信玄公ゆかりの地でネコ歩き

2023-05-26 15:22:20 | 紹介
昨日、NHKのBSプレミアムの「岩合光昭の世界ネコ歩き」という番組で、
山梨の猫たちが取り上げられました。
その中に、武田信玄公ゆかりの寺院でのびのびと暮らす猫たちも放送されました。
菩提寺であります恵林寺様、そして、甲府の甲斐善光寺様と紹介されましたが、
このブログでも甲斐善光寺様の境内で蝶と戯れるニャンをご紹介したこともありました。
下の写真の子は、放送でも紹介されていましたが、ブチくんと言うらしいです。
先日紹介したこの子も甲斐善光寺様に出入りしている子かな?

今回の企画展で資料をお借りする際にそんな話も聞いてはいたのですが、
こちらで告知するのをうっかり忘れてしまいました。
再放送もあるようですので、お見逃しの方はどうぞ。

5月30日 (火)  14:00 ~ 15:59 (BS4Kのみ)
6月  1日(木)  08:00 ~ 09:29 (BSプレミアム、BS4K同時放送)

しばらくお目にかかれていませんが、信玄ミュージアムを縄張りにするニャンたちも
元気に活動中とのこと。
母ニャンと、その息子のお兄ちゃん。
夕方、少し静かになった頃に顔を見せることが多いので、信玄ミュージアムでも
ぜひネコ歩きしてみてください。
現在開催中の企画展も、甲斐善光寺様と相互割引サービスを実施中ですので、
この機会に両方をご訪問いただければと思います。
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実はいくつもある信玄公の墓所

2023-05-24 18:10:45 | 紹介
長々とドラマの進捗に合わせて信玄公が亡くなる直前の軍事作戦と合わせて
ご紹介してきましたが、改めまして、今年は亡くなられてから450年の節目を迎えました。
徳川家康が主人公とはいえ、大河ドラマで信玄公も久々に大きく取り上げられ、
かつ信玄公の軍略の真髄を見せた三方ヶ原の戦いも描かれ、最期に見せ場がありました。
そして、信玄公の死は、秘密のはずが隠し切ることはできず、各方面に大きな影響を与えていきました。

とはいえ、死を隠すよう遺言されたこともあってか、実は、亡くなった場所もいくつかあります。
有力な場所は、下伊那郡の駒場なのですが、三河からの撤退路上に数カ所伝承地や
その死地を示すものも残っていたりしまして、断定はできないのであります。
さらに、信玄公の墓所も複数あります。
供養塔の意味合いもありますので、どこも本物といえば本物でして、説明する側からすれば
非常に困ったものなのです。
一番有名で多くの方に納得いただけるは、菩提寺である甲州市の恵林寺の墓所です。
そのほか、甲府市内にも2箇所あり、その一つが火葬塚と呼ばれる場所です。
武田氏館跡に近い岩窪にありまして、墓石は後世のものですが、しっかりと管理され、
きれいに整備されています。
死を3年隠すために仮安置された重臣土屋氏の屋敷の推定地とされ、
そこで火葬されたと言われています。
長らく地元の人も寄り付かない場所になっていたところ、江戸時代に時の代官が
発掘調査したところ、信玄公の名を記す墓誌と火葬された骨が見つかったとか。
かなり略した概要ですが、それから墓所として整備されていき、火葬塚と呼ばれています。

さらには亡くなられた地である長野県や最期の軍事作戦を行った愛知県、
そして京都市内や遠いところでは和歌山県の高野山にもあります。
高野山の供養塔は、信玄公だけではなく勝頼公の供養塔もあり、親子二代の墓所となっています。
高野山には空海が眠る奥の院につながる参道沿いに全国各地の名の知れた大名墓
が数多くあり、その中の一画にありまして、現在県指定文化財にもなっています。
信玄公の頃に甲斐国の人々の宿所として定めた成慶院を現在管理しておられる
櫻池院様が墓所の管理もされていますので、きれいに整備されています。
苔むしていますが、五輪塔の台座部分に刻まれた戒名が少し読めますので、
行かれた際は、近くでご覧になってみてください。
信玄公が亡くなった場所や墓所の解説は、開催中の企画展でパネル展示していますので、
ぜひ、ご覧になってください。

また、今月も週末に躑躅ヶ崎歴史案内隊の皆様による館跡のガイドが企画されています。
企画展展示物の中には、館内を描いた絵図も展示中ですので、古絵図で見て、
現地を歩いて比べて体感すると、よりリアルな信玄公の住まいが感じられると思います。
ぜひ、現地でお声がけください。

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信玄公、最期の出陣ラスト

2023-05-22 17:08:37 | 紹介
とうとう14日放送回で、信玄公が亡くなられてしまいました。
病没と言われ、『甲陽軍鑑』では「膈」(かく)だったと記述されています。
「膈」とは、食事が取れなくなり、吐き戻したりすることある病気で、今の胃がんに当たる病気です。
また、家臣の御宿友綱が小山田信茂に宛てた書状の中では、「肺肝」(はいかん)だったと
記されています。
「肺肝」とは結核のことではないか、と言われています。
病名もどちらが正しいのかわかりませんが、このほかにも狙撃による負傷説もあり、
死因も断定が難しいところです。

『甲陽軍鑑』によるば、いくつかの遺言も遺されたようで、その中には有名な話ですが、
死を3年隠すことなどが記録されています。
ほかにも、家督は勝頼の息子の信勝が元服したら譲ることや、風林火山で有名な孫子の旗は
勝頼の使用を認めない、諏訪法性兜も信勝に譲ることなどもありました。
今回の大河ドラマでは、勝頼役の前田さんも獅子頭で赤毛の諏訪法性兜?
らしき兜を着用されていましたので、あれっ?という感じでしたが、武田家といえば
諏訪法性兜がシンボルなのでしょうね。
3年死を隠すことは、実際に生前に花押を書いて死後あたかも生きているように出すよう準備し、
実際に勝頼が使用していたことも明らかですので、すべて正しいとは言いませんが、
ある程度信憑性がある内容なのだと思います。

ちなみにですが、信玄ミュージアムではたまに信玄公の遺体は、三河遠征の帰路で
諏訪湖に埋葬されたのですか?
とお尋ねになる方がいらっしゃいました。
確かに遺言の一つではあるのですが、それには続きがありまして、
「諏訪のうみへしづめ申事ばかりは不仕」
諏訪湖には沈めなかったとありまして、遺体は甲府にお戻りになり、死後3年が経って
菩提寺である恵林寺で葬儀が執り行われています。
諏訪湖、諏訪大社は信玄公にとっては大切な存在だったのでしょう。
死を隠すことも国を守るための処置であり、自らの遺体を諏訪湖に沈めることで、
諏訪の神様と一体となって武田領を護ろうとしたのでしょうか。


いずれにしても、武田軍は奥三河から信濃路を経由して甲府に戻りました。
信玄公の死によって、その恩恵を被ったのは間違いなく徳川家康であり、絶体絶命の危機を脱し、
命脈を保ったことによって、後の天下取りにつながることになりました。
歴史に「もし、信玄公が生きていたら」はありませんが、本当に病気で志半ばで亡くならなければ、
徳川領は武田領に吸収されていたでしょうし、家康の生死もどうなっていたかわかりません。
とはいえ、信玄公による最期の遠征が後世に与えた影響は大きく、三方ヶ原での大勝がなければ
徳川の世で信玄公が神君となった家康のように神格化され、
評価されることもなかったかもしれませんし、現代まで語り継がれ、
全国的に名を馳せていたか定かではありません。

現在、信玄ミュージアムでは信玄公没後450年企画展「戦国大名武田信玄の遺産」を開催中です。
7月31日までは、前・後期で「ゆかりの品々から語る武田信玄」の展示をしています。
前期展は、6月12日(月)までとなっています。
甲斐善光寺様からお借りした寺外初公開の木造武田信玄公像ほかもお見逃しなく。
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信玄公、最期の出陣その4

2023-05-16 16:27:21 | 紹介
14日放送のNHK大河ドラマ「どうする家康」は、その前週に描かれた三方ヶ原の戦いの開戦から
家康討死!??を受けて、「真」の冠のついた三方ヶ原の戦いが局所的に描かれました。
合戦の結果は言うまでもありませんが、戦場ではまさに両軍決死の攻防が繰り広げられ、
数に劣る徳川軍が総崩れになり、家康も必死で浜松城まで退却したのだと思います。
戦いの様子を伝える記録の多くは後世の編纂物であり、さらに言えば、
天下を治めた徳川の世になって回想録的に記録された、歴史の勝者側が描いた合戦記録ですので、
史実の上に脚色された部分も多いことが予想されます。
浜松城の「空城の計」も有名な話ですが、果たして実際はどうだったのでしょう。

大敗であっても徳川軍は三方ヶ原での全滅を免れ、これから体制を立て直して反撃に
転じていく様子が描かれていくのですが、
この戦いは家康を成長させた敗戦とも評価されています。
家康の生涯で最大の敗戦にして、最大のピンチだった三方ヶ原の戦いが終わり、
いよいよ信玄公の体調が・・・。

余談ですが、ドラマの中でかなり消極的な援軍として描かれた佐久間信盛ら織田勢も
林秀貞や水野信元、平手汎秀ら織田家古参の武将らが参陣し、平手氏は討死を遂げます。
その後、佐久間信盛が織田信長から追放処分を受けた際の理由の一つに、
三方ヶ原での信盛の消極性が糾弾されることとなりました。
信長としても三方ヶ原での敗戦は、自身の敗戦とも捉えていたようです。
フィクションとして、開戦前に信長と家康が密会した演出も嘘ではなかったのかもしれませんね。


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ちょっと一息

2023-05-11 16:51:49 | イベント
5月8日(月)から長らく世界的に猛威を振るい、生活様式も一変させた
新型コロナウイルス感染症も2類相当から5類に引き下げられ、やっと長いトンネルを
抜けた感があります。
とはいえ、完全な終息に至ったわけではなく、かつ効果的な治療薬があるわけでも
ありませんので、依然として注意は必要かと思います。
そんな変更もありましたが、少し前のゴールデンウィークは各地でコロナ前、それ以上の
賑わいになったところもあったようです。
信玄ミュージアムもおかげさまで多くの方にご来館いただきました。
お天気も良く、お出かけには最適だったかもしれませんね。
明けて今週はちょっと一息。
静かなミュージアムに戻りました。

そのおかげか、隣の敷地かどこからか子猫の鳴き声が・・・。
旧堀田古城園のお庭のツツジの古株も順次開花中。
同じく古木のザクロも今年もたくさんの蕾を付けています。
昨年秋にこぼれた種から発芽した蕎麦の花も満開。
薄い青色の花をつけたコアジサイ。
青空に映えるエゴノキの花。
今日は、県内の中学生が校外学習の一環で、グループでたくさん見学にご来館
いただいていました。
この週末は、再び信玄公会心の戦となった三方ヶ原の戦いの続編がありますので、
もう少し信玄公が亡くなられるまでを追っていきたいと思います。


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