梅雨の中日。曇りときどきニャン。

2023-06-28 11:40:00 | 紹介
このところ、雲のないカラッと晴れた青空の日はなかなかありませんが、晴れたり曇ったり、
夜雨が降ったりと、やや不安定な空模様です。
旧堀田古城園の庭の木々には適度な雨と日差しはありがたいところです。
今は、くちなしの白い花が咲いています。

この時期ならではの盆地の蒸し暑さもありますが、信玄公没後450年企画展も開催中です。
信玄公の遺品も里帰り中ですので、この機会にぜひ、ご覧ください。

さて、昨日、信玄ミュージアムは休館日でしたが、お休みの日だからこその光景もありました。
スロープの床の上で大胆に横になる子猫。
まだ小さく、この春に生まれたばかりみたいです。
新人さんの寝顔を撮ろうともう一歩近づくと、ハッと気がついて一気に駆け出し、
縁の下に滑り込むように逃げられました。
君は誰の子?と、しばらく様子を見ていると、背後からのんびり、ゆっくりと母ニャン登場。
うちの子が何か?みたいな顔で近づいてきまして。
お久しぶりだね、と、こちらもご挨拶して話しかけていると、
誰も通らないので通路に座り込み、そのうちウトウトと寝てしまいました。
曇り空で石畳も暑くない午前は、ニャンたちにとっては最高の昼寝場所なのでしょう。
残念ながら、子猫は縁の下から低木の藪に入って出てきませんでしたが、
邪魔しては悪いので退散しました。
母ニャン、元気で何よりでした。

先日、休日にご来館された方から、見学中に顔に怪我をした猫を見かけたので、施設の
見回りの強化と、その猫がいたら保護できないかというご連絡をいただきました。
早速、ミュージアムに行って確認するとともに、スタッフにも伝えましたが、該当しそうな
猫の姿はなく、見かけていないそうです。
この付近にはノラさんが多いので、この母ニャンファミリー以外は定着していないものですから
偶然、移動途中に体を休めていたのかもしれません。
引き続き、注意して見まわるようにしたいと思います。


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武田家ゆかりの一蓮寺

2023-06-25 12:29:07 | 紹介
週末は30度を超えて蒸し暑い盆地特有の気候にもかかわらず、
多くの方で信玄ミュージアムも賑わっています。
開催中の信玄公没後450年企画展の後期展示は、通年開催の中でメインの展示で、
信玄公の遺品を中心とした、普段なかなか見ることができない資料を取り揃えての展示です。
関西からは高野山、長浜市からもお借りしていますが、甲府市内からも貴重な資料をお借りさせていただきました。
信玄公が描いたとされる「渡唐天神像」をお借りしました
甲府市太田町にあります一蓮寺様です。


一蓮寺は、武田氏と関わりの深いお寺で、一条小山と呼ばれた現在の甲府城跡地にありました。
新羅三郎義光から始まる甲斐源氏は、甲斐武田氏の祖となる源義清・清光親子が
常陸国から流されて土着したところから始まります。
一つ前の大河ドラマでも登場した武田信義の頃、甲斐の盆地内に勢力を拡大。
その子、一条忠頼が拠ったのが一条小山とされ、頼朝に誅殺された忠頼の居館
跡地にその夫人が建立した尼寺が一蓮寺の始まりとされています。

時宗の道場として甲斐国内では遊行上人らも立ち寄る有力な寺院で、
門前町も栄えていたことがわかっています。
信虎公による躑躅が崎への館移転と甲府開創の理由の一つに、一蓮寺の存在も
考慮されたことが研究で指摘もされています。
戦国時代の記録で『甲陽日記』には、大永4年(1524)に信虎公によって一条小山に
城を築くために、山上にあった諸堂宇を麓の小山原に移したことが記録されています。
武田氏滅亡後、豊臣政権下での甲府城築城に伴い太田町へ移転し、
明治に入って境内地の一部が県有地となり、遊亀公園が整備されました。
やがて甲府市に移管されて現在に至り、園内の遊亀動物園は、日本で4番目に開園したとされる動物園です。
リニューアル工事中ですので、再開後が楽しみです。

一蓮寺は、代々武田家からの庇護も厚く、武田家との関わりや甲斐国内の動静を知る上で
貴重な手がかりを与えてくれる『一蓮寺過去帳』など、貴重な文化財を保管されています。
遊亀公園も含め、一度訪れてはいかがでしょうか。
いろいろとありまして、今回は新規投稿がかなり遅れました。
いつもご覧いただいている方々にはご迷惑をおかけしました。

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高野山から長浜城へ

2023-06-16 17:08:58 | 紹介
信玄公のご遺品を高野山霊宝館様から借用し、次いで滋賀県長浜市にあります
長浜城歴史博物館で信玄公の肖像画をお借りしました。

個人の所蔵品ですが、現在、長浜城歴史博物館様へ寄託され、管理されている
古文書群に含まれている資料です。
絵画は、信玄公が甲冑姿で床机に座した軍陣像姿で描かれていまして、画像の上に
「信玄公像 逍遥軒筆」・「高野山成慶院什物」と墨書きされています。
そして、資料は左下に「國友雲洞蔵」とあり、所有者を記しています。
つまり借用資料は、信玄公の実弟の武田逍遥軒信綱(信廉)が生前の兄の陣中の姿を描き、
高野山成慶院へ納められた品を、國友氏が写してきたもの、ということになります。
残念ながら、実物は、現在所在が不明となっていますので、信玄公の真の姿を伝える
数少ない貴重な絵画資料になります。

実際に成慶院様から借用しました遺品2点とともに、奉納品のリストに信玄公寿像と
ありますので、実際に肖像画が成慶院に納められていたことは間違いありません。
その絵が一般に知られ、甲府駅前の銅像の元にもなっている恰幅の良い姿か、
今回の借用資料の姿か、という議論があり、今のところ恰幅の良い絵画の主は別人で、
借用資料の姿こそが本物の信玄公という結論になりつつあります。

同じ構図で同じ姿の信玄公像で記録年代が定かなものでは、
東京大学史料編纂所所蔵の近藤守重が寛政5年(1793)に書写したものがあります。
そのため、少なくとも18世紀の終わりまでは実物が高野山成慶院にあったことが確認できますが、果たしてどこに行ってしまったのか。
それはさておき、真の姿を見ることができる貴重な機会ですので、ぜひ企画展で
実際の資料をご覧ください。

また、今年は長浜城が築城されて450年を迎えるそうです。
信玄公没後450年とちょうど同じタイミングですね。
信玄公が亡くなり、対信長包囲網で連携していた北近江の浅井長政が滅亡し、
北近江三郡は羽柴秀吉の手に。
そして、長浜城を築城して町を開きましたが、秀吉の出世城ですので、
ぜひ市内も含め、散策をお楽しみください。
長浜城歴史博物館の館長様、職員の方々には開館直後の忙しい時間帯での
訪問でご迷惑をおかけしましたが、快くご対応いただき、感謝を申しあげます。

開館より少し早く現地入りして準備を整えていたところ、ここにもニャンが。
雨上がりの濡れた草むらに座り込んでこちらをチラチラと。

ニャーンと声をかければ、ニャーンと応える。
長浜のニャンもなかなか人懐っこい、と感心でした。
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武田氏と高野山

2023-06-14 11:32:59 | 紹介
6月某日、信玄公没後450年企画展「戦国大名武田信玄の遺産」
テーマ1「ゆかりの品々から語る武田信玄」後期展のために高野山へと向かいました。
6月最初の週末に日本列島を襲った台風2号派生の線状降水帯による被害で
和歌山への交通網も各所で寸断や規制がありつつ、何とか目的地の高野山へ
たどり着くことができました。

甲府から高野山まで電車移動だけで丸1日かかりました。当時の人々は甲斐国から
どのような想いで詣でたのでしょうか。
信玄公の位牌を携えた山県昌景は、何日がかりで、どうやって高野山までたどり着いたのでしょうか。

高野山は、真言宗の総本山。弘法大師空海が開いた霊場であります。
こちらは信玄公没後450年ですが、
令和5年6月15日は、弘法大師様ご生誕1250年で明日はその当日です。

今回の企画展のゆかりの品々の中でも目玉となります資料2点。
高野山成慶院様に勝頼公が奉納した信玄公遺品の一部で、高野山霊宝館様から
借用させていただきました。
遺品の書き上げでは、小松虫と注記される「五鈷鈴」と、持仏とされ、弁財天と記される
弁財天大黒天毘沙門天十五童子像です。
いずれも小さな品で、信玄公が生前身近に置いて音色を聞き、崇拝した仏様になります。
約450年ぶりに躑躅が崎に戻り、本日14日から7月31日(月)までの公開となります。

記念行事などがある中、借用にご同意いただいたお寺様と、ご尽力いただいた
高野山霊宝館ご担当の方にはこの場を借りて感謝を申し上げます。
成慶院は、現在お隣の櫻池院様が管理されています。
高野山霊宝館では、宗祖弘法大師御誕生1250年大法会記念展
「お大師さまから・お大師さまへ」開催中
貴重な文化財を多数管理し、展示されていますので、高野山へお出かけの際はぜひ。

借用を前に、奥之院に通じる参道沿いにずらりと並ぶ大名らの供養塔の中にある
信玄公・勝頼公の供養塔を訪ね、今回のご報告をしてきましたが、墓所の管理は
櫻池院様がされています。

向かって左が信玄公、右が勝頼公の五輪塔です。
苔むした地輪部には、亡くなられた年月日と法名が刻まれているのがかすかに見えます。
高野山参詣の折は、ぜひ、奥之院へ通じる参道沿いに展開する大名墓の中から
武田家の供養塔を探してみてください。
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「長篠の戦い」改め、「設楽原の戦い」

2023-06-12 20:06:02 | 紹介
先週は、大河ドラマでは天正3年(1575)に起こった長篠城の攻防戦から「設楽原の戦い」が描かれました。
一般には「長篠の戦い」、あるいは「あるみ原の戦い」とも呼ばれる一戦は、
織田・徳川連合軍が大勝し、武田軍が大敗を喫する悲劇的な敗戦となりました。
戦闘に至る経緯や合戦の状況には不明なことも多いのですが、結果を整理すると、
戦法や開戦理由はさておき、次のようになるかと。

・織田・徳川連合軍が柵を築いた防御陣地を構えて武田軍を迎撃する態勢を整えた。
・領国各地から鉄砲を集めて動員し、約1,000丁以上の数を揃えて待ち構えた。
・武田軍は長篠城包囲を解いて、設楽原に布陣した連合軍と対峙した。
・約半日の戦闘で武田方の譜代重臣や侍大将級の武将らが数多く戦死した。

この戦いの結果、武田軍は数だけではなく、軍を統率する指揮官を数多く失ったことは大きな損失でした。
信玄公が育てた有能な家臣団の中でも山県・馬場・内藤ら武田軍を支え、
領域の軍事指揮権を任されてきた重臣層が討死したことで、武田氏の勢力は
大きく後退することになりました。
この一戦後に徳川軍の攻勢が始まり、これまでに獲得した遠江や奥三河の拠点を次々と失いました。
勝頼公は失意の中、巻き返しを図るために人事の刷新や外交交渉を精力的に行いました。
そして、天正4年には恵林寺で信玄公の葬儀を執り行い、新たな出発を決意したものと思います。

そして、6月14日(水)からの後期展では、葬儀の後に勝頼公が高野山成慶院様に納めた
信玄公の遺品のうち、2点を展示します。
米沢武田家に出された古文書でも内容が確認できる品です。
史料では一つは金鈴、もう一つは弁財天とありまして、由緒書きがある品です。
高野山成慶院様のご厚意と、高野山霊宝館様のご尽力により、先週高野山から
約450年ぶりの甲斐国の躑躅が崎の地へ里帰りいたしました。
遺品を乗せた美術輸送専門車両が武田氏館跡内に入りまして、帰還を報告いたしました。
約450年前には、館の主郭内にあった本主殿に置かれていたものかもしれません。


ちなみに長篠の戦いに先立って、天正3年(1575)3月6日に、武田家の山県昌景が
高野山を訪れ、信玄公の位牌を納めたことが「武田家御日牌帳」に記されています。
山県は、この後甲斐に帰国してすぐに三河へ出兵し、長篠の戦いで戦死しました。
三河侵攻前の大事な時期に、全軍の副官級の重臣が領国を離れて、
高野山まで参詣したことにはどのような意味があったのでしょうか。
これは結果論で、大変勝手な推測ですが、山県昌景は出兵に先立って自分を抜擢し、
重用してくれた信玄公の冥福を祈る意味と、自らの死を覚悟した高野山参詣だった、
のかもしれませんね。
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