私たちの国、日本はモノづくり立国!
…そんなこと、ないと思う。ワタシは、全くそう感じない。
単純に、GDPの何%がどんな産業で占められているか?という話ではなく、
素晴しい技術を持った製造業があるか? という話でもなく、
一般の、普通の人が、どれくらい製造業に関心があって、製造業に対する知識があるのか?
という観点から見たら、全く違うと思う。
むしろ、「つくる人(生産者)」と「買う人(消費者)」の距離は離れ、溝は深まる一方だと感じる。
なぜなら、「つくる人と買う人の間にグラデーションが無くなってきた」から。
昔、と言っても、それもそれほど前でもない、ちょっと昔。
つくる人は、もっと多かった。
お母さんは裁縫をして、お父さんは日曜大工、お兄ちゃんはラジオを組み立て、
ボクは工作をして、妹はビーズを細工をしていた。
そこには、節約という要因によって、「つくらざるを得ない」事情があった。
ごく普通の人たちが、上手い下手は別にして生産者だった。
そして、メーカーや工場の技術者を頂点として、一般の人たちまでの間に
「つくる」という行為のグラデーションがあった。
そうせざるを得ない事情があったにせよ、つくる楽しみ、つくる喜びも同時にあったろう。
翻って現在ではどうか?
「何かをつくる」という行為は家庭から姿を消し続ける一方だ。残っているのは料理くらいのものだろう。
人は、獲得したものを自ら放棄することはなかなか出来ない。
知った後、知らなかった状態に戻ることは出来ない。
だから節約が不要となった今、日常の「つくる」という行為を動機づけるものは、
趣味性以外にほぼ無いと言っていい。
「つくる」という行為から縁遠くなることは、とても大きなものを喪失する。
それは
「つくる人」「つくられたモノ」の評価を出来なくなる、ということだ。
少なからず少年期に野球をやったことがあるから、イチローの凄さが分かる。
家庭で魚をさばいてみれば、寿司職人の包丁さばきに本当の価値を見出すことも出来る。
犬小屋のひとつもつくってみれば、大工の手際の良さ、カンナの削りカスひとつに感動することが出来る。
「つくらない」状態というのは、モノや技術の価値がわかる… という知識レベルを
著しく下げてしまうのだ。
かくして我々、豊かで知識の無い私たちは、どんどん消費者らしく振舞うようになる。
「メーカーは分かってねぇな、こんなの売れねぇよ」
「高けぇよ!」
「どっかのメーカーがオレを満足させるモノを作って出せよ!しかも限りなく安くよー」
世の中は、「消費者様」に合わせ満足させることを正義として発展して来た。
かくして消費者は、より消費者らしく振舞うことを是とされ、
その価値を分かりもしない、自分でつくれもしない、さして高額の出費もしない、
しかし、「偉い存在、消費者サマ」として、その自意識だけを肥大化させて行く。
つくる側はと言えば、諦めムードが定着して久しい。
泣く子と消費者様には逆らえない、頭を下げてご理解いただき、怒りが治まるのを待つ以外はない。
そうしている間に、自分たちの凄さを説明する言葉と根性さえも失ってしまった。
本来、人に理解されよう、ということは容易なものではなく時間もかかるものだ。
それが専門分野であれば、尚のこと。
そこに汗をかき、工夫を凝らし、努力と根気を持って取り組むことは
金額換算が可能な、いわゆる生産性とは別次元の生産があるものだと、ワタシは信じています。
以下の写真は、とあるおもちゃメーカーが配布している冊子。
おもちゃやプラモデルが出来るまでを、詳しく、しかし難し過ぎず、
かといって、どうせ素人にゃ分かりゃしないから端折っておけ… というような態度も見せず、
とてもとても誠実に取材をし、編集されている。
読んでいて、ちょっと感動した。何に? うん、この冊子をつくった人たちの努力に。
初めて耳にするような言葉、知らなかった技術、道具、流れ…
それぞれの工程で重要なこと、その意義。
よくぞここまで真摯に取り組まれたものだ、と。心から尊敬しています。
この冊子を作った人たちは、そこいらに居る
「モノづくり立国~」 とか言ってる人たちよりも、ずっとずっと価値の分かる、
本当の知識を持った人たちになっていることだろう。
一般に配布もされていますが、秋葉原の「3次元形状を活用する会:事務局」にも置いてあります。
お越しの際には、ぜひ一度ご覧ください。