風ニモマケズ

2021-02-28 14:23:26 | 紹介
時々、ものすごい風が吹き下ろしてくる甲府です。

先日の祝日のお天気は、晴れ+強強風!
むしろ気持ちいい(!)くらいでしたが、、


屋根からのぞく富士山🗻見えますか。
当館の「顔」ともいえる信玄公の幕は、あまりの強強風のため奥へ。
(安全第一👷)


こちらは風ですっかり雲が飛んだのでしょうか。
南アルプスの山々は、心弾む🎶ほどきれいに見えました✨

↑写真の手前は館跡の中でも一番南の梅翁曲輪。
祝日かつ風が吹く中、現在、史跡の復元整備工事中。
梅翁曲輪は、武田氏滅亡後に増設された区画と考えられていますが、南側には「松木堀」と呼ばれる堀があり、
その土塁を修理しているようです。
それに合わせて、発掘作業も行い、曲輪内から外の松木堀に排水するために設けられた
戦国時代の集水桝が確認されています。
ちなみに、全国で唯一、戦国時代の馬の全身骨格が出土したのが、この梅翁曲輪。

最期の時まで大切にされたからこその出土です。
一体、どなたの愛馬だったのでしょう!?
(展示品はレプリカです💦)


当館敷地内の旧堀田古城園の庭からも、幅広の雲をバックに富士山🗻
その手前にぶら下がっているのが・・・ザクロ!

きっと、実の中はカラカラ。でも、、
雨ニモマケズ/風ニモマケズ/雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ・・・
一生懸命に枝につながって、ひと夏どころかひと冬まで越そうとしています・・・。
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信玄公生誕500年まで、あと250日!

2021-02-26 17:54:13 | 紹介
今日は2月26日(金)
武田信玄公の生誕500年となる、2021年11月3日まで、あと250日!


2月26日は2(つ)2(つ)6(む)で、ラッピングの日でもあります。
でも、包まれるものは、なにも物だけではありません。
私たちもまた、衣服などに包まれて、、日々過ごしています。

・・・
大河ドラマなどでも、時に話題になる武将たちの衣装。

着物のスタイルもいくつかあり、かっちりとした決まりは特になし。
でも、時代を動かした武士たちが好んだのは、身軽で動きやすい庶民派の発展系。

例えば、丸襟の水干が基となった「直垂」(ひたたれ)も、
江戸時代には裃(かみしも)として発展していく「肩衣」(かたぎぬ)も、庶民などの日常着を武家風にアレンジしたもの。
生地は、礼服には絹、そうでなければ麻だったとか。
肩衣の下に合わせたのは「小袖」と袴。
女性的なイメージの小袖ですが、こちらは、もともとはお公家さんの下着。素材はやっぱり絹。
それが、庶民の日常着となり、武士の表着に。
染色技術の向上もあり、絞り染めの「辻が花」など、美しい染や模様が施されていきます。

絹に麻。でも、なにか忘れていませんか。

・・・
そうなんです。
今の時代、シルクや麻よりも、一番身近な素材は綿、コットンかと。

綿の伝来は、記録上、平安時代。
漂着したインド人により、綿の種子と栽培法がもたらされます。が、根付かず。
よって、当時の日本では、綿と言えば輸入物で、高級生地として扱われました。
16世紀、中国や朝鮮からの種子が持ち込まれ、土地との相性も良かったのか、
日本での連続した栽培がいよいよ始まり、東北以外の全国各地に広まっていきます。

時代は戦国、綿の需要はどんどん高まって・・・
というのも、綿は衣服だけでなく、実は軍事用にも不可欠な素材になっていくのです。
身に付ければあたたかく、柔らかいのに破れにくい。だから、戦闘服にはうってつけ。

それ以外にも、陣幕!

旗指物にも!


さらには、火縄銃の火縄としても、優れた素材でした。

・・・
武田氏館跡からも、炭化した「ワタ」の種子が出土しています。

天文年間、館は2度の火災(1533年、1543年)にみまわれていて、
いずれかの時に複数種の種子も焼け、廃棄されたものが出土しています。
種子の中には、綿も含まれていることから、武田氏の領内でも、自給的目的か商品作物としてか、
いずれにしても、綿がある程度、計画的に栽培されたと考えられています。

・・・
1521年。500年前の今日、大井夫人、妊娠2カ月。
ご本人もご存じなかったかもしれないけれど、、
その後、無事に生まれ、「太郎」と名付けられた赤ちゃんも、
おくるみに包まれて大切に育てられたはず。

当時のおくるみって、どんな素材だったのでしょう。
やっぱり絹?それとも・・綿?
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ほうとうと粉の続き 戦国武将をとりこにした茶臼って?

2021-02-25 18:13:47 | 紹介
石臼、家の庭のはじっこあたりに眠っていませんか?

今でこそ、「石臼は昔ばなしのもの!」な方が大半だとは思いますが、
昭和30年代、1950~1960年代までは、まだまだ欠かせないものだったとか。
一般家庭における、石臼の生活必需品歴は長く、だいたい江戸時代から。
石工の技術の発展とともに広まった石臼は、
「粉にすれば、何でも食べられる!」と、度重なる飢饉でも大活躍。

でも、その伝来はさらに古く、推古天皇の頃とされています。
舶来の、高度な技術を有する珍品として扱われていたようです。
急速に広まった戦国時代でも、武士や高級商人など、あくまでも限られた人たちの間で普及した石臼。

とりわけ、鎌倉時代末に伝来した茶臼は、戦国の頃に大成された茶道には不可欠なものに。

あのこまか~な抹茶を挽くには、粉ひき臼以上に高い技術が必要。
粉ひき用の臼と構造も多少異なりますが、上臼と下臼の磨り合わせが何より大事。
茶臼の場合、葉茶は上臼中央の供給口から、上下の臼をつなげる芯の隙間を通り、
上下の臼が重なる真ん中あたりに作られた、約0.5mmの隙間(ふくみ)に入ります。
臼には、一定のパターンで溝が彫られていて、粉は、ふくみから臼の外縁へ押し出されるのですが、
臼の周縁部は平らで滑らかな磨り合わせになり、ここで更に細かく粉砕されます。
※茶臼の中には、周縁まで溝が彫られているものもあるようです。
武田氏館跡や、信玄公の父の弟の居館跡・勝沼氏館跡(甲州市)から出土している茶臼がその例。


武田氏館跡出土の茶臼の一部。
当館特別展示室にて展示中。

茶臼は、茶をたしなむために不可欠なだけでなく、
時代のステイタス・シンボル✨でもありました。

選りすぐりの逸品が望まれる一方で、
名器の模倣に模倣を重ね、形状が崩れてしまっているものもあるようですが、
いずれにしても、多くの武将が求めてやまなかったお道具でした。
戦国時代に名をはせた武将たちの館跡からは、それを証明するかのように、
かなりの確率で茶臼が出土するとか。
武田氏館跡も同様で、館の敷地内の複数個所から茶臼の破片が出土しています。

信玄公の父、信虎公の菩提寺である大泉寺(甲府市)は
信玄公愛用と伝えられる茶臼を所蔵しています。
石を削りとるときの高低差をそのまま残した「荒のみ切り」で、
上下の臼が重なる面以外は、黒い漆が施されました。
その名も「疣磨(いぼまろ)」
実物が見たくなる・・まさに逸品✨です。

大泉寺の情報は甲府観光ナビからどうぞ!
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まだ2月なのに春の気配?

2021-02-23 11:53:51 | 日記
地球環境のサイクルが崩れてしまっているのか、先週末からまだ2月だというのに春のような異常な暖かさ。
本日も晴天で暖かな陽気ではありますが、甲府盆地に吹き降ろす強風だけは冬仕様のままでございます。
当館、旧堀田古城園のお庭の梅も一気に開花が進んでおりますが、約7割の開花状況です。
風がなかった昨日は、夕方にミツバチがたくさん集まってきていました。

きっと、ご近所で養蜂をされている知り合いの方の子たちかな?
一生懸命蜜を集めていました。
梅の木は、お庭の手入れの際に強剪定をしてしまうのですが、来年からは残す枝を増やさないと。
で、暖かな陽気に眠気も誘われ、いつものにゃん達は、それぞれ陽だまりでまどろんでいました。
危害を加えないと分かって、最近はかなり近づいても逃げなくなりました。

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で、ほうとうは武田軍の陣中食だったの?

2021-02-20 16:25:50 | 紹介
寒い日に食べたくなる、ほうとう。
ほうとうって、「宝刀」?「放蕩」?
ごめんなさい💦面白いエピソードがあるわけではなく、
呼び名のルーツは、中国の「餺飥 」(はくたく)
=生地を薄くして、指で押す、という調理法を表す言葉にありました。

ほうとうは、お味噌やお醤油ベースの汁で煮込むことが多いとは思いますが、
ちょっと特別な日のための、あま~いほうとうもあるんです。

山梨であれば、お汁粉にほうとうを入れた感じの「小豆ぼうとう」。
北信の一部でも、冬至に食べるのは、カボチャ入り小豆ぼうとう 。
長野県安曇野の「七夕ほうとう」は、その名の通り、旧暦の七夕の時、
ほうとうにきなこや小豆で味付けしたものをいただくそうです。

現在でも、山梨県北杜市須玉町の三輪神社では、毎年7月、「若神子のほうとう祭」※が催され、
大きなわら人形に穢れを託し、害虫駆除と豊作を願った虫送りの火焚きが行われます。
そして、儀礼の食事は「小豆ぼうとう」です。
※記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)となっています。

小豆ぼうとうの歴史は古く、平安貴族の日記や随筆などにも、
ほうとうを小豆の汁に入れて食べた、、などという記録が残されているようです。

最後に・・・
ほうとうを食べるためには、当然のことながら小麦を粉にする必要があります。
粉ひきの石臼の伝来は、日本書紀によると、推古天皇18年(610)のこと。
舶来の珍品として、その後、貴族の間でゆっくりと広まったようです。
ほうとうも、製粉する石臼の技術あってこそ。

石臼が急速に普及したのが、戦国時代。手にしたのは、武士や寺社、大商人。
ですので、信玄公が小麦粉の料理を召し上がった可能性はあります。
でも、残念ながら、ほうとうを陣中食「武田汁」と呼んだり、
信玄公、御自ら刀で具を刻んだという記録は、、まだ見つかっていないそうです😉 

粉食文化が広がるとともに、喫茶文化も各地に広がります。
石臼にも種類があり、用途に応じて使い分けがなされますが、
葉茶をひいて抹茶にするための石臼が茶臼です。
室町時代から戦国時代にいたり、公家や僧侶だけではなく、武士や商人たちの
たしなみとなって大成されていく茶道には不可欠なお道具でした。
武田氏館跡からも、もちろん出土しております。
館跡の主郭から出土した茶臼(一部)

つづく・・・
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