遠くとも一度は詣れ善光寺♪

2022-05-30 15:39:26 | 紹介
全国六善光寺で、七年ぶりの御開帳開催中!
その御開帳も6月29日(水)までとなっていますので、残り1か月を切りました。

当館でも、善光寺さん所蔵の貴重な古文書などを中心に企画展を開催中。
それに加えて、写真↓の仮名で書かれた「善光寺如来縁起」(個人蔵)も展示中です。

本田善光に背負われて、信濃に向かう善光寺如来さま。
「三国伝来善光寺如来縁起」より

お寺や神社創建の由来や、霊験の物語を伝承した「寺社縁起」。
縁起が記されるようになったのは奈良時代のころ。
寺社の由緒の正当性が、財産目録などと一緒に記され、国に提出されました。

それとは別に、浄土教が流行する鎌倉時代くらいから、
寺社の霊験譚を語り広める念仏聖(ひじり)の活動が各地に広まり、
さらに、神社仏閣のストーリーを絵にして、よりわかりやすい「絵解き」もさかんに。
室町時代には、絵解きを生業にした人々が出てくるほどに、
娯楽・芸能の一つとして、庶民に親しまれれるようになります。

現存最古の「善光寺縁起絵伝」も、室町時代のもの。
信州善光寺の宿坊の中でも、お寺の縁起伝承をお役目とする
「淵之坊」に所蔵されています。

このころから、わずかとはいえ、一部の寺院で庶民教育が始まり、
農村でも、「お伽草子」や、教養といったものが目や耳を通して学ばれ、
また、琵琶法師による「平家物語」の語りなどによって、
仏教や儒教、道徳が伝えられたといいます。
そして、こうした物語が活字化されるのは、
庶民の識字率が更に高まり、印刷技術が発達した江戸時代以降。
漢文で書かれた善光寺如来の霊験譚「善光寺縁起」が、
仮名書きの「三国伝来善光寺如来縁起」として刊行され、
広く読まれたのも元禄年間(1692年)。

「遠くとも一度は詣れ善光寺」「一生に一度は善光寺詣り」
一度でも、善光寺如来さまと結縁すれば、極楽往生が約束される・・・
江戸の旅行したい場所番付(!?)ベスト1(!?)だったかはわかりませんが、
仮名で書かれた「三国伝来善光寺如来縁起」も、
”憧れの旅先「善光寺」”に一役買ったに違いありません・・・!

・・・・・
でも、くずし字って読めるようで全く読めない(-_-;)
当館の特別展示室で、4月から展示している、
善光寺さん関連の書状もなかなか達筆。
ついつい素通りしがちですが、、こちらで展示中の書状は、本文と解説付き。
「???」な文字も「なるほど!!!」に変わります。
古文書と出会って、古文書の静かなブームにはまってみるのはいかがですか?
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旧堀田古城園、そろそろ見納めのコアジサイのこと(*˘︶˘*).。.:*♡

2022-05-29 11:57:45 | 紹介
5月もあとわずかとなり、気温30度に近いお天気☀が続いている甲府です。
今日は最高気温33度(!)の予報も出ていますが💦
これからやってくる夏の日差しと比べれば、
まだまだ過ごしやす〜い😌 という気分に・・なりませんか。

当館敷地内の旧堀田古城園の庭も、
花が楽しい季節が続いていますので、ちょこっとですが、ご案内♪

旧堀田古城園、南の和室前。
ザクロの花、そして、ちょっと硬そうなつぼみの数、去年よりも大幅アップ✨


ひし形のお茶室前のコバノズイナ(白)にシモツケ(ピンク)
どちらもふわふわとした小ぶりの花がかわいいんです。

そして、こちらのお庭ではそろろそ見納めの水色のコアジサイ
コアジサイ含め、アジサイは日本の固有種だそうです。
コアジサイは関東から九州にかけて、山野の明るいところに自生し、
人工的な栽培は、少しコツが必要だとか。
その花言葉は「忍耐強い愛」
目立たない場所で花を咲かせ、香りを放つ姿から、この花言葉がついたそうです。

アジサイが西洋に持ち込まれたのは18世紀末。
かのドイツ人医師、シーボルトが国外追放に処せられた後、
故国で出版した「フローラ・ヤポニカ(日本植物誌)」でも、
17種のアジサイを掲載。
その中には「オタクサ」という、「空色のアジサイ」もあったそう。
この「オタクサ」は、シーボルトの日本の妻「お滝さん」が由来。
スパイ疑惑で、望まない別れと帰国を強いられたシーボルト。
「空色のアジサイ」は、「お滝さん」を連想させるものがあったのでしょうね。
※ちょこっと後日談 シーボルトは30年後、国外追放を解かれ再び来日。
 娘の「いね」とも再会し、3年間の滞在中、日本研究やヨーロッパの学問を教授しました・・・。

アジサイは「万葉集」でも詠まれるなど(2首だけのようですが💦)
夏の季語にもなっていますが、今ほどの人気はなかったようで、、
例えば、紫陽花文様の家紋はあるにはありますが、
「我が家の家紋はアジサイだよ〜」という武将は、インターネット上では見つかりませんでした。
ちなみに、武田家家紋「花菱」の「花」は、奈良時代、中国から持ち込まれた「唐花」という、
「蓮花(れんげ)、パルメット、牡丹(ぼたん)など
数種の植物モチーフを合成してできあがった華麗な文様」を使っているようです。
(「日本大百科全書」(ニッポニカ)より)

ずいぶんと脱線してしまいました🙇
旧堀田古城園のお庭は、ツツジやヒメウツギなどなど、
しばらくは入れ替わり立ち替わりで花が咲いていきます。
とっても控えめだけど、見つけてうれしい💓 見れば見るほどにかわいい花々💓
甲府にお立ち寄りの際は、ぜひ武田神社と信玄ミュージアムにもお越しください。

武田神社の気持ちの良い空の下、皆さまのお越しをお待ちしております😊 
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恵みの雨?

2022-05-27 11:39:35 | 日記
先日は、全国的に荒れたお天気で、山梨でも盆地東部では雷雨とともに、
雹が降ったようです。果樹地帯で桃やぶどうの成長に大事な時期ですから
この時期のお天気の急変は、山梨県民にとっても気になるところです。
一方、甲府では雨も振らずにお天気が続いていましたが、昨夜から降り始めた雨は
今朝は激しく降りまして、旧堀田古城園のお庭にも大きな水溜まりがいくつもでき、
通行に支障が出るのではないかと心配されました。
久々にお見かけしたニャンも雨宿り中。
こちらは雨の中を猫の手も借りたいくらい慌ただしく開館準備をしていましたが、
ニャンは、来館者のいない長屋のデッキで、のんびり静かな時を過ごしていました。

庭の木々もこのところ雨がなかったので、表面もカラカラで
低木もやや元気をなくしていましたが、これで一息つけそうです。
今年は、樹齢150年近いザクロの木もたくさんの花をつけ、
スタッフがせっせと受粉作業をしていますので、
秋にはたくさん実をつけるのではないかと思います。



おかげで開館する頃には雨も止み、平常通りの開館となりました。


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「山梨県立博物館シンボル展〜天津司舞・900年の想いとともに〜」のご案内

2022-05-26 17:06:21 | イベント
天津司舞(てんづしのまい)とは!!
等身大の9体の木造人形を人が操り、田楽(でんがく)を舞う民俗芸能です。
甲府市小瀬町の天津司神社に伝わるもので、起源は中世。
なんと、国指定重要無形民俗文化財の第1回指定(初回指定)を受けています!


山梨県立博物館にて
5/28(土)〜6/27(月)
9:00〜17:00(入館は16:30まで)開催。火曜日は休館。

「日本最古の人形芝居」とも評されている
国指定重要無形民俗文化財天津司舞(てんづしのまい)
関わる用具や記録などが展示されています。

また、継承の歴史と現状が紹介されています。
用具類の一般公開は約60年ぶりとのこと。
湖水伝説とのかかわりや田楽についても学べます。


以前見学した時を思い出してみると
御鹿島様(人形)舞の際に、木で作られた小刀が
幕の外に投げられるのですが、縁起物の小刀を拾おうと
見学者皆様楽しんでいました。
青空の下、桜と人形の舞、皆様の笑顔が印象的でした。

古くから伝わる天津司舞は、明治維新や水害、戦争などにより
中断を余儀なくされてきました。現在の感染症もそうですね。
継承の危機である今こそ、天津司舞を深く知ってほしいです。


◯主催 山梨県立博物館
◯協力 甲府市教育委員会・天津司神社氏子・天津司の舞保存会

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ちょこっと比較♪「武田二十四将図」と「徳川十六将図」(その2)

2022-05-25 13:15:34 | 紹介
特別展示室にて展示中の「徳川十六将図幅」(山梨県立博物館所蔵)を、
「武田二十四将図」と比較しつつ、ご紹介しております。

前回は、カメラのない時代、何を元に武将たちのお顔を描いたの、なんて話を。
その続きです。

肖像画にクローズアップすると、戦国の終わりから近世の初めごろは、一つの転換期。
戦国大名が、生前に自分の肖像画、寿像(じゅぞう)を描かせ、
菩提寺に奉納することは珍しくありませんでしたが、
それが、配下の国衆などにも派生し始めたのがこの頃。
理由はさまざまだったと思いますが、地元の禅寺などの創建の時、
寺を開いた僧だけでなく、経済的支援者の肖像も秘蔵したようで、
それで国人衆も自らの像を描かせた・・という例も多かったようです。

国衆の肖像画の1例が、武田の御一門衆・穴山梅雪こと信君(1543−1582)の遺像。
本能寺の変の後に命を落としますが、その翌年に描かれ、静岡の墓所に奉納されました。

ごめんなさい💦画像はただ今準備中都のことです!(2022.5.22現在)

対して「徳川十六将図」で描かれた武将たちは、
「徳川軍功記」(1661〜1673ごろ成立)などの記録を元に、
誤解を恐れず言うならば、幕府創建の功を”正式に”評価された方々。
軍団絵にどこまで参考にされたかはわかりませんが、
菩提寺に奉納した遺贈や寿像が現存する方もちらほら。
本多忠勝(1548−1610)は、関ヶ原の戦い後に描かせたという肖像画を遺していますが、
とても印象的なお姿ですので、もしかして軍団絵にも影響を与えたかもしれません。
(↑こちらは、忠勝の死後に写したもの。千葉県立中央博物館大多喜城分館保管)

図像上では、武田氏の家臣とは違って、それぞれにクールに泰然と、
それこそ高僧や、仏法・仏教徒を守護する護法善神のごとく。
同じスタイルで「徳川十六”神”将図」と呼ばれるものもあるくらいですから。
ただ、「徳川十六将図」は「武田二十四将図」よりもバリエーションが豊富なようで、
あるパターンででひとくくりするのは難しいかもしれません🙇
浮世絵の題材となればなおさらで、皆さま歌舞伎役者然と描かれた作品も多く、
初期の「徳川十六神将図」とは全くの別物になっています。

とはいえ、両者の違い。やはりそこは、一度は廃絶した武田家の脚色のしやすさと、
現在進行形の将軍家とその家臣団の描写の難しさかと。
武田の家臣たちはそれぞれに、「お館さまのため!」とばかりに、軍議に夢中。
家臣たちの間で交わされる視線は四方八方でも、
家臣全体に注がれる信玄公の視線が、軍団絵をひとつにまとめているようにも・・感じます。
まさに徳川幕府が理想とした、忠義で結ばれた主従関係が体現されていますが、
今回展示の「徳川十六将図」は、「東照大権現」として祀られた家康公と家臣団の肖像画。
徳川氏が、三河の一大名による幕政をどのように正当化していったのか・・・
その一端を垣間見ることもできる図像。
こちらは、仏画的雰囲気、かつ秩序を感じますが、どうでしょう。

図像に何を観て、感じるかは人それぞれ。
丁寧に彩色された作品で、個人的にはルーペ(p_-)片手に鑑賞したい作品です。

おまけ🍭
現在、当館で展示中の「徳川十六将図幅」(山梨県立博物館所蔵)
こちらは、江戸時代中頃に活躍した狩野派の絵師、狩野柳雪(1647?−1712)の作。
狩野派といえば、室町から江戸にかけて日本絵画史上最大の画派。
金泥✨もふんだんな障壁画のイメージですが、あらゆる分野の絵画を制作しました。
江戸時代の狩野派は、旗本同格の「奥絵師」四家を頂点に、
「表絵師」十二または十五家、そして「町狩野」と明確に格付けされていましたが、
「表絵師」の柳雪は、京都御所や江戸城の障壁画などを手がけました。
その他の柳雪作品は、仁和寺(京都府)や大英博物館などにも所蔵されています・・・。
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