甲斐にやってきた永楽銭(その3)

2021-01-29 10:33:33 | イベント
伊勢を中心に、東国に大量に流れた永楽銭。

伊勢と東国!?

その関係は、中世もはじめの頃からで、
大型船「関東渡海廻船」が多くの物資を積んで、往来していたことがわかっています。
伊勢と東国の、意外にも緊密な結びつきを示すものとして、
例えば、甲斐の商人頭として、武田氏に引き立てられた坂田氏は、伊勢出身の商人。
武田水軍として、武田氏家臣となった小浜氏も伊勢出身の海賊。
武田氏の下で活躍した伊勢の人々は、他にも少なからずいたに違いありません。

・・・
周囲の国々の影響や、物流の発達の下で、価値が下がり始めた銅銭。
問題の永楽銭も例外ではなく、
扱いとしては、基準となる貨幣に、一定程度混ぜて支払うことが認められた部類。
こうしたことを定めた撰銭令などの大義名分は、円滑な流通のため。
でも、本当のところ、大名や商人などが少しでも多くの良銭を手元に残すため、だったりして!?

ものの売り買い、税金の支払いに、
良銭プラス永楽銭などの準良貨が使われた場合、
やっぱり、良銭を手元に残して、永楽銭は他で支払いに使いたい。
そこで、永楽銭を好む傾向にあった東国との交易では、積極的に永楽銭を使う。
伊勢の大湊では、入港料の基準通貨も永楽銭にしたりして、さらに集める。
ここでは、他のレートよりもちょっと永楽銭高で、永楽銭1枚=鐚銭(びたせん)7枚!
そうして、永楽銭が、優先的に東国に流れる仕組みが作られます。
これぞ戦略😉 

そんなこんなで、伊勢と関東・東海・中部を結んだ
永楽銭地域通貨圏が、一時的にせよ成立し、銅銭が滞らずに、流通ε-(´∀`*)ホッ

1550年からその傾向は見え始め、1570年ごろには明確なものとなり、
永楽銭は、東国で最も流通する銭貨となり、
発掘される埋蔵銭も、永楽銭の占める割合が高くなります。

同じころ、西国では取引手段は貨幣から米へ転換。
今後の取引を見越した大名などは、金や銀を求めて、ゴールド&シルバーラッシュが始まります。
これは東国も同様で、甲斐金山も信玄公の下、最盛期を迎えます。

その結果か、確かなことはわかりませんが・・・
伊勢における取引は、銭貨から、なんと金に転換していくのです。
米でも、銀でもなく。

当館、特別展示室の古銭「永楽銭」は、
おそらく伊勢と東国を結ぶ地方通貨として流通したもの。
それは、長年暮らした土地に納めるにふさわしい「さし銭」として認められ、
水路に大切な食器類と共に納められたのでした・・・。


これもまた、歴史を作る1ページ。

パンフレット「武田城下 ぶらり歴史探訪 ~家臣屋敷地散策コース~」より
信玄ミュージアムは青い矢印
当館・特別展示室にて展示中の古銭の出土地は、赤い矢印
徒歩5、6分👣の距離です。


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