3D CG, CAD/CAM/3Dプリンタ な日常でつづる クルスの冒険ブログ

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無題 その4

2008年01月05日 | □ フィクション
 
第四章 疑義
 
 “限定的”な“公開”とは、時間的制約のもとでの“公開”という意味に他ならない。自由と平等を標榜した民主主義が、真の自由と平等とを追い求めた共産主義の揺りかごとなったように、自由と平等の価値を熱狂のうちに求める民衆を“そこそこの自由”や“ある程度の平等”にとどめておくことは困難を極め、別の力をもってしかそれを成し得ることはない。
 JA-MA会員=自動車生産業者に限定されたはずのソースコード情報も、やがて多くの業界関係者がその素性を知ることとなった。知るための手段が正規のものであろうがなかろうが、知ってしまった後に人は知らなかった状態に戻ることは出来ない。
 
 JA-MA-CADのリリース後、その予想以上の開発の速さ、完成度の高さ、不具合の少なさにおいて、JA-MA-CADカーネルは既製品のコピーである…という疑義を持たれるに十分であった。後に公開されるJA-MA収支報告書には、開発期間中プログラマーの外注作業費とは受け取れない常識外の額が米国にユーロ建てで送金されていたことが記載されていた。また、政府補助金の制限である国産システムという条件により、プログラム作業の外注は国内に制限されたものであり、先に発覚した「ベイブリッジの幻事件」に端を発した、経済産業省による「外注狩り」査察の対象ともなった。しかし送金はコンサルティング料の名目であり、コードそのもは誰の手によるものなのか分かるはずもなく疑義は疑義のまま収束することとなった。
 さらにC-Tia開発元のNassau社は、その機能があまりに酷似していたことから、JA-MAに対し事実の照会を求め係争の構えを見せたが、実際の係争に発展することはなかった。
 ソフトウェアの「プログラム」自体は著作物として国際的に保護されるが、その「機能」は著作物として認められない。ソフトウェアにおける「機能」のコピーをめぐって争うことは非常に困難であり、またJA-MAが業界団体であることも問題を複雑にしていた。国内自動車各社が事実上の手切れ金をNassau社に支払ったという噂も流れたが、むしろNassau社自身が多額の保守料を打ち切られることを恐れたためであるとも言われ、真相は公にされることはなかった。後にNassau Japan社員は語っている。

 「真相?…それは分りません。分かっていても言えませんけどね。HQがこれを問題視したことはあったようです。ただ、HQが中国市場に大きくシフトし出した時期でしたからね。日本市場ではこれ以上の売上を期待できないと思い始めていたのは確かでしょう。」

 日本国内のCADマーケット状況は、CAD開発各社が発表するライセンスのインストール数を単純に積み上げると全国民100人に1ライセンスのCADが普及している滑稽な数値となっており、各社の自己申告であるその数値が実態を表していると思う者は一人も居なかった。多くの業界関係者が共通して了解していたのは、この市場が成熟しきっており、革新的な技術が生み出されない限りにおいて新しい需要が喚起されることは無いだろうということだった。同時に、市場シェアをもう一度転換させるような革新的な技術は今後も生み出されないであろうことも、広く了解されていた。それは技術の限界によるものではなく、CAD開発各社がその意思を持たないことであることは、想像に難くないものであった。
 CAD開発各社の多くは米国資本であり、ここ10年来彼らの経営方針とはM&Aによる拡大での株価引き上げ策であって、技術開発投資による需要の喚起などではなかったからだ。さらに、シナ沿岸部、インド、ロシアという新市場は活況を見せ始めており、彼らの経営戦略における優先事項は新市場への従来製品の売り込みとM&A戦略であることは明白であった。
 日本マーケットは、すでに盛りを過ぎていた。否、すでに成功し成熟しきったのであり、彼らはシナ沿岸部、インド、ロシアで今一度日本マーケットの成功を収める夢を見ていたのだ。
 事実、業界最大手のNassau社は、アジア太平洋統括オフィスを上海に移転することを発表しており、Unographics Solutions社は北京、Paralogical Technology社もそれに追随するものと見られていた。Autobox社は機械系CAD部門の売却を表明。売却先としてSolidas Works社が有力視される中で、アジア太平洋地区の拠点を建設ラッシュに沸くムンバイへ移転する意思を固めていた。
 より実りの多い土地へ投資を行い、安定してはいるが成長の見込めない土地は最低限の人員により統治すべきである。それは、彼らの数百年に渡る民族的経験則に適っており、また最低限の人数でその1000倍もの人数を統治する術を彼らは知っていた。
 CADシステムは、一種の生産財ではあったが消費財ではなかった。消費財の消費量と最終製品の生産量は相関の関係にあるが、CADシステムと最終製品の生産量とは本来的に何の相関もないものだ。事実、日本はCADマーケットとして衰退の一途を辿りつつも、世界における日本車のシェアは伸び続け「新BIG 3」の一角に日本の1社を加えることが経済誌における慣用句となっていたのである。
  
つづく…


(!注意!)
この物語はフィクションであり、登場する人物・団体・事件などはすべて架空のものです。
いや、マジで。


無題 その3

2008年01月03日 | □ フィクション
 
第三章 JA-MA-CAD誕生
 
 JA-MA-CADは日本自動車製造会OB、及び業界の重鎮達から唾棄すべきものとして猛烈な批判にさらされることになった。彼らにとっても設計プラットフォームの国産化=日の丸CADの実現は悲願であったはずだが、JA-MA-CADは彼らの望んだ「日本独自の」「モノづくり文化」といった文脈で語られる、ある種の理想を一切背負うことなく生み出されたからである。
 JA-MA-CADに独自のコンセプトは存在せず、あるとすればそれは「既存製品の模倣」そのものであり、目指したのは未来ではなく過去の総括でもない、「現在」そのものであった。後にJA-MA-CADの開発者は語っている。

 「今ある機能を作れって指示だけでしたからね、そんなに難しくなかったですよ。5人で2年かな?もちろん外注さんも沢山使いましたけどね。ええ、参考にしたのはC-Tia(シーティア)ってCADですよ。そのCADの機能をずらっと書き出して、同じ機能を一個々々作っただけです。CADに詳しいプログラマは居ませんでしたから最初は戸惑いましたが、分っちゃえば早かったですよ。既製品よりもシンプルなコードで書けてる所も結構あるんじゃないかな?まぁ、今も続いてますけどね。」

 JA-MA-CADは、国柄も開発者の矜持も、独自性すらも背負うことなく開発され、市販のCAD製品に比してやや機能の足りない凡庸なソフトウェアとして世に現れた。

 「お偉いさんたちの話に付き合っていると、結局作り始まれないんですよ… だって、コンセプトとか文化とかモノづくりの精神とか…そんな話ばっかりになっちゃって、それもちっとも具体的じゃない… CADって、そんな大袈裟なものなのか…最後まで分からなかったですね…」

 では、誰がその仕様を決定し重鎮達の意思を一顧だにしない開発を指示したのか?

 「最初はね、そりゃ色々聞きに行きましたよ。どんなCADにしたらいいですか?って。でも、皆さん沢山語ってくれるわりには誰も仕様にしちゃくれないんです。人によっては単なる精神論と思い出話を聞かされただけだったなぁ…え?誰が仕様を決めたかって?…勘弁してくださいよ… だって、ソフトなんだからリリースしなきゃ話にならないでしょう?もういいじゃないですか、実際にリリースして使えてるんだから…」

 JA-MA-CADは、単にカタチが作れるCADに過ぎない…こう評され何の革新性も独自性も持たない凡庸なCADシステムとして世に送り出されたが、カタチが作れる、という一点においてCADとしての条件を備えていたこともまた事実だった。唯一特徴的だったのは、その中間ファイルの取り扱いにおける機能である。JA-MA-CADは、IGESと呼ばれる中間ファイルフォーマットと、その拡張版であるJA-MA-ISの取り扱いを前提として開発されており、JA-MA-ISが本来持ち得ないフィーチャ情報を形状特徴から自動検出の上補完し、パラメトリックな寸法変更に対応することが可能であった。また、通常であれば後回しとなりがちなAPI及び開発環境は優先的に準備がなされ、アプリケーションのマニュアルそれよりも分厚いと揶揄されたディベロッパー向けのドキュメンテーションが、初期リリースと同時に提供された。JA-MA-CADは、後にJA-MA会員に限定してソースコードを公開。JA-MA-CAD開発者の派遣も行われることとなり、国内自動車各社のIT部門に、カスタマイズという新たな業務と予算措置をもたらすこととなった。
 IT部門の本質は公共工事と酷似している。予算措置がなされる工事であれば、それがどのような工事であれひとまずは歓迎されるものだ。さらに、パッケージソフトとして十二分に進化を終えていた従来のCAD製品に比べ、JA-MA-CAD上のカスタマイズは各社の独自性という大義名分の復活と業界共通フォーマットという要求、さらにライセンスと保守料に投下されるコストの削減という三つを同時に実現した。
 そして何よりカスタマイズ作業の増大は、ソフトウェア技術者たちのモチベーションを喚起し、その矜持を取り戻す具体策としてこの上ない効果を発揮したのである。

つづく…


(!注意!)
この物語はフィクションであり、登場する人物・団体・事件などはすべて架空のものです。


無題 その2

2008年01月02日 | □ フィクション
 
第二章 経営
 
 高騰を続ける原油価格は、世界的な新車需要を低迷させるに十分な脅威となっていた。シナ沿岸部、インド、ロシア等の成長著しい地域へ生産拠点を移した自動車各社にとっても、原油高はあまねくその影を落としつつあり、生産過剰による価格の下落もその状況に追い打ちをかけ始めていた。国内自動車各社はさらなるコストカットを要求される事態に陥っていたのは言うまでもない。

 国内自動車各社の経営サイドは、下落し続け底を打った感のあるビジネスアプリケーションの価格に比して、一向に下がる気配を見せず目を引く技術革新も無く、生産性向上に寄与するとも思えないまま年間数億円の投資を余儀なくされるCADソフトの保守費を問題視し始めていた。
 当初、開発環境の独自性を盾にその重要性を主張していたIT部門も、採用しているCADソフト製品は業界内でも事実上2社が独占していることから、その独自性という聖域の主張において以前のような説得力を失いつつあった。日本全体を覆う「国産システム」待望の空気は、独自性を訴える度にむしろ国産化への転換に動機を与える要素として機能し、IT部門はそれに抗する有力な反論材料を持ち得なかった。本来の独自性とは国産化のことであり、同時に巨額の保守費をも削減できるというシナリオは、旧来の論理を駆逐せしめるに十分な効力を持ったのである。

 なにより現行CADシステムを大規模に導入した時期の責任者達は一様に定年退職を迎えており、自分達の導入したシステムを堅持したいという私的な思い入れが部門全体から薄れつつあったのみならず、経営サイドが指摘する高額な保守費を確保するため毎年の稟議決済に奔走し、大量の書類作成に時間を割かれていた若いIT部門社員にとっては、むしろ現行CADシステムは旧世代の残した遺物という、ある種忌むべき存在として扱われつつあった。

 国内自動車メーカー3社による内製CADシステム開発の決定を受け、国内全社が共同で開発予算を負担し、共有の財産とする観点から日本自動車製造会=JA-MAがその責を担うこととなり、前述の政府予算による補助もあいまって開発の決定にさしたる期間を要しなかった。
 そこに野心も大きな期待もなかった。むしろ経営サイドにとっては日常的なコストカットのための判断が行われたのみであり、かつて導入時に情熱を持って推進された姿とは対照的に、高級包丁を文化包丁に入れ替えるがごとく淡々とした作業に見受けられた。

 そこに野心も大きな期待もなかった。あったのはただ日常的に使う道具を、それにふさわしいコストで使用したいと願う当然の経済感覚だけであった。
 
 かくしてJA-MA-CADの開発は、着手されたのである。

つづく…


(!注意!)
この物語はフィクションであり、登場する人物・団体・事件などはすべて架空のものです。

無題 その1

2008年01月02日 | □ フィクション
…プロローグ
  
 誰もが予想だにせず、誰もがその状況の到来を否定し、そして誰からも望まれなかった未来が、誰の手によるものでもなく突如出現することがある。どこかにシナリオライターの存在を確信させるような自然なストーリーほど、実際にはシナリオなど存在せず、ただそこに単なる必然として出現する。集団的無意識が望むことは、その集団に自覚的に歓迎され出現するとは限らず、しかし集団全てを巻き込んで抗うことを一切許容しはしない。

 全てはここから始まった。

 201X年、日本自動車製造会=JA-MA(ジェイマ)は、『JA-MA-CAD ver.1』の無償配布を開始した。JA-MA-CADは当初、複数のCADフォーマットの閲覧が可能なビューワーとして無償配布されたが、配布から1年後には寸法のコントロール、アセンブリのコントロールが可能なver.2へと進化した。これはもうCADそのものではないか?とユーザ気づき出したさらに1年後のver.3の配布時には、市販3DソリッドCADシステムの8割程度の機能を備えたCADソフトウェアそのものとなり、無償ダウンロードのフリーウェアとして常時公の目に止まることとなった。ダウンロードは当初、JA-MA会員各社に限定されていたが、ID・PWD付きダウンロードサイトの開設からわずか一週間後には公のダウンロードサイトにアップされ、会員限定の意味を失ったことから、ID・PWD制限は外された。

 誰もが予想だにせず、誰もがその状況の到来を否定し、そして誰からも望まれなかった未来が容易に引き寄せられたその要因は、政治、経営そして人材であった。
 
 
第一章 政治

 前年8月、大手都市銀行の顧客管理システムにハッカーが侵入。通常であれば侵入の事実そのものが公になるはずなどなかった日常的事件のはずであったが、侵入された銀行のシステム部に勤務する派遣社員のPCがファイル交換ソフトのウィルスに感染、その業務日報がネットに流出する事態に至りメディアの扇動的論調に乗ってその脆弱さが世間に知らしめられることとなった。
 犯人は米国コロラド州在住の28歳の男で、犯行手口は古典的な回線経由の侵入であり、またその動機も愉快犯と呼ぶべき実害の無いものであった。事実、米国内ではこの事件を大手メディアが報じることはなく、唯一報じられたニュースも、ハッキングそのものではなく、ファイル交換ソフトを使う日本人社員の不用意さを、過去に発生した防衛省の機密情報漏洩事件を引用して伝えたものに過ぎなかった。
 しかしこのニュースの意味は、日本国内の一部週刊誌がこう伝えたことで一変する。
「犯人は、元MS(Mediumsoft)社員か?」
 これに乗じたメディア各社も過剰な報道合戦を展開。携帯端末によるネットユーザが国民の8割に達した状況において、ハッキングは一般庶民の新たな脅威としてその説得力を獲得するに至った。
 時の麻生内閣は世論の高まりに敏感に反応。公的機関、及び公共性の高い業務を担う企業から特定メーカー製ソフトウェア排除を決定。政府機関推奨のアーキテクチュアを採用した独自システム開発を表明し、不安感に煽られ対応策を待ちわびたネット利用世代を中心に大きくその支持率を伸ばした。
 当初、その手口はOSのセキュリティホールとは無関係であったことから冷静であったコンピュータ関連各社、専門メディア、評論家も、政府によるシステム関連予算の大幅増額が決するやその論調を一転、「国産システム賛成」へと一斉に舵を切った。
 ネットによる論調は、ヒステリックに過ぎる世論と政府の対応に冷ややかではあったが、IT関連の政策が初めて「国策」として打ち出されたことによる賑わいが反応として勝っており、むしろ本質とは離れた扇動的な風潮を後押しする役割を果たすこととなった。

 独自アーキテクチュアによる国産システムへの移行は、こうしたある種の国民的な事実上の翼賛体制を背景に加速度を増して支持を拡大していった。

 常に脅威は海の向こうからやって来る。論理的思考よりも感情が優先された危機意識の醸造。必ずしも有効とは言えない対応策の提示。何もしないよりはマシだという誤った勤勉さから来る事態のアクセラレート…そしてその扇動の担い手は常に旧来メディアとそれに盲目的に信を置く層によるものであった。
 誤った方策に勤勉であることは、怠惰であるよりも尚罪深い。しかし、この教訓が生かされることはなく、その勤勉さ故事態は加速度的に進展することとなった。
 この日本全体を覆った国産システム待望論の「空気」は、政府予算という形でJA-MA-CAD開発を直接的に後押しすることにもなるのである。

 後に、「純国産」であるとされ社会全体に広く普及したシステムが、実は受注した大手メインフレーマーによるインドへの丸投げ開発であったことが、防衛省BADGEシステムにインド人ハッカーが侵入するという大事件を契機に発覚。後に「ベイブリッジの幻事件」と呼称される一大スキャンダルへと発展することになる。

つづく…


(!注意!)
この物語はフィクションであり、登場する人物・団体・事件などはすべて架空のものです。