外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

言葉は正確に:論理と焦点 アーミテージ発言についての異なる記事

2014年04月03日 | 言葉は正確に:

  言葉は正確に:論理と焦点 アーミテージ発言についての異なる記事

ワシントンの桜このブログは、言葉、外国語学習のみに話題を絞っているので、政治的な内容は敬遠したいのですが、「言葉は正確に」というテーマが一番生きてくる分野の一つは「政治」でもあります。今回の主題もどうかなと思い、数日間ペンディングにしていましたが、言語における論理と焦点に話をつなげてみましょう。そして、最後に、「教育に新聞を(NIE)」について一言。


まず、産経の古森記者の記事の一部をご覧ください。

実は多様な靖国参拝対応 ワシントン駐在客員特派員・古森義久 (2014.3.30 03:10)

http://sankei.jp.msn.com/world/news/140330/amr14033003100001-n1.htm 最終閲覧:140402

 「私は靖国は歴史関連案件のなかでも問題にしていない。日本の国民も首相も信仰として靖国を参拝する権利があると思う。安倍首相の場合、選挙の公約であり、中曽根、橋本、小泉氏ら歴代の保守派首相の先例もあり、参拝自体を論議の対象にすることもない」

 アーミテージ氏のこんな答えは以前のスタンスと変わらなかった。彼はさらに言葉を重ねた。

 「靖国参拝はあくまで日本の問題であり、他の国が日本の首相に参拝するな、と迫れば、日本側ではそれまで靖国にそれほど熱心でなかった人たちまでが逆に動くという反応を呼ぶだろう。ただし首相の参拝が中国外交を利さないようには注意すべきだ」 (下線部はブログ筆者によるもの)


一方、朝日新聞には以下のように書かれています。朝日新聞(2014/2/28)

安倍晋三首相の靖国神社参拝について、米国のアーミテージ元国務副長官は27日、ワシントン市内での講演で、「中国を喜ばせたことは間違いない」と述べ、日本を非難する中国の外交活動を有利にする結果になったと指摘した。
アーミテージ氏はブッシュ政権で国務副長官を務めた共和党の知日派重鎮。「靖国神社の問題は、日本の指導者が国全体にとって何が最善か判断することだ。しかし、中国の外交を後押しすることになったことは無視できない。これが私の参拝への反対理由だ」と話した。(下線は同じくブログ筆者によるもの)


じつは、前者の古森記者による記事は、アーミテージ氏についての朝日(上の記事)、共同、毎日の2月の記事に書かれている内容を確かめるために、直接本人に質問したものです。

これらの二つの記事を比べると、アーミテージ氏が矛盾しているように聞こえます。あるいは、記者が間違って伝えているのかもしれません。アーミテージ氏がインタビューの性格に応じて内容を代えたか、または、新聞記者が、誤解したか、曲解したか、ということも考えられます。

アーミテージ氏は「反対」とはっきり言ったのでしょうか。後者の記事からはそうだと考えられます。そうだとしたら、その反対がどういう性質によるものなのか知りたくなります。


古森記者は、上の記事に続けて、

この最後の言葉だけを拡大すれば、「アーミテージ氏も参拝を批判」という解釈をも描けるのだろう。

と述べています。古森記者の説明によれば、後者の記事は「解釈」であって、事実の報道とは言えないことになります。後者の記事と、古森記者の記事は、一ヶ月を経て異なる時に行われた発言によるものではありますが、発言のどの部分を強調するかによって、まったく反対の意図の記事が書かれうるという問題を提起しています。


後者の記事の記者は、「反対」と言ったのは事実だというでしょう。報道にしろ、科学にしろ事実に基づく必要がありますが、事実に基づくだけで十分かというと、そういうわけには行きません。事実は必要条件(necessary condition)」ですが、事実に基づくだけでは十分条件(sufficient condition)を満たしているというわけには行かないのです。ある事件のどの一部を強調するかによってまったく違う「解釈」を導き出すことができます。「写真」と訳されるフォトグラフだって、どこを切り取るかでまったく違う意味を持ったものになります。


アーミテージが、単に戦術的に、今この状況では一時的に反対だ、と言ったか、安倍首相の方針全体に反対なのか、どちらでしょう。ただ「反対した」という事実だけでは分かりません。記者が前後の文脈のどの位置に置くかで意味が変わってくるのです。


つまり、必要条件では足りない部分を埋めるものは、記者の主観ということになります。焦点と言ってもいいかと思います。同じことを報道していても、どこに焦点を当てるかということで意味がまったく違ってきます。しかし、事実の検証と違って、「焦点が合っているかどうか」は、「証明」することが困難です。困ったものです。


ここでは、これ以上追及しませんが、言語活動においては、論理だけではなく、「焦点」をも考える必要あがると考えさせる件でした。事実があっているからといって油断はなりません。私たちが情報を受け取るとき、どこに焦点を当てた文章であるかに注意する必要があります。

靖国神社の桜


さて、ここまで、情報を受け取るとき、事実だけではく、焦点にも気をつけるべきということを述べてまいりましたが、じつは、このことをもっと考えさせられるのは、読む場合より、文章を書く場合です。作文の先生は、「論理的であれ」とよく言います。「論理」という表題をつければ本が売れるということも聞いたことがあります。しかし、「焦点」ということについてはあまり語られません。何を言いたいか、書き手自身に自信が無くなると、焦点のぼけた文になり、読者を戸惑わせます。また、もっと重要なことは、自分のなかの隠れた願望があらぬところに焦点が当たった文章を書かせることもあるからです...。また別の機会に、作文、とくに英語で作文する際に、具体的に、焦点についてどう扱うか述べたいと思います。


最後に、「教育に新聞を(NIE)」について一言。もしこの運動が、販売促進ではなく、教育について、もっと大きな志をもって行われているのなら、上で扱っているような新聞による記事の食い違いについてどう考えるのでしょう。自然科学と違って、歴史、報道、人文の世界は、べたな事実が述べられているわけではありません。背景にある価値観によって、異なる点に焦点が当てられています。このことを中学生、高校生にどう理解させるのでしょう。ましては小学生に教えるのは至難だと思います。