旅する善光寺の如来さま

2022-04-27 16:05:35 | 紹介
現在、信州、甲斐など、六つの善光寺で御開帳が行われています。
でも、「善光寺」を正式名称とするお寺は、全国に119社もあること、ご存知でしたか?
これは、主に鎌倉時代、「善光寺聖」と呼ばれた半僧半俗の遊行僧たちが
善光寺如来を背負って、全国を行脚し、その信仰を広めたから。
江戸時代になると、遊行から、前立本尊の「御開帳」、
または、前立本尊御自ら、江戸や京・大阪などに出張する「出開帳」へ移り変わっていきます。

遊行に勧進活動に積極的な善光寺ですが、
そのご本尊の善光寺如来さまも、またしかり。今日に至るまでの遍歴は、まさに流転。

「善光寺縁起」によれば、信州善光寺のご本尊「一光三尊阿弥陀如来」は、天竺、百済を経て日本にお渡りになりました。
しかし、敏達天皇14年(585)ころ、国内の崇仏・廃仏論争に巻き込まれ、
廃仏派の物部氏によって難波の堀江へ打ち捨てられてしまいます。
聖徳太子がお迎えに行きますが、「我を連れて行くべき者がくるのを待とう」とおっしゃり、水底へ。
推古10年(602)、信濃国国司の従者・本田善光(よしみつ)の前にお姿を現され、
善光の故郷信濃の伊那に安置され、その後、皇極天皇元年(642)、現在の地に遷座されたとか。

信州善光寺の創建年ははっきりわかっていませんが、仏教文化をベースにした、
天皇と貴族中心の華やかな白鳳時代の軒丸瓦(のきまるがわら)が出土していることから、
7世紀後半から8世紀には、瓦葺の堂舎があったのではないかと考えられています。


平安時代に入ると、末法思想の影響もあり、
阿弥陀さまにおすがりし、極楽浄土に往生したいと願う浄土信仰が流行します。
霊地参拝もちょっとしたブームにもなったようで、善光寺にも多くの僧侶や巡礼者が訪れたといいます。
現在に至るまで、多くの参詣者を受け入れてきた善光寺ですが、
記録で残るだけでも11回(!?)の火災に遭い、その都度再建を果たしてきました。
それもこれも、善光寺の勧進と参詣者の寄進があってこそ。

でも、善光寺に関わってきた歴代パトロンの顔ぶれもすごいんです。

治承3年(1179)の火災では、伽藍が全焼。その再建に力を入れたのが源頼朝でした。
戦国時代にいたり、信玄公と上杉謙信の川中島の戦いに巻き込まれ、甲斐国にご遷座されますが、
天正10年(1582)、織田信長による甲州征伐の後、織田信長・信忠はご本尊を岐阜、伊奈波に。
同じ年、本能寺の変が起きるわけですが、今度は、信長次男の信雄が、尾張の甚目寺に安置したかと思えば、
翌年、徳川家康により、現在の遠州の鴨江寺に。
よほど慌ただしかったんでしょうね。
如来さまが夢枕に立たれて「甲斐に帰りたい」とおっしゃったとかで、甲斐善光寺へお戻りに。
その後、天下人となった豊臣秀吉が京都に建立した方広寺の大仏が、慶長元年(1596)の大地震でまさかの倒壊。
その代わりに、ご本尊として白羽の矢が立てられたのが、なんと善光寺の如来さま。
けれども、慶長3年(1598)、病の床にあった秀吉の夢に現れ、
「信濃に帰りたい」とおっしゃって、40数年ぶりに懐かしの信濃の土地へ。


・・・
当館特別展示室、現在の逸品展示のテーマは「甲斐国領主と善光寺」
5月9日(月)までは、「武田氏による善光寺移転」、
5月11日(水)からは、「徳川・羽柴氏と善光寺」にバトンタッチ。
徳川家康、羽柴秀勝の文書と共に、「徳川十六将図幅」もご覧いただく予定です。

甲斐善光寺をめぐる古文書の旅は、まだまだ続きます!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

4月最終週が始まりました。

2022-04-25 19:49:29 | イベント
末には早くもゴールデンウィークへ入りますね。
例年、4月29日から5月5日にかけて、一年で一番ご来館いただく期間となります。
依然としてコロナ感染も減少傾向とはいえ、まだまだ油断ならない状況ですが、
今年はお天気も油断ならない様子。
甲府も連日降ったり晴れたり。
今日は晴れても明日は雨、の繰り返しで実に不安定。
気温も先日30度を記録し、今年初の日本一に輝きましたが複雑な心境です。

昔懐かしいてるてる坊主でも作ろうかと思ってますが、一日でも晴れの日が
続くよう祈るばかりです。
旧堀田古城園のお庭も、ツバキが終わり、ツツジが満開を迎えています。

何しろ、ここは躑躅が崎館と言われたほど、山にはツツジが咲いていたに違いない場所。
そんなわけで、お庭にも樹齢どのくらいかわかりませんが、ツツジが植えられています。
施設オープンの再整備でさらに足しましたので、ツツジだらけです。


シランも紫の花をつけ、まもなく咲きそうです。

訪れた際は、古城園の縁側に腰掛けて、
のんびりお花を楽しむのも一興です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

善光寺如来さまをお支えする方たち

2022-04-23 14:34:24 | 紹介
全国の六善光寺(信州、元、関、岐阜、東海別院、そして甲斐!)で
数えて7年に一度の御開帳が、令和4年4月3日(日)〜6月29日(水)まで同時開催されています。
コロナ禍の影響で1年延期されて、念願の御開帳です!

当館のご近所エリアの甲斐善光寺も、御開帳まっただ中。
甲斐善光寺は、川中島における信玄公と上杉謙信の戦い(※1)の最中、
絶対秘仏のご本尊に何かあっては大変(!)と、信玄公が、ご本尊とお寺と門前町まるごと移転させたお寺。
実際、川中島の戦いを前にした武田氏の信濃侵攻や、川中島の戦いの最中、
善光寺に戦火が及ぶ恐れが高まったようです。
  
先日ご紹介した端午の節句ののぼり旗より
武田信玄vs上杉謙信

川中島の戦いは北信濃の支配権を巡る戦いと言われていますが、
その求心力と経済力を考えれば、善光寺の支配権も含んでのことだったかと。
山梨は、武田氏館の城下町「甲府」が後の県庁所在地に。
堺のような貿易港が商業都市に発展する例はよく見られますが、
善光寺の場合、その門前町が現在の県庁所在地、長野市の母体となっていったようです。
どれほどの人とものが善光寺に引き寄せられたことか、推して知るべし、です。

今日も、変わらず善光寺は多くの人を惹きつけています。
年間600万人の参詣者を受け入れ、
御開帳のある年、例えば前回、2015年は、その期間だけで約708万人!

その魅力の源は、絶対秘仏のご本尊、天竺、百済、日本の三国伝来、
日本最古の仏さま「一光三尊阿弥陀如来像」でしょうか。
また、善光寺は、日本に仏教の宗派が生まれる前に創建されたお寺。故に、宗派もありません。
平安または鎌倉時代ころより、女人救済。性別も問わないお寺でもあるので、
阿弥陀如来とご縁さえ結べは、どの人も現世の悩みを忘れ、極楽浄土への道を開いていただける「現当二世」・・・
時代を越えて、こうしたご利益が求められ、また観光地としての魅力も相まって、
多くの参拝者が訪れているのかもしれません。

その縁起、歴史など、なかなか興味深い善光寺ですが、
信州善光寺には大本願上人、大勧進貫主と呼ばれるご住職がお二人いらっしゃることもその一つ!?

女人救済の根拠とは別に、善光寺大本願(※)のご住職は代々女性が務められています。
由緒によれば、蘇我馬子の姫君が、善光寺の寺務職についたのが始まりとされ、
以降、皇族、または公家の女性が善光寺大本願の住職として迎えられています。
(※)「大本願」とは、建物の修造の時、勧進活動に携わる本願尼が語源。
大本願の僧房は、次第に善光寺の塔頭に発達し、戦国期には善光寺全体の統括を担うようになりました。
(朝日日本歴史人物事典より)

そして、善光寺大勧進のご住職は代々男性。こちらは天台宗系。
大本願とともに善光寺の寺務を行われる他に、
仏の教えをわかりやすく伝え、世俗の悩み解消に力を尽くすお役目を。

・・・
永禄元年(1558)、信玄公は、絶対秘仏のご本尊に、
前立仏(こちらが現在、甲斐善光寺のご本尊、一光三尊式善光寺如来)、
その他の宝物、僧侶、門前町まで一切合切甲府にお移しになります。

ご本尊が動けば、善光寺大本願のお上人さまも、ということで、
当時の大本願住職も一緒に甲斐にお越しになり、甲斐善光寺建立に尽力されました。
また、信濃善光寺などを在地のもろもろの統治を担当していた、別当栗田氏も甲斐に。

現在展示中の文書は、武田氏から善光寺大本願と栗田氏宛てのもの。
寺院建立のための材木伐採のことや、寺院・門前町もろもろの統治に関する定め書き。
お寺の造営、運営も、ひとつひとつ、数えきれないほどの方たちのご尽力あってこそ。
阿弥陀さまとの結縁とは次元の違う話でも、
およそ500年前の人々の営みを伝えてくれる文書を前に、何とも感慨✨

ぜひ、ご覧にいらしてください🙇
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

企画展第一弾 開催期間折り返しました。

2022-04-21 14:35:41 | イベント
7年に1度の善光寺御開帳に合わせて開催中の
企画展「甲斐国領主と善光寺」では、信濃善光寺大本願様所蔵の
「栗田家文書」を中心に甲斐国主と善光寺の関わりについてご紹介中。
オープニングの小テーマ「武田家による善光寺移転」が5月9日(月)まで
となっていまして、期間を折り返したところです。
「栗田家文書」は、山梨県内では初公開。
そして、展示中の「武田二十四将図」も初公開資料です。
ぜひ、滅多に見られない資料をこの機にご覧ください。
善光寺の歴史解説もなぜ山梨にも善光寺があるのか、
その流れがわかって、御開帳参詣前に立ち寄って良かったという
来館者からの声をいただいています。

新型コロナ感染拡大も大都市部では減少傾向にありますが、
まだまだ収束の目途は立たず、もどかしい日が続いています。
そのためか、武田神社周辺にお越しの方も昨年とくらべても
やや少ない印象で、最近静かな平日です。

おかげで、昼間から新規パトロール隊員も活動中。
ここ掘れニャンニャンとばかりに庭を掘り返していますが、
そこに小判はあるのかい??

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

端午のお飾りにだって、欠かせないのは…やっぱりあの方!

2022-04-17 10:39:05 | 紹介
甲府の空模様、なんとなく不安定ですが、過ごしやすい日が続いています。
当館は戦国武将・武田信玄公をご祭神とする武田神社のお向かいに位置する、
武田氏の館跡をご紹介する施設です。
が、施設内には、昭和初期の料亭旅館・旧堀田古城園も。
その室内では、甲府市民俗資料館所蔵のものや、ご寄付いただいたものを中心に、
季節に合わせたものを、外からもご覧いただけるように展示しております。

つい先日からは、端午の節句のお飾りがずらり。
左上のお飾りは「かなかんぶつ」。
甲州独自、端午の節句用の武者人形で、江戸時代後半から明治時代中頃に流行。
紙製の張子面と前立てでできた節句のお祝い品で、
親戚、知人などが、男の子の成長とその家の繁栄を願って贈ったそうです。
張子面は源頼朝、上杉謙信などの名将ぞろい。でも、やっぱり一番人気は信玄公!


カラフルでかわいい、昭和な五月人形です。
鎧に兜に、五月人形はご寄付いただきました。ご協力に感謝申し上げます✨


こちらは「本染甲州武者のぼり」、生地の長さだけでも約8メートル、
上に家紋などが入れば10メートル近く(!)になるのぼり旗、ということで、
とにかく大きい。
甲府市内でかつて染物屋を営んでいらした方から
手染めで貴重なので、ぜひ展示してください。
と、いうことで喜んでいただいたのですが、
施設内で一番天井が高いところから下げても、下が地に着いてしまうほど。
それでもこの季節に何とかご覧いただこうと、
苦肉の策で当館ではこのようにご覧頂いております。

「本染甲州武者のぼり」は、現在は南アルプス市で製作されている、いわば郷土の伝統工芸品。
かなかんぶつ同様、端午の節句をお祝いする品。
その始まりは江戸時代後半で、製法は手描き染。下絵の上に白い綿布を置いて糊で写しとり、色付けし、
釜無川の清流で水洗いするなど、全て手作業の伝統技法で作られています。

のぼり旗の発想の源は、武士の旗差物にあったと言われています。
信玄公のように立派に育ってほしいという願いがこめられ、
勇猛な武者絵巻を描いたのぼり旗が、鯉のぼりと一緒に飾られるそうです。
下絵のテーマは、信玄公と上杉謙信が激戦を繰り広げた川中島の戦いや、
源頼朝が家臣を連れて富士山麓で行った大規模な巻狩りなどなど。

そして最後に・・・

信玄公は甲斐源氏。
広間の床の間には、源氏つながりで源義家(左の掛け軸)のお軸が飾られました。
掛け軸のテーマは、前九年の役(※)。

※)前九年の役は、平安時代後期に、陸奥国(東北地方)で起きた、
朝廷と土着の有力豪族・安倍氏(右の掛け軸)との戦い。
追討を命じられたのは、義家の父、頼義で、
この戦いの勝利により、頼義・義家の河内源氏は武門の中でも最高の格式、とされました。
後に幕府を開いた源頼朝、足利尊氏も河内源氏。

そして、義家の弟、義光は甲斐源氏の祖。信玄公のルーツです。

・・・
山梨ならでは~となると、やっぱり信玄公は欠かせないお方。
どんなことも見抜いてしまうように見開いた目、
ヤクの毛をあしらった諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)や北斗七星の軍配、武田菱・・・
これを身につけていたら信玄公(!)とみんながピンとくるお姿で、
いつのころからか、甲斐国の人たちと一緒に歩んでこられたのかもしれません。

元気に大きく育ってほしい!
そんな願いが込められたお飾りを、ぜひご覧にいらしてください!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする