国語と英語:速読より、遅読と要約作成のすすめ
「となり百姓」という言葉があるそうです。隣が種を撒いたから、うちもそろそろね」という「主体性のない」根性を自己卑下して使う言葉のようです。私も、小浜さん(左下にブログの紹介がある)たちに倣って、このブログを始めています。英語スクールの宣伝になるかな、と思いますが。いったん、始めてみて、周りのブログを見渡すと、自己主張が多くて圧倒される一方、みんな似たようなことを言っているなという印象を持ちました。
「英語学習より国語学習を優先すべきだ」というのがその典型です。私もそういう意見をよく人に言ったり書いたりしていましたので、「私の意見も人真似みたいだなあ」と恥じ入ったしだいです。
さて、こういう書き出しで、「速読より遅読」について述べますが、このテーマも多少気恥ずかしいものです。国語、英語論と同じように、「能率至上主義 versus 本質論」の匂いがします。しかし、まだあまり言われていない(と、書き手が思っているだけかもしれませんが…)ということが、意見を述べてもよい唯一の理由となるでしょうか。
今、英語スクールの中級クラスでは、教材記事の要約(summary)をすることを生徒さんに課しています。その過程でレッスンで扱ったテキストを何度も聴き、読み、英語力がつことを期待します。(単なる「復習」より面白いでしょう。)要約作成のためには、何度も、聴き、読むのですからこれを遅読と言ってよいと思います。
が、英語習得の手段という側面と並び、要約作成の、より本質的なことは、「分かった」ということを確認する作業だということです。言い換えると、「分かっていない」ということを認識する作業だとも言えます。本や記事を読んで、聴いたあと、分かったかどうか、どのように判断するのでしょう。たいてい、「分かった気がする」ということを「分かった」と思っているのではないでしょうか。
たしかに、そうではない場合もあります。それは、行動にすぐ移る場合です。「明日までにこれ、仕上げてね」と言われて、明日、その仕事が仕上がっていなければ、「分かっていない」と看做されても仕方ありません。
しかし、世の中、すぐ行動に結びつく文章ばかり読んでいるわけではないので、誤解、誤読が山のように積みあがっていくわけです。誤解に基づく誤解が生まれて、現実離れしていく怖さがあります。そこで、それを食い止め、言葉と現実をつなぎとめる作業が要約作りだといえるのではないでしょうか。要約したものを、もとの記事を聴いたり、読んだりしていない第三者に伝えて、それがそのまま「第四者」、「第五者」に伝わっても、そして、ぐるっと回って、元の人に戻ってきたとき、「違和感」がなかったら、成功です。その伝言ゲームの最初の鎖作りが、サマライズということになります。
こういうとなんだか難しそうに聞こえますが、実際は、気楽に構えていいのです。英語でも日本語でも、ニュースを聴き、読んだ人に、誰かが、「ねえ、何て言っているの(書いてあるの)?」と訊きます。そして、最初の人が、「そうですね。~~~だそうですよ」と言うことが要約作成です。このとき、第三者に伝えたいという気持ちが生じますが、その気持ちが一番大事です。さっき、「分かった気になる」と、気持ちについて否定的表現を用いましたが、<気持ち>が要約作成を支える原動力になります。心理学の語彙を使えば動機付けということでしょう。
実際、要約してみたものと最初の記事を比較してみると、「分かった」という気持ちが強まります。あるいは、「む?。変だ、抜かしている」、または、「無駄だな」とい気持ちに苛まれることもあります。前者は、必要条件(necessary condition)を満たしていないことに気がついたということ、後者は、十分条件(sufficient condition)が広すぎるという認識です。こうして、「理解したい」、「伝えたい」という言語活動の基本的な感情に基づき、言語習得をより正確、身のあるものにしていく過程が要約作成、遅読の意義です。
さっそく、この記事をsummarizeしてみませんか。
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このエッセイの後まだ書くべきことがあります。、要約を作る(output)には意義があるが、要約を読むこと(input)に頼ることは危険だということ、また、「理解」にはもっと深い側面があるという点について、論じ足りません。深くなりすぎそうですので、しばらく後に、書くことになるかと思います…。