家のお宝がつなぐもの 甲斐武田家の場合

2023-02-08 11:46:58 | 紹介
あなたの家のお宝はなんですか?
代々受け継いできた土地?家業?
そんなのないけど、子どもや孫?
過去か未来か、重きをどこに置くかでも変わってくるかもしれません。

武田家の家宝はどちらを向いていたかと言えば、やっぱり過去?
遡れば清和天皇に行きつく家である以上、当然と言えば当然です。
そんな武田家の家宝は、甲斐源氏の祖・新羅三郎義光より相伝された旗と鎧。
義光(1045-1127)が生きた時代は平安後期。
つまり、戦国から約400年も前のご先祖さまより、時代の荒波を乗り越えて
受け継いだものたるや、わが家のお宝というより、源氏のお宝?
いやいや、もはやご神体=神さまの依り代?

旗は後冷泉天皇が義光の父に下賜された日章旗のこと。

そして、鎧は、昭和27年(1952)に国宝指定された、
伝・義光使用の「小桜韋威鎧(こざくらかわおどしよろい)兜・大袖付」、
通称「楯無」がそれにあたります。
実際、信玄公の時代より、甲府の北東・鬼門に位置する
菅田天神社(甲州市)に「祀られて」いて、現在でも、滅多に公開されません。

この「楯無」とは、源氏宗家で代々相伝された「源氏八領」=8領の鎧の内、
唯一現存するとされる鎧兜です。

鎧の形もいくつかあって、「楯無」は「大鎧」と呼ばれるもの。
平安から鎌倉時代、馬上で弓を射る騎射戦のために発達した大鎧。
手綱を放し、両足で馬の腹を挟んで安定を保ち、馬を制御しながら、
敵を左に見て矢を放つこと、敵もまた一騎駆けであることを想定し、
矢による攻撃への防御を最も重視した構造になっています。
胴も、腰回りも、腕も、箱型の楯で防御しながら戦う・・イメージでしょうか。
走って、刀振り上げ戦うような陸上戦は、想定外です!

何がどこから飛んでくるかわからない戦場ですので、
どんな甲冑も、隙間を作らないよう苦心されていますが、
顔や、脇の下はどうしたって無防備。
なので、例えば兜の鉢の下に革や鉄で作った「しころ」という、
消防士さんのヘルメット風に、首筋を守るものを取り付け、
さらにその両側を折りあげて、刀よけの「吹返し」を作ることで二重に防御。

そんなこんなで、兜、鎧(胴)、大袖のセットで約20〜30kg!
気力、体力、技量、そして経済的にも恵まれた
上級武士でなければ所有できなかった甲冑です。

こうした大鎧は、正式で、最も格の高い鎧とされ、
戦国の世、当世具足という、実戦的な鎧が発達・流行したにもかかわらず、
大鎧と同じく、平安時代から着用されてきた「胴丸」や「腹巻」に、
「大袖」や「喉輪」を加えるなど、
あえて、古の様式を好んだ武将もいらっしゃいました。

オリジナルは信玄公の弟・信廉作とされる肖像画の信玄公も、
「胴丸」と「大袖」がセットになったものをお召しになってます。

写真は、信玄公の肖像画を基に再現した兜と胴丸具足です。
信玄ミュージアム 特別展示室にて展示中!

甲斐武田氏の「楯無」は、
『平治物語』で描写される「楯無」と異なるという指摘もありますが、
どの「楯無」であれ、戦国大名・武田氏の家宝「楯無」は確かに存在し、
清和源氏の流れをくむ甲斐源氏嫡流の拠りどころ、誇りとして一族を支えました。

そして、出陣など、一同気合をいれる時、当主が家宝に誓願。

「御旗楯無も御照覧あれ!」

源氏の守り神、祖先の皆さま、我らの戦いをご覧くだされ!
訳すなら、こんな感じでしょうか。

この誓願の重さは・・どれほどだったのでしょう!?
コメント
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