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外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

危機的に重要な教育評論:石井昌浩さんの「アクティブ・ラーニング」論

2017年01月07日 | 英語学習、教授法 新...

危機的に重要な教育評論:石井昌浩さんの「アクティブ・ラーニング」論

産経新聞の『解答乱麻』欄に、10月26日、1月4日(水)と連続して、石井昌浩さんによる、学校教育界で今話題の「アクティブ・ラーニング」論が掲載されています。そして、今日、1月7日(土)には、同じく産経新聞の3ページ目に、「子供のうちにプレゼン磨け、ユニーク塾が大人気: 対話型授業で活発議論、発言力伸ばす」という、篠原那美記者の記事が掲載されていました。

2016. 10.26

アクティブ・ラーニングって? 「新学力観」の騒ぎと二重写し 教育評論家・石井昌浩

http://www.sankei.com/life/news/161026/lif1610260013-n1.html

- 017.1.4 13:30

身近な「差し迫った難問」に対処すべきでは 新しい学習指導要領の課題 教育評論家・石井昌浩

http://www.sankei.com/smp/life/news/170104/lif1701040008-s2.html

- 2017.1.7 13:22

子供のうちにプレゼン磨け ユニーク塾が大人気 対話型授業で活発議論、発言力伸ばす

http://www.sankei.com/life/news/170107/lif1701070028-n3.html

 

石井昌浩石井さんの評論は、「アクティヴ・ラーニング」に懐疑的、いや、もっと危険なものを嗅ぎ取った警告的な評論である一方、1月7日の篠原記者の記事は、「アクティブ・ラーニング」に対し肯定的ニュアンスの記事、少なくとも懐疑的な記述は一切ないものでした。

1月4日の評論を読んだ段階で、石井さんのこの評論は決定的な重要性を持つな、と思い、近いうちにこのブログでも扱うつもりでした。しかし、今日、1月7日の記事を読んで、緊急性はより高いと思い、まだ十分考えが練られていないのですが、このブログで触れることにしました。

石井さんの言葉を借りて、「アクティブ・ラーニング」の説明といたします。

(-----) ところで、「アクティブ・ラーニング」とは、「課題の発見・解決に向けた主体的・協働的な学び」と定義されている。改訂される学習指導要領の目標の概要は次の通りである。(1)一方通行の知識伝授ではなく、討論や体験学習を通して「主体的・対話的で深い学び」を実現する。(2)教師が「何を教えるか」ではなく、子供の側に視点を移し「何を学ぶか」を示す。(3)それにより「何ができるようになるか」を問い、さらに「どのように学ぶか」を明らかにする。

石井さんは、この「アクティブ・ラーニング」に対し、二重の疑いを提示します。一つは、このような新機軸というものが、過去からの教育の積み重ねを軽視するとう点です。

アクティブ・ラーニングは、能動的な学習、課題解決型学習として、これまでも実践されている。ことさら外国語に言い換えて、従来行われてきた授業を意図的に「受動的な学習」と印象づけるようなやり方を、私は疑問に思う。

石井さんのこの認識は、現場での過去の体験から得られたものです。

 平成30年度以降の学習指導要領改訂で、アクティブ・ラーニングが導入される流れに乗った動きだと思うが、私には二十数年前に嵐のように吹き荒れた「新学力観」の騒ぎと二重写しになってしまう。二十数年前に感じた同調圧力のような空気が広がりそうなのが気になる。

アクティブ ラーニング合理的な改革案ではなく、ムードに流された思いつきでないかという疑いです。「同調圧力のような空気」という現場で受けた感じは、主観的なものとはいえ、貴重な問いかけになります。じっさい、この新学力観なるものは、「3、4年たった頃には色あせてしまい話題に上ることもなかった。」と石井さんは述べます。

もう一つの指摘は、「アクティブ・ラーニング」は、じっさいの教育での差し迫った問題からかけ離れた空論である点であるだけでなく、現実に起きていることに目を向けない態度は、危険であるということです。

 そもそも長時間過密労働にクタクタになり、自己研鑽(けんさん)どころか授業研究や授業準備に充てる時間すら確保できず、教師自身が「深い学び」ができていないのに、どうして子供に対してのみ「深い学び」の指導ができるのだろうか。それは、ないものねだりの注文というものではないだろうか。

1月4日の評論は、下の言葉で結ばれています。

子供たちの主体的学びは、教師の事前の周到な準備に裏打ちされて初めて成立するものだ。理念先行気味の「アクティブ・ラーニング」という流行言葉に浮足立ってはならない。

1月7日の記事の以下の記述は石井さんはどう読むか…。

「子供の発言力を伸ばす試みは、学校教育でも取り入れられている。現行の学習指導要領には「言語活動の充実」が盛り込まれており、国語を中心に討論などの機会も増えた。平成32年度から実施される次期学習指導要領では、さらにアクティブ・ラーニングが導入され、子供同士の話し合いの機会が増える。」

私が、冒頭で「決定的な重要性を持つ」と述べたのは、石井さんの評論をきっかけに、議論が正面からぶつかる、ということです。今後、石井さんの評論を無視して勝手なことは言えないとさえ言ってもよいでしょう。例えば、「保守派の人が相変わらず同じことを言っている」という位の論評で、石井さんの評論を無視しようとしても、それはできません。自己の経験と、戦後教育界における「何度も受け入れる傾向」に対する洞察にもとづく石井さんの意見に反論するには、それだけの論理が必要です。近いうちに、新聞紙上などで「アクティブ・ラーニング」推進派の人の反論を期待します。

戦前の女学校もう一つ、そもそも、国家、教育委員会レベルの方針と、学校、教室レベル、そして、個々の生徒を教えることは、質が違うということを述べておきたいと思います。じっさいは、この3段階だけではなく、もっと細分化されるかもしれませんが、人間の認識の限界ああるので、3段階に限った方がよいでしょう。これは、教育に限らず、大組織であることを本質とするあらゆる現代的組織に言えることです。トップができることは、方向付けと、規則作り。学校、教室レベルでは、具体的は方策。そして、けっきょく、生徒との人間対人間のかかわりが教育の本質です。トップが、自分の指示を、教室や、個々の教育活動と混同したり、あるいは、自己の願望を投影したりしても無駄であるだけでなく、有害であることが多いです。「アクティブ・ラーニング」推進派の人は、十分トップの自覚があって発言したのか、これから厳しい問いかけが行われなければなりません。


 



中学英語がマスターできない「構造的」理由

2017年01月07日 | 英語学習、教授法 新...

中学英語がマスターできない「構造的」理由

apple 1このようなタイトルをつけると、怪しげな英会話教材の宣伝文句に聞えます。なぜか。多くの人が中学英語とされるものを習得しきれていない、という思っているという事実につけこんで、「救いの手」を差し伸べようとしているように聞えるからです。

このような商法は、「コンプレックス商法」とでも言うべきでしょうか。「紅茶茸を食べたらガンがミルミル消えた」など、昔から枚挙はいとまががありません。しかし、火のないところには、の譬えどおり、「中学英語がマスターされていない」ということはある程度、根拠があると思います。


科目によって、①先へ行くほど難しくなるものと、②最初の段階が一番習得しづらく、あとになるほど容易にになるものがあります。後で習得することは以前の習得事項を前提するので、ほとんどの科目は①であることは、「直感的」に理解できます。とりわけ、抽象に抽象を重ねる数学はその典型です。掛け算が足し算の抽象化であることなど、忘れている人が多いですが、それを忘れると思わぬ障害に出くわします(2×3は、2+2+2を抽象化したものです)。その先のことはもう言わなくてもよいでしょう。

apple 2ところが、世の中には、「最初の段階が一番習得しづらく、あとになるほど容易になるもの」があるのです。これが語学です。「英語では複数名詞の語尾にsをつける」ということは、中学1年で習うことになっています。しかし、語学において、この規則を習得するということは、2×3=6ということを知るのとは全く意味が違います。話す時、書くとき、無意識にその規則にしたがって表現ができるということ、また、聴いたり、読んだりするときに、その規則に反することがあったら、とっさにおかしいと気づくことができる、ということです。


中学1年の段階で、そこまでしっかりとこの規則を身につけることはできません。しかし、毎学期、毎年、そして、進学ごとに試験を受けて合格点が取れれば、なんとなく、マスターした気になってしまうものです。2×3=6と同じように理解した気になるものです。ところが、社会にでて、英語を話したり、書いたりする段階で、間違えまくる、またハタと筆が止まってしまう経験をして、「ああ、中学1年の英語をマスターしていないのだ!」と「気がつく」わけです。

掛け算 括弧なぜ、マスターしてから先へ進むという段取りを取れないか。それは、時間が足りなくなるからです。ほんとうであれば、毎年週6時間英語を学習する代わりに、たとえば、1年は9時間、2年は6時間、3年は3時間とした方が、語学の習得にはずっと効率的です。聞いた話では、東大でロシア語を専攻する学生にはそのような時間配分をするとか。某予備校が開設した中学、高校一貫校では、そのような時間割を組んでいると聞いたこともあります。しかし、多くの学科を並行して学ぶ中等教育では、このようなカリキュラムを組むことは基本的に不可能です。

中学という段階は、社会が必要とするあらゆる学科が、基礎を教え込もうと、せめぎあう場でもあります。英語がそんな自由な時間割をとれるなら、我々の学科も考慮して欲しいという声が生まれることでしょう。私は英語のことは分かりますが、他の学科の構造についてはそれほど詳しくはありません。議論となったら、勝てる自信はありません。

お分かりでしょうか。語学学習には不適切な方法を前提としているので、それほど英語が好きでない子たちのモティヴェイションを下げる効果を、中学教育が内在していると考えることができるのです。それだけに、中学の英語の先生の苦労が思いやられます。そして、「コンプレックス商法」が栄える素地を用意しているのです。