家のお宝がつなぐもの 甲斐武田家の場合 2

2023-02-12 15:59:10 | 紹介
10日の大雪情報で記事が分断されてしまいましたが、
前回の続きでございます。

「御旗楯無も御照覧あれ!」

武田家において、当主が家宝である御旗と楯無に対して誓ったことは、
何人も覆えすことができませんでした。

つまり、武田家の家宝、御旗と楯無は、家中において最も神聖なものであり、
「御照覧あれ!」と、一度、家宝に誓ったことは違えることはできないという、
暗黙の了解がありました。

「楯無」とは、甲斐源氏の祖、新羅(しんら)三郎義光(1045−1127)の鎧で、
槍や刀を通さない「この鎧に勝る楯無し」がその名の由来。

「御旗」とは、義光の父・源頼義(988−1075)が、天喜4年(1056)、
後冷泉天皇(在位1045−1068)より与えられた「日の丸御旗」のこと。

この頃何があったかというと、平安後期に東北地方で起こった戦い、前九年の役、
朝廷と、陸奥国(東北地方)の土着の有力豪族・安倍氏との戦いがありました。
陸奥守として派遣され、安倍氏を滅亡させたのが、義光の父・頼義。
この戦勝が、頼義の河内源氏=武家の中でも最高格式の根拠になっていきます。
実際、後の河内源氏から、源頼朝、足利尊氏が出て、
両者ともに、頼義の鎮守府将軍を意識し、同格の征夷大将軍となっています。

ちょっと脱線すると・・・
壇ノ浦の戦いにおいて、源氏は白地に赤丸の日の丸を掲げ、
平氏は赤地に白丸の日の丸の旗を掲げたとか。
もし、あの時、平氏が勝っていたら、日本の国旗は赤字に白丸だったかもしれない、
なんて話もあるそうです。

源頼義→義光→甲斐源氏武田氏の家宝「御旗」も白地に赤丸。
後冷泉天皇から賜ったこの日の丸が、時を経て日本全体の国の印となり、
例えば、ペリーが来航した際、日本側の旗印は、
徳川家の旗印ではなく、日の丸だったそうで・・・
日本最古の日章旗とされる武田家の「御旗」が背負ってきたもの、
つなげたものの大きさを感じないわけにはいきません。

・・・
最近の日本史の教科書で、武田氏といえば、
天正3年(1575)の長篠の戦いで、織田・徳川勢に敗れた戦国大名!?
確かに、甲斐武田氏を知るうえで、避けては通れない合戦ですが・・。

長篠の戦い前夜、織田信長が合戦の場となる設楽が原に到着したとの報を受け、
武田陣営では、宿老たちが勝頼公に撤退を進言する一方、
若手は抗戦を主張し、軍議は紛糾・・・
それを決着させたのが、勝頼公による「御旗楯無も御照覧あれ!」でした。

戦への誓いが立てられたが最後、それに異論する者はなく、翌朝の合戦に突入。
8時間に及んだという戦いの結果は、ご存知の通りです。
武田軍は、信玄公以来の有能な指揮官の多くを失うなど、
被害は甚大、領国の動揺も避けがたいものに。
勝頼公は、統治基盤を立て直すべく、外交や経済政策を進め、
そして、新たな本拠地となる新府城を築城して再起をかけますが、
それも虚しく、天正10年(1582)、織田・徳川軍の甲州征伐により武田氏滅亡。

源氏の流れをくむ家であることを、強く意識した武田氏。
兄・八幡太郎義家をよく助けたという、甲斐源氏の祖・新羅三郎義光。
よって、甲斐の武田も、義家を祖とする足利氏をお助けすべし!
武田氏が西に向かったのは、このためだったという解釈もあって。
確かに、源氏→武田氏という流れは、想像以上に強く意識され、
そうしたつながりや誇りが、戦国大名武田氏を育んだ一方で、
武田氏を滅ぼした要因の中に、御旗・楯無への誓願が象徴するような、
源氏の血を受け継いだ方々特有の事情と思考も絡んでいる・・気もします。

みなさまは、どう思いますか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする