来館記念の御城印、最終配布です。

2023-02-27 18:29:50 | 紹介
2月28日は、火曜で休館日となりますので、本日は2月最後の開館日となりました。
甲府は、今朝の気温こそマイナスでしたが、日中は日差しも柔らかな光で、何となく
春を感じさせる雰囲気でした。
明日から気温も上昇していくようですので、行楽日和が続くことを期待しています。

いよいよ、3月となります。
お知らせしたとおり、現運営体制の変更に伴いまして、4月から諸々変わります。
その一つに御城印があります。
甲府市発行の御城印は、3月26日(日)をもちまして配布終了となります。
信玄ミュージアムでは来館記念として、特別展示室までご観覧いただいた方に
記念品として御城印を配布してきました。
御城印は、寺社が扱う御朱印同様、訪れていただいた証明として発行するものと
考えています。御城印配布は、一人でも多くの方が武田氏館跡に興味を持ち、
現地を訪れ、知っていただくという施設の設置趣旨に基づいて、
その動機付けとして始めたものでした。
アンケート調査でも、圧倒的に記念品としての配布でご満足いただいていましたが、
来館しないと入手できないため、誰でも気軽に入手できる販売の方が良い、という
ご意見も一定数ございました。
特別展示室観覧料が一般で300円ですので、他城で販売している御城印の
一般価格と比べますと、考えようによっては観覧料が実質タダということになります。
城好きの方には、ぜひ特別展示室までご覧いただきたいという思いもありましたが、
様々な価値観、需要にお応えしきれずに、申し訳ありませんでした。
また、コロナ感染症予防への対応に試行錯誤する中、初期段階は入館制限などで
ご不便やご不快な思いをされた方もおられたと思います。
サービス終了にあたり、この場をお借りして改めてお詫びを申し上げます。

4月以降は、指定管理者が新たなデザインで発行し、販売という形になりますので、
御城印だけ希望される方には気軽にお求めになれますので、朗報かもしれません。
新たな御城印に関しては、指定管理先から準備ができたところで別してアナウンスが
あると思いますので、その際はよろしくお願いいたします。

思えば、コロナ2019感染急拡大で、2020年春からの配布予定が半年以上遅れ、
なおかつ、度重なる臨時休館処置で配布期間も大幅に減少しました。
結果、当初予定より制作した御城印の残部も出てしまいましたので、
期間限定も含め、武田家三代の朱印版3種類を一挙配布することとしました。
とは言いましても、基本お一人様一枚でございますので、ご注意ください。
今までタイミングが合わずにもらえなかった、という方は、最後の機会となりますので、
ぜひ、揃っていないものがありましたら、ご来館ください。

信虎公版(限定でした)

信玄公版(通常配布版)

勝頼公版(限定でした)

加えて、昨年春にコロナ感染拡大で予想より配布が伸びなかった春デザイン版が
ちょうど100枚残部がありましたので、合わせて配布対象といたします。

春限定版は、残部数量がなくなり次第終了となりますので、ご心配の方は、
事前に直接信玄ミュージアムまでお問い合わせください。
春限定版残部の配布は、このブログのみの情報といたします。
残り1ヶ月となりましたが、引き続きまして、よろしくお願いいたします。


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2月最終の週末を迎えています。

2023-02-25 14:11:53 | 紹介
このところ、朝・夕の冷え込みはありますが、日中はお日様が顔を出せば比較的
過ごしやすい体感温度になってきました。
暦の上では春でしたが、3月からは本格的な春が到来しそうな予感です。
暖かな陽気につられてかどうかはわかりませんが、お出かけの方も増えたようで、
武田神社周辺も観光や参拝の皆さまで賑わっています。
信玄ミュージアムにも足をお運びいただく方も多く、朝から大勢の方に展示を
ご覧いただいています。
大河ドラマの出演者等身大パネルも撮影スポットとして好評です。
皆さん、お気に入りの俳優さんを横に、うれしそうに撮影されています。
一番人気は、やはり家康公役の松本潤さん。
瀬名役の有村架純さん横は意外と敬遠気味😅 
女性の意見として、好き嫌いではなく、比較されるのが嫌なのだそうで、思わず納得。
3月17日までの設置ですので、ぜひお立ち寄りの際は記念にどうぞ。
そして、暖かい日にはいつものニャン。
最近、野良ノラオーラ全開で人を寄せ付けない気配。
と、思いきや、急に近づいてきたりして。
持っていた袋のガサガサ音に、餌の入った袋だと勘違いして反応したようで・・・。
どこかで誰かにごちそうになっているのかな、お兄ちゃん。
今は冬仕様でまるまると着込んでいますが、また夏には凛々しい姿に戻るでしょうか。

そして、月末近くですので、改めてのご案内です。
リンク記事のとおり、信玄ミュージアムの運営が残り一ヶ月で甲府市から
民間事業者に移行します。
3月末の臨時休館、御城印の取り扱いなどご確認いただければ幸いです。
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「今年も元気に過ごせますように!」 甲州だるまに願いをこめて✨

2023-02-24 14:21:31 | 紹介
2月、甲府盆地でも、3日に行われる節分祭「大神(だいじん)さん」(※1)を皮切りに、
春を告げるお祭りが続きます。

10日、11日には、南アルプス市十日市場地区で「十日市」(※2)が立ち、

さらに13日から14日にかけて、大変な賑わいをみせるのが、
「厄地蔵さん」と親しまれている「厄除地蔵尊大祭」。
甲府の三大祭りのひとつです。(※3)

一番寒い時期に行われる3つのお祭りが終わると、陽気も少しずつ春めいてきます。
そして、これらのお祭りの縁日では、
無病息災、願望成就に、厄除けの願いが込められた「甲州だるま」の屋台が。

一説では武田信玄公をモデルにしているともいわれる「甲州だるま」ですが、
その特徴は4つ!
(1)彫りが深く鼻が高いこと
(2)目が横長の楕円形であること
(3)眉毛は「鶴」、と髭が「亀」の格好をしていること
(4)すべての工程が手作りで行われること

現在「甲州だるま」として入手できるものは
「甲州だるま」、「甲州親子だるま」、十日市で売られる「甲州十日市」だるまです。


現在、当館・旧堀田古城園、南の和室にて展示しているのは・・・
右から「甲州十日市だるま」、「甲州だるま」、「親子だるま」です。
そして右端のかわいいだるまさんたちは、「笹だるま」。
明治中頃の山梨の民俗を伝える『甲斐の落葉』にも掲載されている縁起物です。

「甲州だるま」

400年以上の伝統の始まりは、京都の僧侶が伝えた張り子の技術。
戦前は、目を入れただるまが多く、買い求めた人は神棚などに飾ったとか。
甲州だるまは目玉を下まぶた寄りに入れるため、
神棚に飾った時、拝む人と目が合うように見えることから
「下見だるま」とも呼ばれます。

「甲州十日市だるま」

眉が鶴、髭が亀をモチーフに描かれていて、
顔つきも、少し鼻が低いなど、従来の甲州だるまとは少し違った印象です。
「七転び八起き」の縁起をかついで、
頭には7本、胴には8本の金色の線がはいっているのが特徴です。

「親子だるま」

1995年1月27日山梨県伝統工芸品認定
農家の生活を支えた綿と養蚕。この白い繭玉の形が白いだるまになったとか。
家内安全、子孫繁栄を祈って、子だるまをお腹に抱えています。
子に髭があるのは、「親よりも立派になってほしい」、
また、子だるまのまっすぐな視線は、「子供が自分で目標をもち、
思った道をまっすぐに進んで欲しい」という親心の現れだそうです。
江戸中・後期には「妊婦の安産祈願」の贈り物としても喜ばれました。

今年度も、そろそろ終盤。
来年度、新たな場所で、新生活をスタートするお子さんも多いかと思いますが、
見守る親の気持ちは、昔も今も変わらないようです。
無病息災、開運招福✨
今年も、みんな元気に過ごせますように!
古城園での展示は、2月27日まで行う予定です。
お立ち寄りの際は、かわいいだるまさんをぜひ、ご覧ください。

(※1)「大神さん」とは「柳町大神神宮祭」と「横近習(よこきんじゅ)大神宮祭」のこと。
家内安全、無病息災、商売繁盛を願う神事、「福来豆」の配布や、赤鬼・青鬼が地区内を豆まきしながら巡ります。
柳町大神宮も横近習大神宮も、甲州の伊勢信仰を今に伝える古社。
横近習大神宮は、武田家が勧請した社で、神紋が武田菱。
これまで感染対策で縮小開催していましたが、2023年は通常開催されました。

(※2)十日市の歴史

(※3)湯村のお地蔵さん、普段は耳が聞こえないそうなのですが、
2月13日の正午から14日の正午まで、耳を開き、参拝者の願いを聞き入れてくれるそう。
参拝者がお地蔵さんに、歳の数だけお団子をお供えすると、厄を免れることができるとも言われています。
ご注意! お団子は、小さな小さなお団子で良いそうです!
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平岩親吉をご存知ですか? その2

2023-02-22 15:22:20 | 紹介
今朝の甲府は、冬の寒さが戻ってきまして、
朝から霜柱も育って冷え込んだ朝となりました。
皆さまも風邪をひかないようにご注意くださいませ。
さて、前回の続きです。

徳川家康の関東入国に伴って、新たに上野国厩橋城主となった平岩親吉でしたが、
残念ながら、跡継ぎがいませんでした。
幼少期から仕えてきた親吉の家名断絶を憂いた家康は、自身の八男松平仙千代
(一説には異母兄の松千代とも)を養嗣子とし、平岩家の家名存続を図りました。
一族ではない家臣に自分の子どもを養子として出すほど、親吉に対する
信頼と親近感は強かったようです。
しかし、徳川家と平岩家の橋渡しとして将来を期待された松平仙千代は、
慶長5年(1600)に早逝してしまいました。
墓所は、菩提寺となっています名古屋市高岳院が管理する平和公園内と、
葬儀が営まれた大阪市天王寺区一心寺、そして、甲府市の教安寺にあります。
写真は、甲府市内の浄土宗教安寺に整備されている墓所です。
高岳院は、慶長13年(1608)に親吉が仙千代の菩提寺として甲府の教安寺を
清州に移建し、教安寺第8世照蓮社誉呑宿を開基としたことから始まるそうです。

話を親吉に戻すと、
関ヶ原の戦いを経て、慶長6年(1601)には再び甲府支配を任され、
甲府城代として二期目の領国統治を行いました。
その後、慶長8年(1603)に仙千代の弟義直に甲斐国が与えられることが決まると、
補佐役として仙千代の養父だった親吉が御附家老となり、
駿府城にいた幼児の義直に代わって引き続き甲斐国を統治しました。
慶長12年(1607)に家康の四男松平忠吉が逝去し、遺領の尾張・美濃を義直が
継承して清洲城主となることが決まると、親吉も家臣らと甲斐から尾張へ同行し、
犬山城主を任されました。

犬山城といえば、国宝の天守が有名ですが、親吉から以後の犬山城主は、
尾張徳川家の附家老として活動します。
余談ですが、天守が現在の姿になったのは、平岩家の跡を引き継いだ成瀬正成が
城主となって改修したものとされています。
親吉は、犬山領を治めつつ、義直に代わって尾張藩の政務を行い、清州城に代わる
義直の新たな居城として、名古屋城の普請にも尽力するなど、
御三家と言われた尾張徳川家の礎を築きました。

親吉は、名古屋城築城開始から間もない慶長16年(1611年)12月30日に
70歳で死去しました。
墓所は、菩提寺となった名古屋市平田院が管理する平和公園内(平田院墓域)と
岡崎市妙源寺にもあります。
残念ながら、家康の願いも叶わず、平岩宗家は親吉の代をもって断絶しました。
徳川政権下で甲斐国を治め、徳川家を影で支え続けた平岩親吉。
残された逸話などからもその実直な人柄と、家康への忠義心が伝えられています。
信玄ミュージアムは、国史跡武田氏館跡のガイダンス施設ですが、
館跡の歴史は、武田家の歴史だけではありません。
武田氏館跡の梅翁曲輪は、親吉が第一期目の甲府統治の際に築き、
拠点とした可能性のある場所で、堀や土塁なども遺されています。
史跡整備された梅翁曲輪の松木堀。
この機会に別の視点で躑躅が崎館と呼ばれた
史跡武田氏館跡を散策してはいかがでしょうか。

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平岩親吉という武将をご存知ですか?

2023-02-19 11:53:02 | 紹介
ただいま、大河ドラマ「どうする家康」が放送されています。
その中で、初回から登場している人物に「七之助」と呼ばれている
平岩親吉がいます。
演者は、お笑い芸人であり、俳優としても活躍されているハナコの岡部大さん。
徳川軍の顔ぶれの中では地味な存在ですが、家康にとっては幼少期を共にした
家族のような人物でした。
なぜ、ここで平岩親吉なのか?と思う方もいらっしゃると思いますが、
甲斐国と平岩親吉は関係が深く、ある時期は武田氏館跡の城代でもありました。
そこで、2回に分けて少しだけ平岩親吉のご紹介をしたいと思います。

平岩親吉は、徳川家康と同じ天文11年(1542)に平岩親重の次男として
三河国額田郡坂崎村(現在の愛知県額田郡幸田町)で誕生しました。
天文16年(1547年)に家康が今川家に人質として送られる際、
駿府に同行して仕えました。
家康にとっては、親吉は同い年で幼い頃から苦楽を共にしてきた竹馬の友であり、
譜代の家臣として信頼も厚かったことから、長男信康の傅役にも任命されました。
しかし、信康は武田氏に内通したという謀反の疑いがかかり、
家康によって処断されたため、その責任を感じて蟄居謹慎しますが、後に許されて
再び直臣として復帰しました。

武田氏が滅亡し、織田信長が本能寺の変で倒れた後、甲斐国を領有した家康は
親吉を甲府の城代に任じました。
甲斐国は、天正壬午の乱と言われる本能寺の変後の騒乱を鎮めたばかりで
家康に旧武田家臣団も服属したものの、どう転ぶかわからない状況でした。
しかも、隣国には小田原北条氏が虎視眈々と狙っていたため、甲斐国は、
新徳川領国の最前線となり、信頼できる家臣を配置する必要がありました。
そこで選ばれたのが平岩親吉です。
親吉は、主に甲府盆地内の支配を任され、甲州市恵林寺所蔵の武田氏時代の
躑躅が崎の館を描いたとされる「甲州古城勝頼以前図」には、
平岩七之助が築いた添え郭は記載を省く、と注記があることから、
武田氏館跡に曲輪を増設して整備し、拠点としていたと考えられます。
その頃の親吉の甲斐での活動を示す史料は少なく、実態は定かではありませんが、
天正13年(1585)には、徳川に反旗を翻した真田昌幸の居城、
上田城を攻略するため、鳥居元忠らとともに甲斐の軍勢を率いて出陣し、
豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めた際には、本多忠勝、鳥居元忠らとともに
武蔵国津久井城や岩付城攻めなどで活躍しました。

鳥居元忠は、親吉と同じく幼い頃から共に家康に仕えた昔馴染みの武将で、
甲斐国の東、都留郡から富士五湖方面の支配を任されていましたので、
旧知の仲の二人で甲斐国を治め、共に戦陣に立ったものと思われます。
下の写真の人物が平岩親吉です。紹介する補助解説板を設置しました。

そして、家康の関東移封に伴って甲斐国を去り、
新たに上野国厩橋城主として3万3千石を与えられました。
厩橋城(前橋城)は、関東七名城とも言われる城で、上野支配の重要拠点の一つ
でもありました。
親吉に対する家康の信頼は、甲斐から上野へと任された拠点の重要性からも
窺うことができます。
視聴されている方、これから視聴される方は、
ぜひ、平岩親吉の活躍もお見逃しなく

つづく・・・

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