言葉は正確に: オリンピック 金メダルと、STAP細胞の件
また、英語に関係ない方にずれているね、と言われそうですので、最初に、テーマを述べておきましょう。「言葉は正確に」シリーズは、どちらかというと、「言葉は正確に使いましょう」の意味合いが強いと思われるでしょうし、私もそういう方向です。
が、ここでは、「言葉を正確に理解する」の一例を扱いたいと思います。もっと正確に言えば、だまされないように言葉に注意しようということです。
実は、小野田寛郎さんの件を調べていて、1974年に、ルバング島から出てきた時、とてもセンセイショナルな話題になって、マスコミで大騒ぎしましたが、40年後の今、当時の新聞の記事などを読んで見ますと、毎日押し寄せる言語と視覚情報のために、小野田さんの虚像が次第に作られていく過程が見えてきました。
同様に、現在進行中のSTAP細胞の件についても、センセイションのなかで、問題の本質が見えなくなりつつあるのではないかと思えるのです。
小野田さんの場合、少し前に、グアム島の横井さん救出劇があったので、横井さんと比較しての小野田さん像が作られたと思います(長さの関係でここでは省略。別の機会に…)。現行のSTAP細胞の場合、直前のオリンピックでのメダル獲得と人々はパラレルに見ているということはないでしょうか。つまり、ドーピングなどのメダル剥奪のケースです。
「そうじゃないですか、同じでしょ」というあなた、まあまあ。
オリンピックの場合は選手の名誉の問題に過ぎません。しかし、科学の発見の場合は、その後の科学、病気の治療に役に立つかどうか、早く病人が救えるかという問題が控えているのです。金メダルは取ったからって、または剥奪されたからって、そのため何が起きるということはありません。ま、スポーツ振興に多少の影響があるかもしれませんが、それは飽くまで副次的なことです。しかし、科学の発見は、その後の社会をすっかり変える可能性もあるのです。
また、一方、以下の側面にも注意しなければなりません。科学の発見の場合、誰が発見しようと関係ないのです!。エジソンだろうが、パストゥールだろうが、誰でかまいません。蓄音機ができ、ワクチンができたということこそ意味があるのです。STAP細胞も誰が発見しようと関係がありません。その発見が確かかどうかのみが重要なわけです。
ところが、3月17日現在のニュースでは、STAP細胞があったかどうかがまだ証明されないうちに騒ぎが大きくなっているようです。確かに、記事(産経)の後ろの方に、「細胞の存在も不明」と書いてありますが、「だったらまだ事件になっていないのではないの」と言いたくなります。もし、存在しなかったら、そこではじめて事件になるのでないでしょうか。
どうも、発見自体ではなく、発見者の人間がどうかということや、発見者にだまされたとか、面子がつぶれたとか、そのようなことが事件になっているようです。
その点、朝日新聞、15日(金)の夕刊のSTAP細胞関連に記事の最後に、カリフォルニア大学のノップらー準教授の以下の意見が引用されていたことに注目しました。
理研が実際の問題ではなく、混乱に対して謝罪していることは注目すべきだ。私の聞いた反応は、『おおいに落胆した』という言葉に要約できる。
実際の問題より、対人関係的な面、「属人的」な面に問題がずれているという指摘です。またぞろ、「面子を重んじる日本文化が遠因にある」などのような文化議論になるのは望みませんが、現在の日本での問題の扱いが、現実の問題からずれてきているという点でこの意見に同意します。
また、共同執筆者のハーバード大学、バカンティ教授は、14日の時点で以下のように述べていす。
「比較的軽微な間違いや、外部からの圧力によって無視するにはあまりに重要な論文だ。」 (-----) 「データが間違っているという説得力のある証拠が示されていないかぎり、論文を撤回する必要はない。」(読売 15日夕刊)
新聞の見出しの言葉は大変影響力があるので、読者の意見も影響されますが、記事の最後の方にある、上のような言葉もしっかり読んで、結論を下す、あるいは、もっと重要なことですが、結論を宙ぶらりんにしておくという態度が必要です。
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ここで、コラムを終えるべきですが、一方、専門家の役割ということも、事件を通し考えさせられます。上の議論とは別個ですが、ここで触れます。
現代は、専門家なしではやっていけない時代です。元来、大卒の人間なら、多少とも、専門家のはずです。その専門家は、どうして職業として成立するかというと、専門外の人の時間と労力を引き受けるからです。普通の人の時間を、「大変でしょうから私が代わりにやって差し上げましょう」と申し出て、お金をもらえるという身分です。
ですから、論文を出したら、それに基づいて世間がスムーズに動くように心がけるのが研究者に必要な姿勢です。もし論文に瑕疵や不備があったら、世間の人は時間ととられてしまうことになります。たとえ、その論文が正しいものだとしても、ほかの人が論文を確かめるために労力と時間を費やしたら、まずいのです。そのため、発表する前に何度も校正する必要があるのです。その校正は、著者が非難されないためにするのでなく、世間の人の時間を取らないようにするためなのです。
「正しいものだとしても」と今、書きましたが、ここが肝心です。もし、STAP細胞が今後の実験によって証明された場合に、上に書いた問題が浮上することになります。もし、論文がうそだとしたら、この問題は浮上しないでしょう。ここで、もう一度オリンピックと比べてください。もしある選手がドーピングの疑いをかけられ、その後で、身の潔白が証明された場合、めでたし、めでたしになります。しかし、科学の発見の場合はそれで済ますわけには行きません。こんなところに、スポーツは遊び、科学は実業であるという違いが浮き上がります。
さて、事態はどう推移するのでしょう。