年末年始の予定と、ご挨拶🐯

2022-12-28 19:01:44 | 紹介
令和4年、2022年も残りわずかとなりました。
今年も、ご来館の皆さま、
ミュージアム運営をいろいろな形で支えてくださった皆さま、
ありがとうございました。
心より感謝申し上げます🙇

<信玄ミュージアム年末年始の予定>
12月29日(木)〜31日(土) 休館
1月1日(日)9時開館、16時30分最終入館
※1月3日(火)は開館し、1月4日(水)は休館させていただきます🙇

来年はいよいよ、信玄公没後450年!
それを踏まえ、今年は「信玄公没後450年カウントダウン企画展」を軸に、
さまざまな展示や、企画を開催してまいりました。
一年を振り返りますと、

「カウントダウン企画展」は、
信州、甲斐など全国の六善光寺同時御開帳に合わせ、
善光寺が甲斐に移った頃、甲斐国領主が善光寺別当栗田氏に発給した
「栗田家文書」の展示を革切りに、
信玄公の伝説の軍師「山本菅助」の実像に迫り、
そして、神格化✨された信玄公をご紹介しました。
善光寺大本願様、山梨県立博物館様、安中市学習の森ふるさと学習館様、
信玄公宝物館様には、貴重な資料を借用させていただき、
改めまして、お礼を申し上げます。

特別展示室のご見学記念、「武田氏館跡御城印」は、
通常版、信玄公ご生誕記念、信虎公や勝頼公バージョンに加え、
「山本菅助」の武将印も初めて登場!

企画展「山本菅助−その伝説と実像−」、
開催期間(7月20日〜10月14日)に限定配布いたしました。

恒例の夏休み企画では、「決戦!川中島」と題し、
武田軍と上杉軍、どっちが勝ったか、皆さまに決戦投票!
結果は武田軍2956票、上杉軍2356票で、武田軍に軍配が上がりました👏

今秋、例年春に開催されていた「信玄公祭り」が3年ぶりに開催されました。
その翌週になりましたが、11月3日の信玄公生誕日とその週末には
当館でも特別バージョンの散策会の企画、戦国パフォーマンス、
切り絵作家・百鬼丸さんの切り絵ライブも開催しました。

散策の風景(左)と百鬼丸さんの切り絵パフォーマンス(右)


戦国パフォーマンス 松本城からは登久姫様も初参戦。

今年は、コラボも多く、
特別バージョンの散策会では、鎧を身にまとった
歴史案内隊の皆さまにもご協力いただいたり、
山梨県立博物館と共同で夏休みワークショップを岡島百貨店で開催。
「消しゴム花押印」や「ミニ掛け軸づくり」を出店しましたが、おかげさまで大好評😄
ミニ掛け軸作り

私だけの花押作り

当館敷地内の、昭和初期の料亭旅館「旧堀田古城園」では、
ひな祭り、端午の節句、七夕、中秋の名月、十三夜といった年中行事も甲州流で。
端午の節句で、家の軒先を飾った「かなかんぶつ」


五色の糸をたらした七夕飾り☆彡

昭和初期製造の手巻き蓄音機で、懐かしの名曲を聴く
「蓄音機の夕べ」もおかげさまで3回目🎶🎶



日本古流創流122周年記念、山梨支部いけばな展、
山梨大学の外国人留学生のウェルカムイベントなどの会場としても、
旧堀田古城園は地域の皆様にご活用いただきました。

2023年は信玄公没後450年の節目の年✨
「カウントダウン企画」も大詰めですが、
新春から企画展「信玄公と23人の家臣たち」も開催します。
今年同様、来年も、仔猫(ΦωΦ)たちと一緒に(!?)育っていけたらと思います。
地域の皆さま、ご来館の皆さま、
信玄ミュージアムを今後ともどうぞご愛顧ください🙇
新規隊員を加えたニャンニャンパトロール隊も
今年も一年お騒がせしましたが、
皆さまのお越しをお待ちしています。と申しております(たぶん)。
深々とお辞儀。

それでは、皆さま良い年越しを。
また新年もよろしくお願い申し上げます。
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職人のお仕事

2022-12-26 10:20:52 | イベント
クリスマスも終わり、いよいよ年末年始が近づいてきました。
家の大掃除や片付けなど年越し、正月に向けて取り揃えるものも多いと思います。
買い出しで町も賑わう時期ですが、戦国時代の甲府の町はどうだったのでしょう。
南北5条の道路に面して家々が建ち並び、東日本でも有数の都市を
形成していた甲府。
城下町の様子は、遺跡の発掘調査で一部明らかにされつつあり、
その中でも金属を加工する職人さんが大勢暮らしていたことは
出土した品々からも分かりつつあります。

特別展示室では、武田氏が暮らした館跡から出土した考古学資料だけではなく、
城下町や、武田氏と関係した施設から出土したものも展示しています。
その中に金を加工して、装飾品を製作していた細工師さんの家の
資料も展示しています。
館の外ではあるけれど、ほど近い場所ですので、
武田家からの注文品も入っているかも!?

場所は・・・
●黄色字の現在地は、信玄ミュージアム
■赤字が出土地点
金色に輝く調度品を使用できる階層も限られますので、
甲府にあった武家の屋敷か、有力な寺社で使用する道具に用いる
金具を作っていたのでしょう。
ここで作られた品が正月など晴れやかな場でも用いられたのでしょうか。

甲府以外にも近いどころか、敷地内に工房跡が見つかった館もあるんです。
それが、甲府盆地の東に位置する「勝沼氏館跡」
信玄公の父・信虎公の弟、勝沼信友(生年不詳ー1535)・
信元(1526−1560)親子の拠点。
1519年、信虎公が川田館(甲府市)から躑躅が崎館に転居されて手薄となった、
武蔵・相模方面への備えや郡内地方(県東部)に目を光らせるために構えた館です。

主に工房跡とされる遺構は、館の内郭と東郭に。
どうして工房だってわかるのか!?
館内なのに、建物の規模が小さく統一されていたり、
内郭用の給水路がちゃんとあるのに、どうやら素掘りの井戸が使われていたり、
排水も、廃棄処理の施設も内郭とは明らかに別のものが使用されているあたりから。

そして、もうひとつの動かぬ証拠は、出土品。
内郭の方からは、小鍛冶遺構が見つかり、
水がたまった地点からは、溶融物が付着して、
高温加熱されたかわらけも出土していて。

東郭からは、桶の底や、箸や折敷の未完成品、塗り用のヘラ、
漆が付着した布、削りカスなどなど。
木製品の製作や修理をしていたようなのですが、あまりに色々で、限定できないとか。
近くには、金属加工工房もあって、折り曲げた銅金具なども出土。
工房専用(!?)の廃棄用の穴も、隣接したものがいくつか。

工房もいろいろで、
勝沼氏館跡のように、工房専用のエリアが確保されている場合もあれば、
あくまでも臨時作業用で、仕事が完了したら、はい!撤収!という場合もあったようです。
とはいえ、勝沼氏の場合も、遺構や出土品から、
少なくとも4種類の職人さんが仕事していたと考えられていて、
それはつまり、館の維持のために、必要に応じて職人さんを呼び、
その仕事が終われば、やっぱり撤収!?
なので、便宜上、作業する建物も仮設のものだった可能性も。

そんなワケで、勝沼氏館にどんな工房が入っていたのか、
確かに限定するのは難しそう(;´∀`)

・・・
展示品をまじまじと見てみてください。
多くの家臣を従えたお館さまたちだって、やっぱりいろんな人に支えられていたワケで、
そんな戦国武将の日常も見えてくる・・・気がしませんか😉
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441年前のクリスマス・イブ、甲府では・・・

2022-12-24 11:08:47 | 紹介
町の中、家の中もクリスマス🎄

当館の総合案内もクリスマス🎅

日本のクリスチャン人口は総人口のわずか0.8%ですが、
クリスマスパーティーの浸透率は相当なものかと。
信仰していなくても、これから深まる冬を前に、ぴったりなイベントですから!


戦国時代のさなか、1549年ごろに日本に伝来したキリスト教ですが、
日本初のクリスマスパーティーが行われたのは1552年だったとか。
どこから聞きつけたのか、記録によれば総勢2000人ほどの人が集まり、
賛美歌、クリスマスページェント(劇)、そしてごちそうを堪能したとのこと。
クリスマスの劇といえば、キリスト生誕かと思いきや、この時演じられたのは、
「楽園追放」(*_*)
イブが禁断の果実🍎を食べてしまったばっかりに、
アダムとイブがエデンの園から追放される話ですが、
追放のシーンではみんなで泣いたとか、泣かなかったとか。
いずれにしても人間の「原罪」はキリスト教の布教には
欠かせないストーリーだったようです。

・・・
天正9年(1581)12月24日、
日本のあちらこちらで、キリストの生誕がお祝いされる中、
勝頼公は、武田氏三代が領国統治の拠点とした、甲府の館を破却し、
甲府の北西に位置する、韮崎の新府城への移転を断行します。
しかし、城下町、家臣屋敷はおろか、城の二の丸、三の丸も建設されていない
新たな拠点に、実際に付き従ったのは、家族と一部の側近、家臣のみ。

その後も、勝頼公は織田信長との和睦交渉を試みますが、
織田方は、勝頼公を朝敵とする大義名分を積み上げ、
ついに武田領への侵攻を開始。
その同じ日、天正10年(1582)2月14日、浅間山が噴火。
噴火を東国の異変の前兆・・と当時の人々は感じてしまったのでしょう。
武田軍でも動揺が広がり、同年3月3日、勝頼公は新府城にも火を放ち・・・
最後は武田家ゆかりの天目山を目指す途上で自害されます。

・・・
当館の特別展示室では、館跡や城下町出土のものをご紹介しています。
かつては主殿の床の間を飾った陶磁器など、価値の高いものだったようですが、
ほとんど全てが破損した状態で出土しており、そのままをご覧頂いています。

けれども、当時の状態をほぼほぼ保っているものもあるんです。
城下町の家臣屋敷跡で、「天久(てんきゅう)」という地名から、
かつては信玄公の弟・信繁さまがお住まいになった場所かも知れない土地。
そこから出土したものは、完全な形の染付皿や天目茶碗、一定量の銅銭。
完品だったワケは、これらは水路に捨てられたのではなく、納められていたから。
調査から、勝頼公の時代のものと考えられていて、
もしかすると、陶磁器の主は、勝頼公と共に新府城に向かいながらも、
いつかは甲府に戻りたいという思いで、
または、地主神への感謝の印として、
大切なものを、水路に埋納したのかもしれません・・・。

・・・
現在、当館の特別展示室では、
永正16年(1519)12月20日の信虎公の躑躅が崎館への移転、
天正9年(1581)12月24日の勝頼公の新府城への移転を記念して、
信虎公バージョンと勝頼公バージョンの御城印、2種類をご用意しております。
ご見学記念品として、どちらか一枚になりますが、ぜひお受け取りください!

※配布期間にご注意ください。
勝頼公バージョンは12月28日(水)まで、
信虎公バージョンは令和5年1月9日(月)までです。


武田氏館跡御城印・勝頼公バージョン
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信玄公没後450年カウントダウン甲府歴史講座~甲府を学ぶ~2回目

2022-12-23 13:59:48 | イベント
12月22日(木)甲府歴史講座の第2回を開催しました。

『甲府盆地南側での新発見!!』をテーマに
山梨県観光文化部埋蔵文化財センター 
文化財主事 岩永祐貴さんが講演しました。


クイズやアンケートがあり
受講者さんが積極的に参加していました。

甲府盆地南側は、遺跡が希薄な地域とされていましたが
最近では、リニア中央新幹線と新山梨環状道路工事のため、
新たな遺跡の発見が相次いでいます。


休憩時間では、受講者さんが
発掘された土器等を触ったり
パネルをご覧になったり、
埋蔵文化財センターの職員の皆様に
質問をしていました。

冬になりめっきり寒くなりましたが
受講者さんの熱意に心が暖かくなりました!

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お館さまと冬至のかぼちゃ

2022-12-23 10:39:22 | 紹介
甲府も、12月後半にもなれば、寒さがぐっと厳しくなります。
一方でクリスマスとお正月がいよいよ近づいてきて、
何だか楽しい季節到来🎅🎍


でも、その前に冬至もありましたね。
今年の冬至は、2022年12月22日で、
かぼちゃを食べた方、ゆず湯に入って温まった方も多くいらっしゃったかと思います。
この日は、1年で最も太陽が出ている時間が短く、
翌日からは、再び太陽が出る時間が長くなることから、
「太陽が生まれ変わる日」とされ、
悪いことの後、良いことがめぐってくる「一陽来復(いちようらいふく)」
とも呼ばれてきました。

冬至の日に、かぼちゃを食べるのは、かぼちゃの黄色が魔除けの色で、
栄養価も高いことから、かぼちゃを食べて無病息災を願ったから。
また、「ん」がつくものを食べると「運」が良くなる、
「ん」が二つなら、なお良い(!)という言霊(ことだま)思想からも好まれたようです。
「かぼちゃ」のどこに「ん」がつくの?と首を傾げた方は東日本の方。
かぼちゃは西日本では「南瓜(なんきん)」と呼ばれ、
「南」から陽に向かうことが連想され、更に縁起が良いと考えられてきたそうです。

かぼちゃは、1542年ごろ、ポルトガル船によって九州に持ち込まれたのが最初とか。
時期が微妙で、信玄公がかぼちゃを召し上がったかどうか、知るよしもありませんが、
かぼちゃを縁起ものとして、この時期に食べることには「異議なし!」だったはず。
というのも、信玄公もまた、言霊、言葉の力を信じた武将のお一人だったから。

「言霊」を簡単に定義するならば、このようになります。
① 古代、ことばにやどると信じられた霊力。
発せられたことばの内容どおりの状態を実現する力があると信じられていた。
② 予祝(よしゅく)の霊力を持った神の託宣。
※予祝=あらかじめ祝って、良いことを引き寄せる。 例)農耕開始の儀礼
(https://kotobank.jp/word/より)

出陣の際には身を清め、連歌会(れんがえ)で戦勝の祈りをのせて歌を詠む。
それを神社に奉納して戦勝を祈願し、
「三献(さんこん)の儀」、今で言う「三三九度」に入ります。
ここでは3種の肴×3杯=9杯の酒を飲のですが、
酒の肴は、「勝栗」=勝って、「打鮑(うちあわび)」=討って、「昆布」=悦ぶの順に口にして、
帰陣の時の酒の肴は「打って」、「勝って」、「悦ぶ」の順で。
順序は家によって異なるようで、以上は武田家流ですが、
出陣の儀で、先ず勝栗の「勝って」を持ってくるところ、勝利への執念を感じます・・・

「出陣の肴組(さかなぐみ)」は、きっとこんな感じだったはず・・・。
(特別展示室にて展示中)
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