いけばな&日本古流・歴史探訪(その4)〜江戸から明治へ 時代の流れにのって〜

2022-02-27 16:25:00 | 紹介
初代池坊専好が前田邸で、秀吉のために立てた大砂物。

その後、二代目専好(1575-1658)によって、いよいよ大成された立花(りっか)。
僧侶・公家・武家といった階層を超え、町人社会にも普及。門弟の数も増えていきます。
江戸時代中期から後期にかけて、いけばなは庶民のたしなみ、人気の習い事に。
この時代、いけばなの理論などに関する書物の出版も相次ぎました。

茶の湯の人気も高まって、千利休の秘伝の書とされた「南方録」も普及し、
茶花のように自由にいける「なげ入れ花」が流行します。
18世紀半ば以降には、3つの枝による不等辺三角形を「天地人」に見立てた
格調高い「生花(しょうか)」様式が整えられ、
新設された「生花入門」が人気を呼んで、とりわけ女性の入門者が増えたとか。

鳥文斎栄之「風流略六芸 生花」 太田記念美術館

こちら甲州でも、いけばなは上層町民の趣味のひとつに。
立花だけでなく、なげ入れ花も愛好されて、新たな流派が生まれていきます。

是心軒一露(ぜしんけんいちろ)の松月堂古流が、とりわけ門弟を増やしました。
是心軒の古流は、京都東福寺で松月堂叡尊(えいそん)の流れをくむ中流軒宣柳(せんりゅう)の教えがもと。
安永3年(1774)に「甲陽生花百甁図」を撰し、その4年後には「古流生花四季百瓶図」を刊行しました。
生ける草木がどのような性質を持っているのかを明らかにし、それに従って花を生けるこそ本義とし、
また、宇宙から人事まで、あらゆる現象を説明するのに用いられた理論、陰陽五行説や、
宇宙を構成する地水火風空の五つの要素を説いて、いけばなの形式を定めようとしました。

そんな是心軒を甲府に招いたのは、明和(1764-1772)末のころ、甲府城下の富裕商人や当時の文化人たちでした・・・。

・・・
その後、明治の近代西欧化が始まりますが、他の伝統文化と同じく、華道をとりまく状況は悪化します。

東京への遷都で京都が衰退してはならないと、明治5年(1872)から京都博覧会が開催。
池坊専正も門弟を引き連れて出瓶します。
また、専正は明治12年(1879)から京都府女学校の華道教授に就任、いけばな教育に力を注ぎました。

一方、鹿鳴館などを設計したロンドン出身の建築家ジョサイア・コンドルは、
日本の近代建築に多大な影響を与えると同時に、華道の歴史にも大きな役割をはたします。
明治24年(1891)の「日本の花といけばな」は華道文化を客観的、かつ学術的に考察したもので、
今でも優れた研究書といわれています。

このように近代を迎えた華道界では、洋風住宅に合わせ、
床の間ではなく応接間に合う「盛花」、「飾花」様式が誕生しますが、
急速な西欧化に対する反動から、立花や生花の見直しが行われ、
華道が伝統的国民文化と位置づけられたことから、その勢いを回復。

そんな中で生まれた流派「日本古流」・・・

「歴史探訪」もあともう少し!続きもどうぞお付き合いをお願いします🙇
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いけばな&日本古流・歴史探訪(その3)〜刀といけばな〜

2022-02-25 11:58:05 | 紹介
新型コロナウイルスの感染拡大、なかなか収まらず、当館の臨時休館も続いています。

旧堀田古城園で予定している、こちらの「いけばな展」も・・・

2022年3月20日(日)、21日(月)に延期となりました。

花を生ける皆さまにも、楽しみにされている皆さまにも、安心・安全にお越しいただきたいと思います。
ご理解とご協力のほど、どうぞよろしくお願いいたします。


それでは、いけばなの歴史探訪(その3)です!

「花いくさ」(2011年)は、鬼塚忠による小説で、野村萬斎主演で映画化(2017年)もされました。
この小説は、千利休が池坊専好の弟子であったという説のもと、
戦国時代、武力や権力を持たない華道家が、どのように将軍家や戦国大名たちと関わり向き合ったのか。
また、どのように戦乱の世を生き抜き、自らの作品を創作したかを描いています。

戦国の混乱によって、花文化を担ってきた朝廷が衰退し、
その結果、室町末期から江戸前期までの華道文化は池坊を中心に展開します。
中でも、戦国後期に活躍したのが、池坊専栄(生年不詳−1579?または−1589?)と、
「花いくさ」の主人公、専好(初代)(1536−1621)でした。

専栄は関東から山陰にかけて、また一説では東北から九州にも足を延ばし、
在地の門弟を育てていたと言われています。
島津家老中の日記「上井覚兼日記」(1585)によれば、
池坊以外の道場からも華道家が訪れていたようで、
京の都の情勢が不安定な中、多くの公家、僧侶などが地方に招かれ、京文化を伝えたように、
華道家もまたそこに活路を求めたのでしょうか。日本各地を訪れていたことがわかります。

専栄は、約束事の多い立花にとどまらず、当意即妙に「生ける」花に対する考えも深めました。
この時期、やはり盛んになった茶の湯からもインスピレーションを受けたのかもしれません。
茶席に生けられる花を強く意識したと言われています。

専栄の後を継いだ専好。
その名を華道史に刻んだ作品が、「文禄三年前田邸御成記」に記された「大砂物」
(鉢に砂を入れて草木を挿したものから生まれた花の呼称。株立てとも。)

池坊 いけばなの根源

それは、秀吉が前田利家邸を訪れた時のこと。
織田信長の弟、織田有楽の差配で座敷飾りがなされ、大広間三の間には、
四間床に四幅対の猿の軸が飾られ、
その前に置かれたのが、横6尺(約180cm)、縦3尺(約90cm)の大鉢に立てた大砂物。
後ろに飾られた軸の猿が、あたかも松の枝の上で遊んでいるかのようだったとか。
「池之坊一代之出来物(傑作)」と評価されました。

映画「花戦さ」のクライマックスも、この大砂物を前にした秀吉と専好の花戦さ。
広間を飾る専好の傑作を前に、何かに気づく秀吉・・・

時の権力者の思い一つで、例えば千利休のように切腹させられることもあった時代。
武士達が茶道やいけばなに心を寄せた理由はなんだったのでしょうか。
どのような状況でも、手持ちのものを使って、適材適所で戦術を立てるかのように花を生ける。
そんな鍛錬に加え、もちろん精神の修練もあったのでしょうが、
映画の中の秀吉の姿に、いけばなの世界の懐の深さを感じます・・・。

残念ながら、信玄公といけばなの関わりを記した記録は残されていません。
ですが、武田氏もまた、御成や茶事などの催しで活躍した同朋衆(※)を抱えていました。
お客様をもてなす席のために、花を生けた同朋もいたはず。
そんな花の姿に、信玄公も何かを感じることがあったかも・・・しれません。

(※)同朋衆は唐物の鑑定と管理、芸能、茶事などをつとめ、
その経験の蓄積はいけばなを中心とした座敷飾りに関する伝書に残されました。
将軍家や大名家周辺には、同朋衆が役職としてあり、茶道や華道などの発展にも寄与しました。
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いけばな&日本古流・歴史探訪(その2)〜愛でる花へ〜

2022-02-24 10:21:21 | 紹介
神さまの依代から、仏さまにお供えする花に・・・
でも、大陸から持ち込まれたものは、もちろん仏教だけではありません。
花を愛でる契機にもなったようなのです。

「昔は、花は観賞用のものではなく、占いの為のものであったのだ。
奈良町時代に、花を鑑賞する態度は、支那の詩文から教えられたのである。」
民俗学者・折口信夫が講演「花の話」(1928年)より。

・・・
ところで、いけばなには発祥の地が2つあるのをご存知ですか。
(その1)でご紹介した、嵯峨天皇が野菊を手折って花瓶に挿したという寺伝を持つ、
京都嵯峨大覚寺。

そしてもうひとつが、聖徳太子ゆかりの寺。京都、頂法寺、通称「六角堂」。
こちらは華道文化を支えてきた池坊の拠点です。

というのも、池坊は代々六角堂の住職を務める家。
仏前に花を供える中で、花の形や姿を探求・・・
そんな六角堂の僧侶の挿す花が評判を呼んだのでしょうか。
寛正3年(1462)、武士の屋敷に招かれた池坊専慶が挿した花が、
京都の人々の間でさらなる評判を呼んで・・・

時代は、幕府は鎌倉ではなく、京都に置かれた室町の時。
平安王朝期と比べれば、争い絶えない時代、
政だけでなく、社会や文化の牽引者も武士となり、
公家+武家+中国文化が中央集権の下で融合し、
その後「わび・さび」という禅宗の影響が色濃い文化が萌芽していく時。

そうした時代の流れを受けて、建築も寝殿中心の貴族の住宅「寝殿造」から、
書斎と居間を兼ね備えた書院を建物の中心にすえた「書院造」へ。
やがて書院は、プライベート空間から、情報交換や交渉の行われる接客用の空間に・・・。
そこでは、間仕切りが発達し、畳が敷き詰められ、
床には身分の上下を明確にした高低差が設けられ。

直轄地が少なく税収が少ない室町幕府の財源は、商業活動や流通にかける税金、
そして日明貿易に支えられました。
大陸からもたらされる「唐物」が高く評価され、それらを飾るための場所として、
床の間の前身、押し板や飾り棚がしつらえられます。
唐物、そして生けられた花を愛でるための空間の誕生です。

花は、供える花から邸宅を飾る花となり、
やがて、座敷飾りとして様式が整えられ「立花」(りっか)が成立。

足利義満の時代から天文年間(1532〜1555)にかけて、
文化の指導的役割を果たした集団、同朋衆からは、立花の専門家が現れましたが、
こうした公家、武家を中心とした立花に対し、新しい立花が新興勢力の町衆の間から生まれます。
それを象徴する出来事が、池坊専慶が挿した花・・・だったのです。
一部の社会層に独占されていたいけばなが、一般の人々との距離を縮めた瞬間となりました。

町衆の心をとらえた池坊専慶の理論を継承したのが池坊専応(1482−1543)。
思想としての「いけばな」を確立し、立花の基本形を記した口伝書を残しました。

口伝書には、美しい花を愛でるだけでなく、草木の風興をわきまえ、
時には枯れた枝も用い、自然の姿を器の上に表現する、と主張されています。
心の中の美しいものを大切に、そしてその形を求める・・・
専応は、高遠な美意識をつづり、悟りの境地をも求めました。

・・・
川端康成も、ノーベル賞受賞記念講演において、専応の口伝を引用しました。
「『ただ小水尺樹をもって江山数程のおもむきをあらわにし、
暫時傾刻のあいだいに千変万化の佳興をもよほす』と池坊専応の口伝にあるのは
『辺水辺おのづからなる姿』を花の心として破れた茶器、枯れた枝にも『花』があり、
そこに花によるさとりがあるとしました。
それは日本の美の心の目ざめであり、長い内乱の荒廃の中に生きた人の心でもありましょう。」
「美しい日本の私」(川端康成著)より

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第44回藤村学校「講演~初代駅逓正(えきていのかみ)杉浦譲・広瀬千香とエクスリブリス『紙の宝石』~」を開催しました。

2022-02-22 10:42:45 | イベント
2月21日(月)
甲府市藤村(ふじむら)記念館にて
甲府市出身で明治以降に活躍した
杉浦譲(すぎうらゆずる)と広瀬千香(ひろせちか)について
ご講演いただきました。

第1部
演題「初代駅逓正杉浦譲」
講師 林陽一郎さん(藤村記念館運営協議会委員)

第2部
演題「広瀬千香とエクスリブリス『紙の宝石』」
講師 植松光宏さん(藤村記念館運営協議会会長)


「杉浦譲と昭和町の杉浦醫院の関係について」の質問もありました。
「前日に広瀬千香さんについて勉強してきました。」という受講者さんの熱意に
心打たれました。
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いけばな&日本古流・歴史探訪(その1) 〜いけばな、誕生〜

2022-02-21 09:07:34 | 紹介
当館、ただいま臨時休館中ではありますが、、、
2021年度は、信玄公ご生誕500年を記念して、
普段、なかなか展示されないゆかりの品々を、テーマ毎、月代わりに展示しております。
2月までは「信玄公のくらし」をテーマに、茶入れや寄進や遺品と伝えられる茶道具を・・・
と思っておりましたが、あいにく開催期間が確保できず、後期展示は中止といたしました。

信玄公といえば、中国へのあこがれ強く、武将としての嗜み以上に、漢詩や和歌を愛好し、
その一方で、「甲陽軍鑑」などの史料には、信玄公と茶道との関係を記すものは、ほとんどなく・・・
でも、論より証拠。
茶入、茶臼などの品々が伝世され、茶臼や天目茶碗などが出土していますので、
それなりに茶を嗜んでいたことは確かかと。

そして、茶道とともに、室町時代から戦国時代にかけて
理論が確立し、大成したとされるのが「いけばな」。

茶道同様、信玄公との関係はよくわかっていないながらも、
館跡の調査でも花瓶の破片が出土しています。
室町時代の座敷飾りの秘伝の書「君台観左右帳記」には、
床の間の前身、押し板を飾る茶道具、香炉とともに花瓶も描かれていることから、
お茶とお花には深い関係がありそうで、
今回は、そのいけばなにクローズアップしていきます。

・・・
いけばなの源流はどこにあったのかといえば、
それは神の「依代」として見立てられ、供えられた草木にあったのではと考えられていて、
諸説ありつつ、今でも神棚に欠かせない榊(サカキ)なんかは、
そこに降り立つ神と人との境界に供えられた「堺目の木」だからサカキ、だとか。

「依代」というのは、神霊が寄り付く場所。
あらゆるところに神が宿るとする、日本独自の考え方が反映されていますが、
いけばなにも、それに通ずる世界観があって、
例えば、今でも、基本の枝3本を「天・地・人」とし、この世の3つの力が調和した、
ある意味「祭壇」的要素が受け継がれています。

6世紀になると、大陸から仏教が伝来され、仏前に花を供える風習が生まれます。
華厳経や法華経など、その名に華(花)という字が含まれる経典が存在するように、
仏教と花もまた、深い関係にありました。

でも、「供える花」から、人の手によって活けられた「鑑賞の花」、
「いけばな」の誕生は嵯峨天皇(位809〜823)の時まで待たなければなりませんでした。
都の中心よりも少し離れた、現在の嵯峨野の地を愛した帝が嵯峨院を建立。
その庭に咲く野菊を手折り、殿上の花瓶に挿したという寺伝から、
京都嵯峨大覚寺は、いけばな発祥の花の寺とされています。

いけばなのお話、まだまだ続きます!
どうぞお付き合いください🙇
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