強風で寒い一日でした。春の足音はいつになったら・・・

2021-01-30 17:26:44 | 紹介
暦の上ではもうすぐ立春を迎えますが、春の足音は、いつになったら聞こえるのでしょう?
というくらい、今日の甲府は強風で、体感温度もいつも以上に寒く感じました。
あまりに風が強いので、旧堀田古城園も窓の開放面積を狭くしてしまい、悪条件の中、
お越しいただいた来館者の皆様にもご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでしたm(_ _)m

閉館間際の古城園建物の軒下には凍えそうに丸まった、にゃんが1匹。
いつもなら、お友達なのか兄弟なのか、数匹で集まって温め合ってますが、今日はみんなお留守か、一人でじっとして。
 
この距離間では早々に逃げ出すのですが、あまりに寒くて身動きできずでした。
庭の木々もやぶ椿や梅の花も、まだまだつぼみが固く、開花まではもう少し。

とはいえ、カレンダーでは1月も残すところあと1日。
もうすぐ2月ですが、甲府市の酒折にある梅の名所 不老園が今年も1日から開園予定。
この寒さでも梅の花はたくましく咲き始め、春の訪れをさりげなく伝えてくれています。
本番はこれからですが、一足早く道沿いの紅梅をキャッチ。
甲府にお越しの際は、当館とともにお立ち寄りくださいませ。
詳しくは、http://www.furouen.jp/

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲斐にやってきた永楽銭(その3)

2021-01-29 10:33:33 | イベント
伊勢を中心に、東国に大量に流れた永楽銭。

伊勢と東国!?

その関係は、中世もはじめの頃からで、
大型船「関東渡海廻船」が多くの物資を積んで、往来していたことがわかっています。
伊勢と東国の、意外にも緊密な結びつきを示すものとして、
例えば、甲斐の商人頭として、武田氏に引き立てられた坂田氏は、伊勢出身の商人。
武田水軍として、武田氏家臣となった小浜氏も伊勢出身の海賊。
武田氏の下で活躍した伊勢の人々は、他にも少なからずいたに違いありません。

・・・
周囲の国々の影響や、物流の発達の下で、価値が下がり始めた銅銭。
問題の永楽銭も例外ではなく、
扱いとしては、基準となる貨幣に、一定程度混ぜて支払うことが認められた部類。
こうしたことを定めた撰銭令などの大義名分は、円滑な流通のため。
でも、本当のところ、大名や商人などが少しでも多くの良銭を手元に残すため、だったりして!?

ものの売り買い、税金の支払いに、
良銭プラス永楽銭などの準良貨が使われた場合、
やっぱり、良銭を手元に残して、永楽銭は他で支払いに使いたい。
そこで、永楽銭を好む傾向にあった東国との交易では、積極的に永楽銭を使う。
伊勢の大湊では、入港料の基準通貨も永楽銭にしたりして、さらに集める。
ここでは、他のレートよりもちょっと永楽銭高で、永楽銭1枚=鐚銭(びたせん)7枚!
そうして、永楽銭が、優先的に東国に流れる仕組みが作られます。
これぞ戦略😉 

そんなこんなで、伊勢と関東・東海・中部を結んだ
永楽銭地域通貨圏が、一時的にせよ成立し、銅銭が滞らずに、流通ε-(´∀`*)ホッ

1550年からその傾向は見え始め、1570年ごろには明確なものとなり、
永楽銭は、東国で最も流通する銭貨となり、
発掘される埋蔵銭も、永楽銭の占める割合が高くなります。

同じころ、西国では取引手段は貨幣から米へ転換。
今後の取引を見越した大名などは、金や銀を求めて、ゴールド&シルバーラッシュが始まります。
これは東国も同様で、甲斐金山も信玄公の下、最盛期を迎えます。

その結果か、確かなことはわかりませんが・・・
伊勢における取引は、銭貨から、なんと金に転換していくのです。
米でも、銀でもなく。

当館、特別展示室の古銭「永楽銭」は、
おそらく伊勢と東国を結ぶ地方通貨として流通したもの。
それは、長年暮らした土地に納めるにふさわしい「さし銭」として認められ、
水路に大切な食器類と共に納められたのでした・・・。


これもまた、歴史を作る1ページ。

パンフレット「武田城下 ぶらり歴史探訪 ~家臣屋敷地散策コース~」より
信玄ミュージアムは青い矢印
当館・特別展示室にて展示中の古銭の出土地は、赤い矢印
徒歩5、6分👣の距離です。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

甲斐にやってきた永楽銭(その2)

2021-01-27 09:18:53 | 紹介
当館の特別展示室にて展示しております、「古銭」のさし銭
中国で鋳造された永楽銭が、どうして甲斐国に?
武田氏館の城下町跡で出土した「古銭」の旅をたどっていましたが・・・
時事ネタでいろいろとアップ記事があり、年末に書き始めてからずいぶん時間が経ちました。
ちょっと長くなってしまい、(その1)、(その2)と掲載していました。
リズムよく♪更新したかったところ、年をまたいでしまい、申し訳ありませんでした🙇
つづきの記事になりますが、お付き合いくださいませ。


そんなわけで、武田氏館や城下町跡からも出土する永楽銭です。
この「永楽通寶」は15世紀初頭以降、明で鋳造された銅銭。

宋銭、洪武銭、永楽銭に、私鋳銭・・・国内で流通していた複数の銅銭。
同じ銅銭ながらも、品質はさまざまで、ちょっとでも良いお金がほしいのは、大名含めて皆同じ😉 
銅銭を選り好みする傾向は、日ごとに深刻になっていたのでしょう😨
そこで、ものが、お金が滞らないために発布されたのが「撰銭令」。
室町幕府や戦国大名は、法令や法度で銭貨を選ぶことを禁じたり、
銅銭ごとの換算レートをもうけたり、お金にまつわる取り決めを試行錯誤。

というのも、円滑な物流は、戦国大名の生命線。
戦の絶えない世において、人、食料、武器などを調達する能力は、
強兵の条件といっても過言ではないくらい。
それを支える、しっかりした物流システムと交通網はなくてはならないものでした。

何かを運ぶ時、最もシンプルなのは、陸路を使うことでしょうか。
しかし、7世紀頃、なるべくまっすぐ平たんに整備された幹線道路のルートは、
集落や町から外れることも多かったようで、流通にはちょっと不便だったとか。
さらに、一人の人間が運搬できる量には限りがあり、馬は、と言えば高価な家畜。
こうした問題の他に、治安の問題もありました。

陸路のほかに重要な役割を果たしたのが海路🌊です。
天候に左右される運搬手段ながらも、
たとえ小型船でも、その運搬量、スピード共に、陸路より勝ること間違いなし。
水路の玄関口は交通の要衝として発展し、莫大な経済力を生むにいたります。
「東洋のベニス」と称された堺が良い例です。

当時は、この堺の他にも伊勢の商人たちも活発な活動をしていたようです。
伊勢の場合、港だけでなく、全国的な信仰を集め、多くの荘園を持つ伊勢神宮があり、
そのネットワークをベースに、そのまま全国展開の物流ルートに。

その伊勢商人が中心となって、銭を大量に東国、そして甲斐にも流したようなのです。
伊勢と甲斐!?
その結びつきにピンときませんが・・・
ちょっと長くなってしまったので、今回はこの辺で。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

信玄ミュージアム サーマルカメラ導入しました📷

2021-01-25 10:07:21 | 紹介
先週末は、県内でも甲府盆地の周囲や富士山麓方面は降雪があり、旧堀田古城園から
屋根越しに眺める遠くの南アルプスの山々も真っ白に雪化粧となっています。
 
おかげさまで、週末の甲府は雨に終わり、今朝は比較的寒さも和らいで、
人気のない古城園では、にゃんこも、のんびり座り込んで大あくび(´Д`)


緊急事態宣言に輪をかけて大雪の警戒で外出者も少なく、ミュージアム周辺は静かな週末でしたが、
思い返すと、なんだかお隣の国で新しいウイルスが流行ってるらしい???
どうやら、日本でも確認されたらしい???
と、新型コロナウイルスが、日本にも怪しい影を落とし始めたのが1年前くらい。

その後、国内の感染拡大を受け、当館も長い臨時休館を経て、、再開館。
以降、非接触型の体温計で、ご来館の皆さまの体温を一人ひとりチェックをさせていただいてきました、が・・・
この度、信玄ミュージアムの総合案内にもサーマルカメラが設置されました♪

ご入館いただき~

手指のアルコール消毒をしつつ~

かわらけ君をちらっと見ていただければ、ばっちりです👌
・・・な~んて。今どきのカメラ📷は素晴らしく✨、
カメラの正面に立たずとも、検温エリアに入れば、知らない間に、ちゃんと測ってくれるんですね。
これで、皆さまのご入館が、少しでもスムーズになれば幸いです。

・・・突然ですが、クイズです!
かわらけ君、あることをもくろんで、ちょっと雰囲気を変えてみました。
さあ、どこをイメチェンしたでしょう?(こたえは、この下☟)

いつかは「なつかしい~」なものになるのかも!?

こたえは眉毛!
かわらけ君も、サーマル君に顔認証してほしかったんですって!
この眉毛で0.5秒くらい、顔認証してもらえるとか😷 
眉毛なし、いつものかわらけ君(今年もまだまだ鬼滅仕様の市松模様マントでお出迎えしています。)
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ハレの日の料理に、お肉がない!(その2)

2021-01-24 17:25:22 | 紹介
山梨県立博物館が復元した、武田氏のハレの日の料理

料理を彩る中心にあったのは、鳥や海川のものでした。
シカやイノシシ(今でも時に出没!)のお肉が選ばれなかったわけは?
理由のひとつは、どうやら、平安時代、帝や貴族を中心に顕著となった
肉食禁忌にあったようです。

時を経て、鎌倉幕府による国の統治が始まりますが、
権力の根拠は征夷大将軍という、天皇制の枠の中の官職にあり。
本来は、公家の殺生を請け負った武士なので、狩猟なども不可分な領域でしたが、
こと儀礼において、肉食禁忌は無視できないルールになっていたのでしょう。
武家政権として、殺生という生業と肉食禁忌のルールとの折り合いをつける必要が生じます。
そして、建長4年(1252)、後嵯峨天皇の第一皇子、宗尊親王(1242-1274)を
鎌倉幕府の第6代将軍にお迎えしたことをきっかけに、
鎌倉の京都化が進み、鹿肉禁忌も本格的に東国に導入されます。

室町時代に至り、武家故実の中でも、とりわけ儀礼関係が整い、
鷹狩を除く狩全般・肉食全般への禁忌もさらに強まったことは、
足利義満が自らを「鹿苑院」と号したことからも明らか。

それでも山野を巡る武士の「巻狩」などがなくなることはありませんでした。
巻狩とは、娯楽や神事祭礼、軍事訓練として行われた大規模な狩猟のこと。
源頼朝が征夷大将軍に任命された翌年に行った「富士の巻狩り」もそのひとつ。
つまり、狩猟は単に生きるための糧を得るためではなく、
時に、その土地の統治者としての資格を神に問う行為にもなり、
獲物を得ることは、すなわち、土地の支配を神に認められたことを意味したようなのです。

信玄のライバル織田信長もまた、京近郊では鷹狩を行い、その獲物を天皇に献上する一方で、
本拠地の岐阜では、鹿狩を楽しんだという記録が残されています。
まさにそれは、天下人を自負したパフォーマンスだったに違いありません。

最近は「ジビエ」なんて言葉で一括りにされることが増えた野生の動物たち。
寒いこの時期ですと、鹿肉を使った鍋を「紅葉鍋」、猪肉を使った鍋を「牡丹鍋」
などと呼んで食べています。
由来は、お肉の色や花札の柄、はたまた肉食の目隠しだったなど、諸説あるようです・・・。
ただ、そうした隠語が今でも残っているのですから、日本人の中に肉食禁忌の観念が
深く根付いている証拠でしょうか?
身近なところでは、馬のお肉を桜肉なんて呼んでいますね。
当館に展示している戦国時代の馬骨は、桜肉として食されることなく、ちゃんと丁寧に埋葬されたようですのでひと安心😨 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする