甲斐にやってきた永楽銭(その1)

2020-12-27 13:30:57 | 紹介
武田信玄の暮らした躑躅が崎館の城下町、
家臣の屋敷跡の水路から出土した、ひもでまとめられた「さし銭」と食器類。
展示中の古銭は、「永楽通寳」、中国の明の時代のもの。
当館・特別展示室にて展示中の古銭と食器

どういう訳で、中国の銅貨が、流れ流れて甲斐の地に?

平安時代から徳川幕府が開かれるまで、
主に中国で鋳造された銅貨が貨幣として流通していました。
平安時代には律令体制が崩壊しており、
国内で銭貨を鋳造することは政治的にも技術的にも難しく。
それでも流通は発展し、待ったなし(!)の貨幣の必要性から、
中国から銅銭を”輸入”していたようなのです。

しかし、15世紀半ばから始まる「世界大航海時代」⚓
中国でも共通した気運があったのでしょうか。
中東など周囲の国々との貿易がさかんになって。
そして、支払いは中国鋳造の銅貨は認められず、銀で行われるようになっていきます。
というのも、皇帝の権威に保証されているだけの銅貨です。
他国のシビアな商人は地金主義。だから銅貨は受け取らない!
こうした中国鋳造銅貨の信用失墜は、中国国内にも波及し、やがて日本にも。

当時、日本国内で流通していた銭貨は、中国で鋳造された複数種の銅貨と、
それを模した国産の私鋳銭(しちゅうせん)、
摸鋳銭(もちゅうせん)がありました。
そういった品質がばらばらの銅銭の違いも意識されるようになり、
良銭が好まれ選ばれる一方で、悪銭は厭われるようになります。
当然のことではあるのですが、それでは流通に支障がでてしまう。
室町幕府も大名も「撰銭」を禁じる命令を何度となく出しますが、効果はあまりなく。
最終的に、種類別の換算レートに従って・・ということに。

価値を失いつつある銭貨。
その価値を急落させず、いかに流通させるか。
円滑な流通を維持するための試みは、換算レートの他にもさまざまあったようです。

そのひとつを、当館展示の「古銭」に見ることができるんです♪

中国大陸から甲斐にやってきた古銭・永楽銭のお話。
あともう少し、お付き合いください🙇

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