私の地域・歴史探訪×海なしやまなし発!海ごみZEROプロジェクト 開催しました。

2023-01-30 10:06:56 | イベント


1月29日(日)、信玄ミュージアムに皆さん集合して
晴天の中、清掃活動をしながら
武田氏ゆかりの地を散策しました。



ヴァンフォーレ甲府のマスコット「ヴァンくん」と
アンバサダーの橋爪勇樹さん
そして、海ごみZERO推進リーダーの神部冬馬さんも参加。

【Aコース】上府中コース(武田神社北側)
【Bコース】墓所・菩提寺コース(武田神社南側)

2つのコースで、それぞれ歴史文化財課職員がご案内しました。


武田神社東側。
武田氏滅亡後、織田信長が武田氏館に来たことなど
説明がありました。

勉強熱心なヴァンくん。
地形や土塁、道など
現在まで残っている場所を
しっかり確認できました。

可燃ごみ、ビン・カン、プラスチックなど
ごみ袋の担当があったのですが
皆様声を掛けあって、清掃活動していて
心が暖かくなりました。

信玄ミュージアムに帰ってくる頃には、
ごみ袋の中がいっぱいになっていましたよ。

ごみのない甲府になりますように。

ご参加いただき、ありがとうございました。


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戦場で頼りになるのは、やっぱり”これ”だった!?

2023-01-30 09:44:15 | 紹介
月末近くになりましたが、今年は日本各地で厳しい寒さが続いています。
物価高に加え、燃料費高騰で日々の生活も厳しい冬が訪れていますので、
安心して生活するには難しい時代になってしまいました。

戦国の世もまた、いわずもがな厳しい時代。
そんな時代に思いを馳せると・・・、
戦から一族を守らなくてはならなかった武将たちに、
心の安らぎって、どこまであったのでしょうか。

いつ裏切るかわからない親族に家臣たち。
結婚相手も、政略結婚。
時にそれは、自分が討ち取った武将の娘で、いつ喉を掻き切られるか!?
男子が無事に生まれれば、どこの娘(=国)を嫁(=同盟)にしようか、
女子であれば、どこの家に嫁がせようかと頭の中で勢力図を描き・・・

最終的に信じられるのは神さま仏さまだけだったりして!?

実際、戦国の武将たちはさまざまな神仏を熱心に崇敬しましたが、
もうひとつ、神道、儒教、仏教、道教などの思想や信仰全体の
軸となるような考え方が、広く受けれられていました。

それが星の通る道、自然の摂理、さらには因果応報や運命を想起させる「天✨道」。
天道=易・占いという捉え方から「何事も天道次第」とか、
「天道おそろし」と天の理に違うことによる「自業自得」とか、
「お天道(てんとう)さま=太陽」と拝んでみたり。
「天道」は、捉え方はさまざまでも、
現代を生きる私たちでも、理屈なしで納得できる、一種の運命論。

戦国武将たちも、戦をするなら、戦術、戦略、外交、調略、もちろん神仏も総動員。
勝つためにできることは全部して、・・・後は、天に任せる。
厳しくも、理にかなった「天道」に、
裏切りのない世界を見出していたとしても、なんら不思議はありません。

・・・
室町・戦国期は、戦い方が大きく変わった時代でもありました。
少し意外かもしれませんが、戦国時代の特徴のひとつが人口の増加。
鎌倉幕府が開かれた12世紀末から約400年の間に、なんと倍増。
16世紀末には、1200万人に達したのではないかと言われ、
開発によって生産力が上がったことなどが主な要因と考えられているようです。

自然、戦への動員規模も増大し、個人戦から足軽による集団戦法が中心に。
接近戦から長距離戦となり、武器も弓矢や長柄の槍などに変化。
もちろん鉄砲導入の影響は大きく、戦場での効果が認められるや否や、
鉄砲が伝来した16世紀前半よりわずか半世紀で、全国で使用されるようになります。
攻防の拠点も、地の利を活かした山城から、多くの兵を動かしやすい平地へ。

身を守る甲冑だって、大きく変化しました。
より高い防御性と動きやすさが、甲冑に求められ、
例えば、胴を守る部分は、
革か鉄の小片を組糸や革ひもでつづり合わせていましたが、
弓矢だけでなく、槍も通さない一枚の鉄や革の板で胴を巻き、
右脇で、組糸や革ではなく、鋲などで前後合わせるなどして閉じるようになりました。
西洋の甲冑を再利用した、南蛮胴と南蛮兜も登場。
西洋の甲冑はオーダーメイドが基本。
地形などの違いから、日本の合戦に対応するため、改造する必要もあり、
重いだけでなく、高価。
しかし、鉄砲の攻撃にも強く、徳川家康などに愛用されました。
家康は家臣にも南蛮胴を分け与えていて、
関ヶ原の戦いの前に徳川四天王と呼ばれる榊原康政(1548−1606)に与えた
南蛮胴具足は、東京国立博物館に所蔵されています。
ただ、こうした堅牢そのものの鎧はどうしても地味。
そんなわけで、具足に意匠をこらしたり、陣羽織をはおるようになったとか。

さらに、留具などの部品には、家紋や縁起の良いもの、
自らの信条を表現するモチーフなどがほどこされました。
「勝負に勝つ」の「菖蒲」であったり、
「決して退かない」「トンボ」であったり、
「長寿と繁栄」を意味する「菊唐草」など。
また、『甲陽軍鑑』によれば、信玄公の「諏訪法性兜」には、
神号「諏訪法性上下大明神」と記された前立物が付けられたといいます。

「どうなる家康」信玄公の等身大パネルなら、信玄ミュージアムです!
※3月17日まで、当館総合案内でご覧いただけます。

戦場で、最後の最後に頼りになるのは、
自分を”本当に”守ってくれる甲冑?
それとも天道?
皆さまなら、なにを頼りにされますか?
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戦国時代の武田軍の軍馬

2023-01-25 18:26:11 | 紹介
24日(火)は、休館日を利用して武田信玄に関するテレビ番組の収録がありまして、
武田軍の強さ、騎馬に関する内容を紹介するために、信玄ミュージアム所蔵の
戦国時代の馬骨の全身骨格と、再現した信玄公着装甲冑を撮影しました。

今回は、普段から特別展示室で公開している複製して組み上げた骨格標本のほか、
発掘された本物の骨も撮影となりました。
本物は滅多に出すことがなく、これまでも数回テレビ撮影でお出ししたり、
11月初旬の特別観覧などで参加者に見ていただく機会はありましたが、
いつも頭や足の骨など、比較的部位のわかるものを1・2点お出しするだけでした。

事前にいくつか並べての撮影ということではありましたが、当日朝の打ち合わせで
全体像がイメージできるように並べて欲しいとのリクエストで、
急遽、準備していたものだけではなく、今まで出したことのない肩や肋骨、胸椎など
並べてみて馬の骨だとイメージできるほどの数量をお出ししました。
とはいえ、撮影時間も半日と限られる中、骨の配列に時間を費やすわけにも行かずで、
たくさんあるパーツの中から大慌てでイメージが湧くように並べてみたのですが、
実際に並べ始めると、どれがどの部位か迷うものもあり・・・(・_・;)
これも一部ですが、過去最大量ご提供。
どこの骨か、わかりますか?

骨自体は、劣化防止の薬品処理をしていますが、骨の芯までしっかりしているので、
持ち上げてもずっしりと重いです。
上の写真は「寛骨」と呼ばれる腰回りの骨。
実際に見ると、つい最近亡くなった馬の骨のようにきれいな薄黄色です。
とても500年近く前の戦国時代の馬の骨とは思えないものですが、
馬の全身骨格で、状態が良い出土資料は、
今のところ信玄ミュージアムの資料だけです。
良質な餌を与えられて育ち、名のある武将とともに戦場を駆け、亡くなってから
人と同じように丁寧に埋葬された軍馬。
生前の育成環境や埋葬方法、館の堀の近くにあったことから水の浸透で
安定した保存状態が確保されるなど、偶然にも様々な要件を満たした結果、
良質に保存されたのでしょう。
展示品は複製ですがその骨を芸術家の方が一つ一つ丁寧に模って組み上げた
オンリー1の資料ですので、
戦国時代の在来馬の大きさも含めて体感してみてくださいませ。


お昼過ぎに撮影を終えましたが、改めて、貴重な資料であることを再認識し、
何かの機会に本物も展示できればと思いますので、ご期待ください!
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信玄公没後450年カウントダウン甲府歴史講座~甲府を学ぶ~3回目

2023-01-25 15:35:18 | イベント
1月25日(水)甲府歴史講座の第3回を開催しました。

「甲府の希少野生植物と天然記念物」をテーマに
山梨大学大学院客員教授 甲府市文化財調査審議会委員 
蘒原 桂(はぎはら かつら)さんが講演しました。

経度の違いによって生じる「植物の水平分布」と
標高差によって生じる「植物の垂直分布」というものがあります。
甲府市は、様々な地形があり変化に富んでいます。

天然記念物に指定されているの植物とその場所のスライドや
金櫻神社参道沿い、大きな杉の伐採時の動画を見ました。

住宅の近くという難しい条件の中での伐倒。
枝打ちをして、倒す方向を決めて
150cmの刃のチェーンソーで切っていきました。

後半は、希少種や絶滅危惧種、
特定外来生物やニホンジカの食害などを
学びました。

蘒原講師から
「私が実際歩いて見て回り写真を撮ってきました。
みなさんも暖かくなりましたら、
ぜひ歩いて見に行ってくださいね」とおっしゃっていました。

春の楽しみがまたひとつ増えました。


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信玄公、兜に託した祈りとは? ヒントはクワガタ+不動明王の剣=?

2023-01-23 20:22:34 | 紹介
当館では、戦国大名武田氏館跡の発掘調査の成果をご紹介しています。
自然、展示されるものは、戦国の日常を紐解くものになりますが・・・
2021年より、信玄公の甲冑を再現したものが、展示品に加わりました。

再現の元となったのは、信玄公の弟・信廉が描いたとされる
「武田信玄画像」(山梨県立博物館所蔵)

甲冑の美しさは、兜だけに集約されているわけではありませんが、
どうしたって最初に目がいくのは兜、とりわけその前立物でしょうか。
それもそのはず、前立物は、平安中期ごろから、
大将の標識として用いられるようになったので、目立たなくては、意味がありません。

前立物は、当初から、その形ゆえに「鍬形」と呼ばれましたが、
昆虫のクワガタの顎が由来ではなく、「鍬形」→「クワガタ」だそうです。
「鍬」ということは、前立物「鍬形」の由来は農具なのかといえば、そうとも断言できず。
葉が鍬に似ている「クワイ」由来説もあり。
確かに、クワイは「芽が出る」→「目が出る」で、
縁起の良い食べ物としておせち料理の定番です。

火の形、鹿の角説もあるようです。
火、炎もエネルギーを感じますが、鹿はどうでしょう。
鹿×武士=狩り・・・!?
去年の大河ドラマ鎌倉殿の13人でも「富士の巻狩」のシーンがありましたが、
狩りは、武士たちの軍事訓練であるとともに、神意を問うもの。
鹿などの動物は、獲物である以上に、
神性・超越性を帯びた存在で、メッセンジャーでもありました。
また、鹿は「権力者の地位」を例えるのにも使われます。
そう考えると、前立物の起源が鹿角のデフォルメ、という説もありかもしれない!?

この鍬形、室町時代には、中央に剣形を立てた「三鍬形」となって流行。
室町末期になると、下克上の風潮の中、
本来は大将の印だった「鍬形」が一般化して、大将がいっぱいに💦
そして、戦に勝つため、小型化と軽量化が図られ、西洋の甲冑の影響をうけた
甲冑一式「当世具足」の誕生の頃、斬新奇抜な「変わり兜」が登場します。

・・・
話は、信玄公がお召になったかもしれない兜の話に戻ります。
今回、肖像画をもとに再現された兜は三鍬形兜↓
菊唐草の透かし彫りに、家紋である花菱紋の鋲があしらわれた鍬形台に、
「三鈷剣(さんこけん)」形式の前立てが中央にはめこまれています。
三鈷剣とは、柄に密教法具の「三鈷杵(さんこしょ)」をかたどった剣。
不動明王は、この三鈷剣で、魔を退散させ、
人々の煩悩や因縁を断ち切ると信仰されました。

生前、京より仏師を招いて、自らを不動明王として模させた信玄公。
武田氏館跡の絵図によれば、その北東・鬼門に不動堂が配置されており、
信玄公自ら、三鈷杵を持って不動明王に祈りをささげたのかもしれません。
自らの煩悩を破り、あらゆる苦しみに煩わされず、
生きとし生きるものを救い出す不動明王に・・・ならんとしたのでしょうか。

残念ながら信玄公の三鍬形兜は現存していません。
ただ、他の方の兜は残っていますので、雰囲気だけ。
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