goo blog サービス終了のお知らせ 

外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

言葉は正確に: オリンピック 金メダルと、STAP細胞の件 (1)

2014年03月17日 | 言葉は正確に:

言葉は正確に: オリンピック 金メダルと、STAP細胞の件

カーリング

また、英語に関係ない方にずれているね、と言われそうですので、最初に、テーマを述べておきましょう。「言葉は正確に」シリーズは、どちらかというと、「言葉は正確に使いましょう」の意味合いが強いと思われるでしょうし、私もそういう方向です。

が、ここでは、「言葉を正確に理解する」の一例を扱いたいと思います。もっと正確に言えば、だまされないように言葉に注意しようということです。

実は、小野田寛郎さんの件を調べていて、1974年に、ルバング島から出てきた時、とてもセンセイショナルな話題になって、マスコミで大騒ぎしましたが、40年後の今、当時の新聞の記事などを読んで見ますと、毎日押し寄せる言語と視覚情報のために、小野田さんの虚像が次第に作られていく過程が見えてきました。

同様に、現在進行中のSTAP細胞の件についても、センセイションのなかで、問題の本質が見えなくなりつつあるのではないかと思えるのです。

小野田さんの場合、少し前に、グアム島の横井さん救出劇があったので、横井さんと比較しての小野田さん像が作られたと思います(長さの関係でここでは省略。別の機会に…)。現行のSTAP細胞の場合、直前のオリンピックでのメダル獲得と人々はパラレルに見ているということはないでしょうか。つまり、ドーピングなどのメダル剥奪のケースです。

「そうじゃないですか、同じでしょ」というあなた、まあまあ。

オリンピックの場合は選手の名誉の問題に過ぎません。しかし、科学の発見の場合は、その後の科学、病気の治療に役に立つかどうか、早く病人が救えるかという問題が控えているのです。金メダルは取ったからって、または剥奪されたからって、そのため何が起きるということはありません。ま、スポーツ振興に多少の影響があるかもしれませんが、それは飽くまで副次的なことです。しかし、科学の発見は、その後の社会をすっかり変える可能性もあるのです。

また、一方、以下の側面にも注意しなければなりません。科学の発見の場合、誰が発見しようと関係ないのです!。エジソンだろうが、パストゥールだろうが、誰でかまいません。蓄音機ができ、ワクチンができたということこそ意味があるのです。STAP細胞も誰が発見しようと関係がありません。その発見が確かかどうかのみが重要なわけです。

ところが、3月17日現在のニュースでは、STAP細胞があったかどうかがまだ証明されないうちに騒ぎが大きくなっているようです。確かに、記事(産経)の後ろの方に、「細胞の存在も不明」と書いてありますが、「だったらまだ事件になっていないのではないの」と言いたくなります。もし、存在しなかったら、そこではじめて事件になるのでないでしょうか。

どうも、発見自体ではなく、発見者の人間がどうかということや、発見者にだまされたとか、面子がつぶれたとか、そのようなことが事件になっているようです。

その点、朝日新聞、15日(金)の夕刊のSTAP細胞関連に記事の最後に、カリフォルニア大学のノップらー準教授の以下の意見が引用されていたことに注目しました。

理研が実際の問題ではなく、混乱に対して謝罪していることは注目すべきだ。私の聞いた反応は、『おおいに落胆した』という言葉に要約できる

実際の問題より、対人関係的な面、「属人的」な面に問題がずれているという指摘です。またぞろ、「面子を重んじる日本文化が遠因にある」などのような文化議論になるのは望みませんが、現在の日本での問題の扱いが、現実の問題からずれてきているという点でこの意見に同意します。

また、共同執筆者のハーバード大学、バカンティ教授は、14日の時点で以下のように述べていす。

「比較的軽微な間違いや、外部からの圧力によって無視するにはあまりに重要な論文だ。」 (-----) 「データが間違っているという説得力のある証拠が示されていないかぎり、論文を撤回する必要はない。」(読売 15日夕刊)

新聞の見出しの言葉は大変影響力があるので、読者の意見も影響されますが、記事の最後の方にある、上のような言葉もしっかり読んで、結論を下す、あるいは、もっと重要なことですが、結論を宙ぶらりんにしておくという態度が必要です。

---

ここで、コラムを終えるべきですが、一方、専門家の役割ということも、事件を通し考えさせられます。上の議論とは別個ですが、ここで触れます。

現代は、専門家なしではやっていけない時代です。元来、大卒の人間なら、多少とも、専門家のはずです。その専門家は、どうして職業として成立するかというと、専門外の人の時間と労力を引き受けるからです。普通の人の時間を、「大変でしょうから私が代わりにやって差し上げましょう」と申し出て、お金をもらえるという身分です。

ですから、論文を出したら、それに基づいて世間がスムーズに動くように心がけるのが研究者に必要な姿勢です。もし論文に瑕疵や不備があったら、世間の人は時間ととられてしまうことになります。たとえ、その論文が正しいものだとしても、ほかの人が論文を確かめるために労力と時間を費やしたら、まずいのです。そのため、発表する前に何度も校正する必要があるのです。その校正は、著者が非難されないためにするのでなく、世間の人の時間を取らないようにするためなのです。

「正しいものだとしても」と今、書きましたが、ここが肝心です。もし、STAP細胞が今後の実験によって証明された場合に、上に書いた問題が浮上することになります。もし、論文がうそだとしたら、この問題は浮上しないでしょう。ここで、もう一度オリンピックと比べてください。もしある選手がドーピングの疑いをかけられ、その後で、身の潔白が証明された場合、めでたし、めでたしになります。しかし、科学の発見の場合はそれで済ますわけには行きません。こんなところに、スポーツは遊び、科学は実業であるという違いが浮き上がります。

さて、事態はどう推移するのでしょう。

 

 

 

 

 

 


「科学的な」言語学習について(1)

2014年03月15日 | 教育諭:言語から、数学、理科、歴史へ

 「科学的な」言語学習について(1)

考える福沢諭吉

英語で悩む(?)福沢諭吉


「英語習得法」というと、世間で言われていることはふたつに分けられるようです。

① 商業的に、「これさえ買えば英語力がつく」と、十分条件を宣伝している。
② 「英語の達人」が自分の経験を語るというもの。

どう思われますか、皆さん。私はこの二つに分けられるように思うのですが。


①はともかく、②は、若いころ英語ばかりやっていた人が語るわけですから、限られた時間で、限られた英語力をつける必要のある私たちには、役に立たないことが多いです。

ところで、「科学」というと、十分条件と必要条件を兼ね備えた、万能の理論だという先入観を持ちがちですが、そういう意味での科学を言語習得に求めることは 無理でしょう。しかし、「限られた時間で、限られた英語力」をつけるという私たちが直面している問題下では、何を優先し、何を捨てるかなどの議論が必要で す。そのための事実と仮説に基づいて考えるなら、科学といってもよいと思います。誰にでも当てはまる学習法などはないと思いますが、がむしゃらに勉強するするだけというのも知 恵のないことです。

岩波新書に『外国語学習の科学』(白井恭弘、2008)があります。どの程度「科学的」か、読んで確かめてみることにしましょう。


ちょっと意地悪な先入観を持って読み始めます。

① 「科学的」というタイトルで、読者のコンプレックスとを刺激して売ろうとしているだけか?。
② 現在の研究報告をしているだけで、

(A)外国語学習の要の部分には触れていない、
(B)どう私たちが役に立てるかという部分は、出版元が書けと言ったのでおざなりのことしか書いていない、

以上の二点を疑いながら読んでみましょう。

プロローグには、納得のいくことが書いてあります。

世間には、毎日一〇分の勉強でペラペラになるとか、英語は勉強してはいけない、とか様々な宣伝文句が氾濫し、何を信じてよいのかわかりません。(---) 本書を読み終えたころには、外国語を学習するという非常に身近な現象について、これまでに何がわかっているか全体像がつかめ、より客観的、科学的な見方が できるようになるでしょう。そうすれば、大げさな宣伝文句にまどわされることもなくなり、より効果的な外国語学習、教育につながると確信しています。

では、続きはまた。

福沢、米国少女

英語が通じた(?)福沢諭吉



シリーズ 日本人の英語: 新渡戸稲造 (1)

2014年03月15日 | シリーズ:日本人の英語

 シリーズ 日本人の英語  新渡戸稲造

1月22日の産経に以下の記事がありました。

新渡戸に品格ある対外発信学ぶ 高崎経済大学教授・八木秀次
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140122/plc14012203190003-n1.htm

新渡戸稲造夫妻


この記事では、現在の、外国におけるわが国の「発信」に関する報告、分析と、1894年の日清戦争における反日プロパガンダに対抗するための対外発信を、 川上和久の書から紹介しています。


汚名を雪ぐについては、1900年の北清事変における、会津出身の柴五郎の水際立った指揮、統率に加え、新渡戸の『武士 道』(1900年)も大いに与っっていたのではないかと、八木さんは推測しています。


新渡戸の「発信」については、この記事には特に具体的には陳べていません。新渡戸の英語での言論活動についてはまた折があったら陳べたいと思います。「英語が見事」ということではなく、外国語を用いて深く思索を展開する力について。


今回は短いですが。


シリーズ 日本人の英語:本田圭佑選手のしっかりした英語

2014年03月14日 | シリーズ:日本人の英語

シリーズ 日本人の英語:本田圭佑選手のしっかりした英語


数回前に、千野境子さんの英語論についてのコラムに登場した本田圭介選手の英語は、下の番組で見ることができます。


http://www.youtube.com/watch?v=sevJvlxet08

 

千野さんは、こう書かれています。


(-----) ところが驚いたのは、ネット上の感想に「本田はサムライに会ったことがないという表現に現在形を使っていたが、現在完了形が正しいのではないか」との疑問が真っ先に上がっていたことだ。受験英語の弊害の見事な見本である。

本田圭佑 さむらい


「英文法」なるものが、目的化している滑稽さを指摘しているのですね。「手段の目的化」という、文明が発達すると陥りやすい現象です。


そこで、「本田選手が立派に受け答えしているのだから」、文法学習などは無意味だ、という結論がでそうになりますが、そうは問屋は卸しません。本田選手の英語が「非文法的」かというと、そう決め付けるわけにはいかないからです。

一言で「文法」と言ってもいろいろな意味、側面があり、実際外国語を学習したことがある人なら骨身に染みていると思います。

文法規則には、意味の伝達に不可欠な部分とそうでもない部分があります。たとえば英語以外の欧米語には、あらゆる名詞を男性、女性に分けて、形容詞、冠詞はそれに一致します。しかし、それは間違えても通じないというわけではありません。ただ「外国人が話しているな」とばれて、笑われてしまうだけです。フランス語なら、太陽は男性形なので、定冠詞は男性形のle。太陽は、le soleilです。月は女性形なので、定冠詞はla。la luneです。しかし、la soleilと言っても通じないわけではありません。

一方、間違えると、意味が通じない、あるいは別の意味に誤解される規則があります。I have a little money on me. / I have little money on me.この二つの文のaのあるなしで、意味が逆と言っていいほど違ってしまいます。


本田選手の英語は、前者の規則では間違えることが多いですが、後者の方はしっかりしているのです。ですから、通じるのです。笑いを取ることもできたのです。もちろん、複雑な英語の時制や、単数、複数など、習得しにくいものですから、しっかり教える、習う必要がありますが、正確に伝えるべきところでは自信を持って英語の文を作れるようになる、というのは、それに先立つ、外国語学習の基本的態度でしょう。

彼の受け答えは、単語や、yes / noで行っていない点に注目。主語+動詞+目的語という仕組みをしっかりはずさすに、ゆっくり考えながら話しています。正確に答えられるようにあらかじめ考えてから落ち着いて話しているのです。


では、なぜこのようにしっかりした英語で話せるのか。例の「シャラップ大使」などと対比して考えたいことです。それは、仕事で英語を正確に使う必要があるからです(シャラップ大使は英語は部下任せだったのでしょうか…)。

例えば「昨日右足に鈍痛を覚えた。その原因はおとといの試合の終了3分前の事故によるものだと考えるが、医師は今日試合に出ると直りが悪くなると言っている」というような複雑なことは日常的に伝える必要があります。こうした内容の構成には、「時制」などはそれほど重要ではないかもしませんが、それに、そんなに速く反応する必要はないかもしれませんが、「論理」を間違えると通じません。


今、論理という単語を二度使いましたが、「論理」とは普遍的なものです。いつ、どこでも、誰にも通じるもの。例えば、「それゆえ」とか「そうではない」などですね。ところが、外国語を学習する際、論理に関する部分と、その外国語の持つ文化的側面を、混同しがちです。「英語ができる」、と言った場合、向こうのスラングや、丁寧語などを適切に使えることをさす場合がありますが、論理表現には関係ありません。本田選手の英語を聞くと、今の流行語とかスラングとかそいうものはなく、ある意味で教科書的な英語です。しかし、言っていることは、日本語でも英語でも、イタリア語でも翻訳可能な要素です。その要素の伝達には、それぞれの国語の内部で意味をもつさまざま色合の違いを知っている必要がありません。ただ、論理自体は、正しい構文の組み立てで、正確に自信を持って伝えているのです。

インタビューでは、何が訊かれるか分かりません。安倍首相のオリンピック誘致演説のようにあらかじめ用意する原稿もないのです。よく自信を持って話せるな、という印象を持った人も多いでしょう(時々「文法」を間違えるのに…)。その落ち着きは、仕事を通じて、普遍的概念、論理は間違えなく伝えることができるという自信から来ているのだと思います。

次回、その具体例を本田選手のインタビューから挙げてみたいと思います。建築家、板茂さんの英語と似ている点にも触れたいと思います。

また、「言語は論理だけはないだろ!」という意見についてはまた折を見つけて語ることといたしましょう。


小野田さん (6) 小野田自然塾の方針からのヒント

2014年03月12日 | 小野田寛郎さん

 


小野田さん (6)  小野田自然塾の方針からのヒント

小野田自然塾 ②

今回も英語自体から少し離れます。

今日は、亡き小野田さんがルバング島から帰って40年目。今日はお別れの会があります。

大人の、しかも英語学習でも、よく考えると、小野田自然塾の基本方針は、当てはまります。何ために学ぶのか、学ぶとは何を意味するのかについて、ヒントを与えてくれます。理念がよく練られているからでしょう。


気がつくと、小学生クラスで子供とつきあっているとき同じようなことを考えています。


(1) 小野田自然塾の理念
生涯の道を誤らない
いかなる困難にも屈しない
目的を忘れない
逞しい精神と体力を持つ
----- こんな子供をつくる手助けをしたい


(2) 小野田自然塾の目的
自然の恩恵を体得する
人や仲間や社会の恩恵を考える
自分の個性を知り自主性を持つ
基礎体力を養成する


(3)指導の仕方
言って聞かせる(教える)
やってみせる(手本となる)
やらせてみる(まかせる)
待ってやる (急いで答えを教えるな)
ほめてやる (認めてやる)


言葉の学習は、人間の間のことですので、一見、自然とは無関係のように思えますが、自然も外国語も、自分ではどうにもならない「よそもの」です。その「よそもの」の正体を見誤らず、あなどらず、自分の力に合わせて利用できるようにする点で同じではないでしょうか。

小野田自然塾 ③