。
一方、信玄公の下で定められた「甲州枡」は、全部で4種類あり、
一番大きな枡の容量は、「京枡」の3倍、約5.4ℓのものでした。
「大枡」とか、「信玄枡」などと呼ばれたようですが、そのネーミングに納得です。

京枡も十分大きいはずなのですが、甲州の「大枡」と比べてみると・・・!

徳川幕府の試み、枡の全国統一のお話に戻りましょう。
日本どこでも、枡の容量が同じ・・
そんなの当たり前だし、みんなにとって便利なこと、のように思えますが、
枡の全国統一は、すなわち甲斐国で愛用されてきた甲州枡の消滅を意味しました。

当然のことながら、甲斐国民はみんな大反対!
御料の村々の代表が集まって、甲府代官・中井清大夫に、その取り下げを願い出ます。

理由は4つ。

一つ。代々、田の神をお祭りする、農耕の神事でも使われてきた「大枡」。
これを廃止するということは、五穀の凶事を招きかねない!

二つ。「国枡」は、武田家の朱印が押され、家康公も認めた、由緒ある甲斐の「国法」。
加えて、年貢を納める時、京枡の3倍の「大枡」なら手早く計量できる。
それに、小さな枡は、朝夕女たちが使うに丁度良い。
手慣れた枡でなければ、仕事に差し支える!

三つ。新たな枡を買うとなったら、甲斐国全体で何千両もの出費になる。
近年の不作で疲弊している百姓を、さらに衰えさせていいのか!

四つ。甲斐の「国枡」のみならず、「斗桶」(斗は1升の10倍)も使えないというが、
他国と違い、甲州の小作人は籾付きの斗立てで納めている。
それを斗桶を使わず、「大枡」の3分の1の京枡だけで測るのは大変なこと。
これでは、小作人も疲れ果て、それこそ大騒ぎになり、
年内に年貢を納めることもままならないこと必定!

そこで出された幕府の妥協案は、
「大枡」に京枡を作る樽屋の印を押す。後は従来通りに使って良し。
・・これは妥協じゃないですね。本来の目的を、もうあきらめちゃってます。

枡屋としては、樽屋の印を預かって、「国枡」に印を押す以外はこれまで通り。
ゆえに、その妥協案を受け入れます。
一方、村々の百姓はその案にさえ、こぞって反対したといいます。

なぜ!?

その理由はまた今度😉 
次回もお読みいただければ幸いです🙇
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約450年前の5月21日 長篠の合戦がありました。

2021-05-21 21:45:44 | 紹介
天正3年(1575)5月21日
徳川方の奥平氏が籠もる三河国長篠城(愛知県新城市)奪還を目指して軍を
進めた武田勝頼率いる武田軍と、
その救援に駆けつけた徳川家康、そして、織田信長の連合軍が、設楽原で激突。
いわゆる長篠の合戦が行われた日です。

歴史上、織田・徳川軍が用いた3000丁の鉄砲と、武田軍の騎馬隊、新旧戦術の対比で語られる戦として有名です。
結果として、織田・徳川連合軍が大勝し、武田軍は多くの重臣らを失う大敗を喫したことがわかっています。

合戦の顛末は、織田方の視点で編纂された『信長公記』や、武田方の視点で編纂された
『甲陽軍鑑』でも様子が伝えられています。
戦の発端や推移は、その前後も含めて話し始めると長くなりますが、
織田・徳川軍が3万を越える兵力で地形的に有利な場所に布陣し、
その半分程度の兵力で武田軍が攻める、という戦の展開となったようです。
地理的条件や戦力差を考えても、圧倒的に武田軍不利の中で戦が行われたことになります。
しかも、織田・徳川連合軍は、いわゆる馬防柵を設けて武田の騎馬の突撃を防いだとされ、
武田軍への備えを万全にして待ち構えていた様子が窺えます。
戦の勝敗は古今東西、兵の数だけで決まるものではありませんが、このとき、
武田軍はなぜ強行に戦を仕掛けたのでしょうか?

また、これだけ大規模な戦であったにもかかわらず、当時の一級史料で戦を物語る記録が少ないことや、
後世の編纂物の記述にも違いがあり、正確な合戦の状況や推移がわからない、謎の多い戦とも言えます。
比較的細かな描写で語っている『信長公記』を信用すると、武田方が波状攻撃をかけ、
それを待ち構えた連合軍が鉄砲で打ち倒す、という構図で進んだようですが、
果たしてどうだったのでしょうか?

長篠の合戦の勝敗が与えた影響は大きく、特に敗れた武田氏にとっては、
その後の命運を左右する敗戦となったと考えられています。

信玄ミュージアムでは、武田軍の軍馬の全身骨格が展示してありますので、
長篠の合戦で戦場を駆け抜けた在来馬の大きさを体感いただければと思います。






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