goo blog サービス終了のお知らせ 

外国語学習の意味、そして母国語について考えましょう

社内公用語の英語化、小学校での英語の義務化など最近「英語」に振り回され気味ですが、何故、どの程度英語を学ぶか考えます。

福沢諭吉の愉快な英語修行 5 諭吉版、適塾の社会学、教育論の巻

2018年12月04日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行 5 諭吉版、適塾の社会学、教育論の巻

 前回

緒方洪庵洋書突然に話が真面目になります。まず、いままで見て来た適塾の特徴をおさらいしてみましょう。

⓵ 学力の現実を見つめる

⓶ フィードバックできる

⓷ ⓵と②を踏まえてインセンティヴが生まれる

④ 写本のところでは、「欠如の補充」本能についてもふれました。

⑤ このシリーズではなく、『福沢諭吉の翻訳法」で触れたことですが、緒方先生から「読者のために訳す」ということを教わった点も忘れられません。

少ない引用でしたが、注目点が多いと思います。ところで、次の福沢の言葉は、みなさん、どう受け止めますか。

兎に角に当時緒方の書生は、十中七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのがかえって仕合(しあわせ)で、江戸の書生よりも能(よ)く勉強が出来たのであろう。(『福翁自伝』岩波文庫版 p.94)

目的がないのが勉強がよくできる理由だ、というのはどういうことでしょう。私なども、言葉の学習は他者を理解、伝達するのが目的であるとよく言っています。おかしいじゃないか、と思う人もいるでしょう。福沢が「大阪書生の特色」という小見出しで述べていることに耳を傾けてみましょう。

適塾イラストされば大阪に限って日本国中粒選りのエライ書生の居よう訳わけはない。又江戸に限て日本国中の鈍い書生ばかり居よう訳けもない。しかるに何故ソレが違うかと云うことに就ては考えなくてはならぬ。もちろんその時には私なども大阪の書生がエライ/\と自慢をして居たけれども、それは人物の相違ではない

ではどういうわけか。先生が偉いのか。何か得になる事があるのか。どうもそうではなさそうです。以下の福沢の分析は社会学的分析と言えます。

江戸と大阪とおのずから事情が違って居る。江戸の方では開国のはじめとは云いながら、幕府を始め諸藩大名の屋敷と云う者があって、西洋の新技術を求むることが広くかつ急である。従ていささかでも洋書を解(げ)すことの出来る者を雇うとか、あるいは飜訳をさせればその返礼に金を与えるとか云うような事で、書生輩がおのずから生計の道に近い。ごく都合のいい者になれば大名に抱えられて、昨日までの書生が今日は何百石(こく)の侍いになったと云うこともまれにはあった。それに引換えて大阪は丸で町人の世界で、何も武家と云うものはない。従て砲術をやろうと云う者もなければ原書を取調べようと云う者もありはせぬ。それゆえ緒方の書生が幾年勉強して何程エライ学者になっても、とんと実際の仕事に縁がない。すなわち衣食に縁がない。縁がないから縁を求めると云うことにも思い寄らぬので、しからば何のために苦学するかと云えば一寸ちょいと説明はない。前途自分の身体(からだ)はどうなるであろうかと考えた事もなければ、名を求める気もない。名を求めぬどころか、蘭学書生と云えば世間に悪く云われるばかりで、既(すで)に已(すで)に焼けに成って居る。ただ昼夜苦しんでむずかしい原書を読んで面白がって居るようなもので実にわけの分らぬ身の有様ありさまとは申しながら、... 

適塾図面と福沢は筆を進めます。ここまでの記述は、一人一人の利益ということではなく、大阪と江戸の社会構造が緒方の塾の書生気質を生み出したという推論です。社会構造とは不思議なもので、いや、人間とは不思議なもので、利益イコール、インセンティヴ(誘導)にはならないのですね。「自由」という概念を導入してもいいかもしれません。利益というものは人を誘導することもあれば、人の自由を奪うこともあるのです。しからば、その自由のもとで書生たちがどういう心持だったのでしょう。

(-----) 一歩を進めて当時の書生の心の底を叩いて見れば、おのずから楽しみがある。これを一言(いちげん)すれば――西洋日進の書を読むことは日本国中の人に出来ない事だ、自分達の仲間に限ってこんな事が出来る、貧乏をしても難渋をしても、粗衣粗食、一見看る影もない貧書生でありながら、智力思想の活溌高尚なることは王侯貴人も眼下に見下すと云う気位いで、ただむかしければ面白い、苦中有楽(くちゅううらく)、苦即楽(くそくらく)と云いう境遇であったと思われる。たとえばこの薬は何に利くか知らぬけれども、自分達よりほかにこんな苦い薬をよく呑む者はなかろうと云う見識で、病の在る所も問わずに唯苦ければもっと呑んでやると云うくらいの血気であったに違いはない。

「社会的条件」しだいで、人間、このような境地に至ることもあるのです。さらに、この「社会学」から、もっと普遍的と言える、諭吉の「哲学」、あるいは教育論が生まれます。先ほど引用した部分をもう一度ここで見てみましょう。

写本兎に角に当時緒方の書生は、十中七、八、目的なしに苦学した者であるが、その目的のなかったのがかえって仕合(しあわせ)で、江戸の書生よりも能(よ)く勉強が出来たのであろう。

「かえって仕合で…」、つまり、ここでは目的がなかったこと自体が勉強が出来た原因だと推論、言い切っています。話を「一般化」しているのですね。つまり、このことは、単に当時の江戸、大阪の違いというにとどまらず、現代でも一考に値する発想だ、ということになります。なぜ目的がないことが勉強ができる理由になるのか。再度この問いに答えるために福沢の言葉に耳を傾けます。

ソレカラ考えて見ると、今日の書生にしても余り学問を勉強すると同時に始終我身の行先きばかり考えて居るようでは、修業は出来なかろうと思う。さればと云ってただ迂闊(うかつ)に本ばかり見て居るのは最もよろしくない。よろしくないとは云ながら、又始終今も云う通り自分の身の行末(ゆくすえ)のみ考えて、どうしたらば立身が出来るだろうか、どうしたらば金が手に入るだろうか、立派な家に往むことが出来るだろうか、どうすれば旨い物を喰い、いい着物を着られるだろうかと云うような事にばかり心を引かれて、あくせく勉強すると云うことでは決して真の勉強は出来ないだろうと思う。就学勉強中はみずから静かにして居らなければならぬと云う理屈がここに出て来ようと思う。

ところで、『学問のすすめ』にはつぎのように書いてあります。

学問のすすめ学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。(-----) されば今かかる実なき学問は先ず次にし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。 岩波文庫p.12

ここを読む限り、学問には目的がなくてはならない、と読めますが、しかし、矛盾しているのではなく、こういう複雑な表現をとるところに福沢の特徴を見ることができます。自分を飾るだけでそれ以外の意味の分からない学問ではいけないという意味で、「目的がなければいけない」と言う一方で、探求心を失って処世術としての目的ばかり追いかける、という点については「目的がないのがよい」と述べているわけです。目前の外的目的に追われていれば、その目的が達成されたら学習動機がなくなります。学問は、何故?、何故?の連鎖という「内的」動機に導かれていなければ対象の理解はおぼつきません。後者の目的追及は「苦」によって彩られのは避けられないでしょう。いずれにせよ、一見矛盾しているように見えますが、福沢は、共通して、学問がリアリティを失ってはならないということを述べているのです。

あまり、「~に学べ」というのは避けたいのですが、今日本中で耳にする「学力向上」というのはこれだけのリアリティを備えているか、という反省に導かれざるをえません。個人の、学校の、あるいは、ある県の学力が上がったというとき、内心、どうしたらば立身が出来るだろうか、どうしたらば金が手に入るだろうかという以上のことが考えられているでしょうか。もちろん露骨にこのように訊けば色をなして否定するに決まっていますが...。よく東大に何人受かったかが基準になりますが、このことは何を意味するのでしょう。ここで言う「東大」とは安楽な暮らしへのゲートウエイという意味ではないですか。将来の「安楽」を代償とした「苦」を、全国一律、親は子に強いる時代です。現代における勉強の「目的」とはこんなところでしょうか。ずっと小さくなりますが、TOEICの点数を上げるために英語を「勉強」している様子を思い浮かべてしまいます。

どうも話が小さくなりました。次回、諭吉に江戸にある中津藩の蘭学塾で教えるように藩命が下ります。ペリーの来日以来、当時の日本は砲術ブームで諭吉のような蘭学者にもじわじわと日が当たってきたのです。しかし、横浜でオランダ語が通じないということを思い知らされます。

つづく(福沢諭吉6へ)

 

 

 

 

 

 

 

 

 


福沢諭吉の愉快な英語修行 4 手塚治虫の先祖諭吉にしてやられる、の巻

2018年12月01日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行 4 手塚治虫の先祖諭吉にしてやられる、の巻

緒方 写本前回は、「とんでも」との言葉が聞こえそうなpractical jokerぶりの一端を紹介しましたが、今回もここで何か教訓めいたことが書いてあるだろうと思う方には、残念ながら、何もありませんというしかありません。そうですね。あるとすれば「他山の石」でしょうか。みなさんも道頓堀などに投げ込まれないように切磋琢磨しましょう。今回は、前回につづき、適塾時代の諭吉の仕業をもう一つ紹介します。もっと引用したくなるのですが、英語学習サイトゆえ、ここで打ち切り。次回に適塾の特徴について福沢が触れている点に焦点をあて、そのあと英語へと移ります。

適塾に手塚良庵という若者が入塾してきます。なかなか見えもあって押だしがいい。だからといって「生意気だ」といじめる風は緒方の塾にはありません。しかし、手塚にはある欠点がありました。福沢から見れば、ですが。

以下、少し長いですが、途中の註なしに載せましょう。じつに念の入ったやりようです。昔の日本語になれていただくのもこのシリーズの目的の一つです。

手塚良庵(-----) それから塾中の奇談を云うと、そのときの塾生は大抵みな医者の子弟だから、頭は坊主か総髪で国から出て来るけれども、大阪の都会に居る間は半髪になって天下普通の武家の風(ふう)がして見たい。今の真宗坊主が毛を少し延ばして当前の断髪の真似をするような訳で、内実の医者坊主が半髪になって刀を挟さして威張るのを嬉しがって居る。その時、江戸から来て居る手塚と云う書生があって、この男はある徳川家の藩医の子であるから、親の拝領した葵(あおい)の紋付を着て、頭は塾中流行の半髪で太刀作りの刀を挟してると云う風だから、いかにも見栄があって立派な男であるが、どうも身持がよくない。

ソコデ私がある日、手塚に向かって、「君が本当に勉強すれば僕は毎日でも講釈をして聞かせるから、何はさておき北の新地(遊郭のあるところ)に行くことはよしなさいと云ったら、当人もその時は何か後悔した事があると見えて「アヽ新地か、今思出してもいやだ。決して行かない。「それならきっと君に教えてやるけれども、マダ疑わしい。行かないと云う証文を書け。「よろしいどんな事でも書くと云うから、うんぬん今後きっと勉強する、もし違約をすれば坊主にされても苦しからずと云う証文を書かせて私の手に取って置て、約束の通りに毎日別段に教えて居た所が、その後手塚が真実勉強するから面白くない。

手塚良庵遊女の手紙こう云いうのは全くこっちが悪い。人の勉強するのを面白くないとは怪しからぬ事だけれども、何分興(きょう)がないからそっと両三人に相談して、「あいつのなじみの遊女は何と云う奴か知ら。「それはすぐに分かる、何々という奴。「よし、それならば一つ手紙を遣(や)ろうと、それから私が遊女風の手紙を書く。かたことまじりに彼等の云いそうな事を並べ立て、何でもあの男は無心を云われて居るに相違ないその無心は、きっと麝香(じゃこう)をくれろとか何とか云われた事があるに違いないと推察して、文句の中に「ソレあのときやくそくのじゃこはどておますと云うような、判じて読まねば分らぬような事を書入れて、鉄川様何々よりと記して手紙は出来たが、しかし私の手蹟(て)じゃまずいから長州の松岡勇記と云う男が御家流(通俗的な書体)で女の手に紛らわしく書いて、ソレカラ玄関のとりつぎをする書生に云いふくめて、「これを新地から来たと云って持って行け。併し事実を云えばぶちなぐるぞ。よろしいかと脅迫して、それから取次が本人の処に持て行って、「鉄川と云う人は塾中にない、多分手塚君のことゝ思うから持て来たと云て渡した。手紙偽造の共謀者はその前から見え隠くれに様子を窺がうて居た所が、本人の手塚は一人でしきりにその手紙を見て居る。麝香の無心があった事かどうか分らないが、手塚の二字を大阪なまりにテツカと云うそのテツカを鉄川と書いたのは、高橋順益の思付きでよほどよく出来てる。そんな事でどうやらこうやらついに本人をしゃくり出して仕舞しまったのは罪の深い事だ。

手塚 夜這い二、三日はとまって居たが果して行ったから、ソリャしめたと共謀者は待って居る。翌朝、帰って平気で居るから、こっちも平気で、私が鋏(はさみ)を持て行ってひょいと引っつかまえた所が、手塚が驚いて「どうすると云うから、「どうするも何もない、坊主にするだけだ。坊主にされて今のような立派な男になるには二年ばかり手間が掛るだろう。往生しろと云って、髻(もとどり)を捕まえて鋏をガチャ/\云わせると、当人は真面目になって手を合せて拝む。そうすると共謀者中から仲裁人が出て来て、「福澤、余り酷いじゃないか。「何も文句なしじゃないか、坊主になるのは約束だと問答の福沢、手塚を諫める中に、馴合いの中人(ちゅうにん)が段々取持つような風をして、果ては坊主の代りに酒や鶏を買わして、一処に飲みながら又冷ひやかして、「お願いだ、もう一度行て呉れんか、又飲めるからとワイワイ云たのは随分乱暴だけれども、それが自ずから切諫(いけん)になって居たこともあろう。岩波文庫 p.70

手塚良庵は漫画家、手塚治虫のひいおじいさん。手塚の漫画『陽だまりの樹』は、手塚良庵なる人物が登場する虚実交えたストーリーです。上のエピソードとともに福沢諭吉も登場するそうです。

続く(福沢諭吉5へ)

 

 


福沢諭吉の愉快な英語修行 3 諭吉さん、悪戯がすぎますぞ、の巻

2018年11月29日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行 3 諭吉さん、悪戯がすぎますぞ、の巻

前回

写本イラスト現代では、写本ということは悉くフォトコピーに置き換われて、無用のものになりましたが、では、適塾における写本の練達は私たちにはまったく無意味なものでしょうか。ここには、「欠如の充足」という普遍的学習理論(かってに私がそう名付けていますが...)の柱の一つの見事な応用例ではないでしょうか。人間は足りないこと、知らないことがあるとそれを充足しようとする本能、情熱というものがあります。これは人間がものを学ぶ際の不可欠の条件の一つです。現在の学習環境、小学校でも中等教育でも大学でもこの条件は満たされているでしょうか。もしないとしたらその問題を議論しなければなりません。何も適塾のまねをしてわざと不便な状況を作り出す必要はないかもしれません。また、「昔あって今失われたもの」のノスタルジーに浸るのもすこしずれているように思います。しかし、少なくとも、この人間離れした写本の作業は、何時の時代にも通じる学習の本能というものについて考えさせてくれるのです。

さて、試験、写本についで、適塾での活動の三つめの面、実験、工芸にも書生たちは熱心でした。しかし...。以下、アンモニア製造の一節からです。

アンモニア(-----) すなわちこれが暗謨尼亜(アンモニア)である。至極旨く取れることは取れるが、ここに難渋はその臭気だ。臭いにも臭くないにも何ともいようがない。馬爪(あのばづ)、あんな骨類を徳利に入れて蒸焼にするのであるから実に鼻持ならぬ。それを緒方の塾の庭の狭い処でるのであるから奥でもっらぬ。奥で堪らぬばかりではない。流石(さすが)の乱暴書生もれには辟易(へきえき)してとも居られない。夕方湯屋に行くと着物が臭くって犬が吠えるというけ。たとまっぱだか遣やっても身体からだが臭いと云いって人に忌いやがられる。(岩波文庫p.88。今回、このページ前後から引用)

医学塾であるにもかかわらず、適塾は衛生概念にも問題があったようです。

食事の時にはとても座って喰うなんということは出来た話でない。足も踏立てられぬ板敷だから、皆上草履(うわぞうり)をはいて立って喰う。一度は銘々に別けてやったこともあるけれども、そうは続かぬ。お鉢がそこに出してあるから、銘々に茶碗に盛って百鬼(ひゃくき)立食(りっしょく)。

夏は真実のはだか、褌(ふんどし)も襦袢(じゅばん)も何もない真っぱだか。もちろん飯をくう時と会読をする時にはおのずから遠慮するから何か一枚ちょいと引掛ける、中にも絽(ろ)の羽織を真っぱだかの上に着てる者が多い。これは余程おかしな風(ふう)で、今の人が見たら、さぞ笑うだろう。

裸といえば、諭吉さんの大失態がありました。

適塾階段又あるときこれは私の大失策、或る夜、私が二階に寝て居たら、下から女の声で福澤さん/\と呼ぶ。私は夕方酒を飲んで今寝たばかり。うるさい下女だ、今ごろ何の用があるかと思うけれども、呼べば起きねばならぬ。それから真っぱだかで飛起て、階子段を飛下りて、何の用だとふんばたかった所が、案に相違、下女ではあらで奥さんだ。何どうにもこうにも逃げようにも逃げられず、真っぱだかで座ってお辞儀も出来ず、進退窮して実に身のおきどころがない。奥さんも気の毒だと思われたのか、物をも云わず奥の方に引込んでしまった。翌朝おわびに出て昨夜は誠に失礼つかまつりましたと陳べるわけにも行かず、とうとう末代御挨拶なしに済んで仕舞た事がある。こればかりは生涯忘れることが出来ぬ。先年も大阪に行って緒方の家を尋ねて、この階子段の下だったと四十年前の事を思出して、独り心の中で赤面しました。

「しらみは塾中永住の動物で、誰一人もこれを免かれることは出来ない。ちょいとはだかになれば五疋も十疋も捕るに造作はない」と、こんな調子で、町中へ出ても緒方の書生は嫌われ者でした。或る時こんなことがありました。

そんなわけだから塾中の書生に身なりの立派な者は先まず少ない。そのくせ市中の縁日などいえば夜分きっと出て行く。行くと往来の群集、なかんずく娘の子などは、アレ書生が来たと云て脇の方によけるその様子は、何かでも出て来てそれをきたながるようだ。どうも仕方しかたがない。鳥を捌く往来の人から見てのように思うはずだ。あるとき難波橋のわれわれ得意の牛鍋屋の親爺が豚を買出して来て、牛屋商売であるが気の弱い奴やつで、自分に殺すことが出来ぬからと云て、緒方の書生が目指された。それから親爺に逢って、「殺して遣やるが、殺す代りに何を呉くれるか」――「左様ですな」――「頭を呉れるか」――「頭なら上げましょう。」それから殺しに行った。こっちは流石(さすが)に生理学者で、動物を殺すに窒塞させれば訳はないと云うことを知って居る。幸いその牛屋は河岸端であるから、そこへ連れて行って四足を縛って水に突込んですぐ殺した。そこでお礼として豚の頭を貰って来て、奥からなたを借りて来て、まず解剖的に脳だの眼だのよく/\調べて、散々いじくった跡を煮て喰くったことがある。

このような塾で頭角を現わしたのは、学力だけでもなさそうです。「人を食う」という表現がありますが、諭吉さんの場合、少々程度が違います。

(-----) それから又一度遣やったあとで怖いと思ったのは人をだまして河豚(ふぐ)わせた事だ。私は大阪に居るときさっさと河豚も喰えば河豚の肝(きも)喰って居た。る時、芸州、仁方(にがた)から来て居た書生、三刀元寛(みとうげんかん)云いう男に、味噌漬みそづけ貰って来たが喰わぬかとうと、「ありがたい、成程い味がする」と、よろこんで喰て仕舞って二時間ばかり経ってから、「イヤ可愛いそうに、今喰たのは鯛でも何でもない、中津屋敷で貰た河豚の味噌漬だ。食物の消化時間は大抵知ってるだろう、今吐剤飲のんでも無益だ。河豚の毒がかれるなら嘔いて見ろと云ったら、三刀も医者の事だから分わかって居る。サア気を揉んで私に武者振付くように腹を立てたが、私もあとになって余りしゃれに念が入過りすぎたと思て心配した。随分間違いの生じ易やすい話だから。

このような話は『福翁自伝』中、枚挙にいとまがありません。こういうのを英語ではpracticcal jokeと云いますが、この「姿勢」は終生変わらなかったようで、「福沢諭吉の英文翻訳法2/2」で触れた尾崎行雄の件(註の部分)などをご覧ください。まこと枚挙にいとまがないのですが、このブログは英語教育、学習を旨とするものなので、次回、有名な漫画家の祖先が福沢にしてやられる話を最期にし、適塾の学習について「真面目」な話をひとくさり。そのあとめでたく英語の世界に入ってまいります。

最期に、町中(塾内だけでないんです!)での悪行によって危うい目にあった話で今回はおしまいにします。

適塾祭り私が一度大いに恐れたことは、これも御霊(ごりょう)の近処で上方(かみがた)に行われる砂持(すなもち)と云う祭礼のような事があって、町中の若い者が百人も二百人も灯籠(とうろう)を頭に掛けてヤイ/\云て行列をして町を通る。書生三、四人してこれを見物して居る中に、私がどういう気であったか、いずれ酒の機嫌でしょう、杖か何かでその頭の灯籠をぶち落してやった。スルトその連中の奴と見える。チボじゃ/\と怒鳴り出した。大阪でチボ(スリ)と云えば、理非を分わかたず打殺して川にほうり込む習(ならわし)だから、私は本当に怖かった。何でも逃げるにしかずと覚悟をして、はだしになって堂島の方に逃げた。その時私は脇差を一本さして居たから、もし追つかるようになれば後向いて進んで斬るより外仕方しかたがない。斬っては誠にまずい。かりそめにも人にきずを付ける了簡(りょうけん)はないから、ただ一生懸命に駈かけて、堂島五丁目の奥平の倉屋敷(中津藩の屋敷)に飛込んでホットいきをした事がある。

続く(福沢諭吉4へ)

 

 


福沢諭吉の愉快な英語修行 2 人間技と思えぬ写本の日々。しかし、の巻

2018年11月26日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行 2 人間技と思えぬ写本の日々。しかし、の巻

前回

江戸時代塾

一回目は、競争心溢れる適塾の様子を福沢さん自身に語っていただきました。ところで、今日の教育における競争とどう違うのでしょう。

競争というと、現代では「ゆとり」と対比して語られることが多いです。競争には、実力向上というメリットと同時に、競争の為の競争が非人間的だというマイナス面がある、一方、「ゆとり」は、生徒の人間性を育てるが、怠惰を呼ぶ。ざっとこういうメリット、デメリットを対立項として、同じようなことが繰り返し論じられています。しかし、「競争」ということの意味を十分吟味した上でのことでしょうか。前回の適塾における競争は、現代私たちが論じる競争と少し意味合いが違うようです。

競争が何をもたらすか、この適塾の描写は、現代、目標としている「平均点の向上」だけでは説明できないものがあるということを示唆しています。「正味の実力を養うと云うのが事実に行われて居た」、これは何を意味するでしょう。学力の現実を見失っていないということです。たんに他より優れるということではない、という点に注意を止める必要があります。現代の競争支持論者で、そのことを指摘するのを聞いたことがありません。この視点が失われたら、些末な点数争いを指摘するゆとり派のぶの方が高くなってしまいませんか。

フィードバック二点目として、この競争は一回限りのものではなく、始終、切磋琢磨するので、やり直しがきくということです。現代風に言えばフィードバックが仕組まれているということができるでしょう。この点も現代の競争対ゆとり論争に欠けがちな点です。試験結果が次回の試験へのインセンティヴになっているかどうか、まったく論じられることはありません。

三点目としては、以上の、⓵現実を見つめる、⓶フィードバックになる、という二つの点を踏まえてのことですが、学生の学習意欲を高めているという点です。よく「やるき」なるものがよく口の端に上りますが、「やるき」がどこから生じるという議論も絶えて聞きません。

これだけ見ても、福沢の描写による適塾のあり方が現代の私たちに反省を迫るということが分かるというものです。ただ、最期に問題点も指摘したいと思います。適塾の場合、知識欲が高い集団だということが前提になっているということです。現代の教育論の場合、「全国一律」が暗黙の前提です。その違いを踏まえることを忘れるわけにはいきません。「なんとかに学ぼう」というよく言われる常套句をそのまま受け入れるわけにはいかないのです。

さて、適塾の勉学から英語学習へはまだ距離があります。今回、もう一つ適塾の特徴について触れましょう。これだけは現代では必要がなくなったことに疑いはありません。「写本」です。時折たのまれる写本は塾生にとっての収入源にもなりましたが、新知識を身に着けるためのまたとない機会でもありました。ある日、緒方先生が黒田の殿様から拝借してきたというオランダ語の書物を福沢に見せます。このあと、少々長いですが、福沢さんにじかに語っていただきましょう。

レモン電池(-----) なかんずくエレキトルの事が如何にもつまびらかに書いてあるように見える。私などが大阪で電気の事を知ったと云うのは、ただわずかに和蘭の学校読本の中にチラホラ論じてあるより以上は知らなかった。ところがこの新舶来の物理書は英国の大家フ※(小書き片仮名ハ、1-6-83)ラデーの電気説を土台にして、電池の構造法などがちゃんと出来て居るから、新奇とも何ともただ驚くばかりで、一見ただちに魂を奪われた。それから私は先生に向むかって、「これは誠に珍らしい原書でございますが、いつまでここに拝借して居ることが出来ましょうかと云うと、「左様(さよう)さ。何いずれ黒田侯は二晩とやら大阪に泊ると云う。御出立(しゅったつ)になるまでは、あちらに入用もあるまい。「左様でございますか、一寸と塾の者にも見せとう御在ますと云て、塾へ持って来て、「どうだ、この原書はと云ったら、塾中の書生は雲霞(うんか)のごとく集って一冊の本を見て居るから、私は二、三の先輩と相談して、何でもこの本を写して取ろうと云うことに一決して、「この原書をただ見たって何にも役に立たぬ。見ることはやめにして、サア写すのだ。しかし千頁もある大部の書を皆写すことはとても出来できられないから、末段のエレキトルの処だけ写そう。

ファラデー一同みんな筆紙墨の用意して総がかりだと云た所でここに一つ困る事には、大切な黒田様の蔵書をこわすことが出来ない。毀(こわ)して手分わけて遣れば、三十人も五十人も居るからまたたく間に出来てしまうが、それは出来ない。けれども緒方の書生は原書の写本に慣れて妙(みょう)を得て居るから、一人ひとりが原書を読むと一人はこれを耳に聞いて写すことが出末る。ソコデ一人は読む、一人は写すとして、写す者が少し疲れて筆が鈍って来るとすぐにほかの者が交代して、その疲れた者は朝でも昼でもすぐに寝るとこういう仕組しくみにして、昼夜の別なく、飯を喰う間まもタバコを喫む間まも休まず、ちょいともひまなしに、およそ二夜三日(にやさんにち)のあいだに、エレキトルの処は申すに及ばず、図も写して読合わせまで出来てしまって、紙数は凡そ百五、六十枚もあったと思う。ソコデ出来ることならほかの処も写したいといったが時日が許さない。マア/\是これだけでも写したのは有難いというばかりで、先生の話に、黒田侯はこの一冊を八十両で買取られたと聞て、貧書生等はただ驚くのみ。もとより自分に買うと云う野心も起りはしない。いよいよ今夕、侯の御出立と定まり、私共はその原書を撫でくり廻まわし誠に親に暇乞いをするように別れを惜しんで還えしたことがございました。それからのちは塾中にエレキトルの説が全く面目を新たにして、当時の日本国中最上の点に達して居たと申して憚りません。岩波文庫p.90

現代では不要のことと申しましたが、ここにも今忘れられている大事なことが述べられていると思いませんか。試験と写本という二つの側面から適塾における「まじめ」な様子を垣間見ました。いよいよ次回は、何か問題が起きそうです。

つづく(福沢諭吉3へ)

 

 

 

 


福沢諭吉の愉快な英語修行 1 刻苦勉励の巻

2018年11月25日 | 福沢諭吉と英語のつきあい

福沢諭吉の愉快な英語修行 1 刻苦勉励の巻

今回のシリーズは。ほとんど、『福翁自伝』(65歳。明治31年:1898年)の解読と言っていいでしょう。ですが、日本における英語学習者の第一号の一人がどう苦労したかを本人の口から聴いてみることは無意味ではないでしょう。あえて「口語訳」にせず、原文(青文字)で引用しますが、晩年の聞き書きということもあり、現代人にも分かりやすい文体です。

笑う福沢英語修行とはいうものの、どうしても、その前の蘭学(オランダ語)時代、それに福沢の意外な悪戯好きな面にも触れないではいられません。過去にかようなpractical joker=英語で悪戯好き、がいたでしょうか。大笑いです。しかし、福沢のこの面は一万円札の畏まった風貌の裏に隠されたままあまり人に知られていません。いまだかつて福沢のpractical jokeを全面に打ち出した物語やテレビドラマがないのは慶応義塾が後ろに控えているからかもしれません。

とはいえ、英語学習ブログを謳っている当サイトでは、蘭学、practical jokerの面は抑えに抑えて、いまでも生きている福沢の英語学習に対する態度に注目していただけたらと思います。

今回は、緒方洪庵の蘭学塾で福沢を含め書生がどのように勉強していたかを紹介します。大変な勉強ぶり、勉学への情熱が伺われます。

(-----) 夕方食事の時分に、もし酒があれば酒を飲んで初更(ヨイ)に寝る。一寝して目が覚めるというのが、今で言えば十時か十時過ぎ。それからヒョイと起きて書を読む。夜明けまで読んでいて、台所の方で塾の飯炊きがコト々飯を焚く仕度をする音が聞こえると、それを合図にまた寝る。寝て丁度飯の出来上がったころ起きて、そのまま湯屋に行って朝湯に這入って、それから塾に帰って朝飯を給べてまた書を読むというのが、大抵緒方の塾に居る間ほとんど常極りであった。(岩波文庫 p.81)

ここでは競争ということがとても前向きに行われています。以下の長い引用を見てください。現代の試験制度とどこが違うか考えてみたいです。次回の冒頭で、現代の英語学習、いや、勉強ということそのものに対する批判をくみ取ることができるという点について触れます。それはさておき、最期の方に「市中に出て大いに酒を飲むとか暴れるとか云うのは」云々とあるのが気になるところです。

適塾二階会読(かいどく)は一、六とか三、八とか々大抵たいてい日がきまって居て、いよゝ明日が会読だと云うその晩は、如何な懶惰生でも大抵寝ることはない。ヅーフ部屋と云う字引のある部屋に、五人も十人も群をなして無言で字引を引きつゝ勉強して居る。それから翌朝の会読になる。会読をするにもくじでもってここからここまでは誰ときめてする。会頭はもちろん原書を持て居るので、五人なら五人、十人なら十人、自分に割当てられた所を順々に講じて、もしその者が出来なければ次に廻す。又その人も出来なければその次に廻す。その中で解(げ)し得た者は白玉、解げし傷こなうた者は黒玉、それから自分の読む領分を一寸ちょっとでも滞りなく立派に読んで了まったと云う者は白い三角を付ける。これは只の丸玉の三倍ぐらい優等なしるしで、およそ塾中の等級は七、八級位ぐらいに分けてあった。そうして毎級第一番の上席を三ヶ月占しめて居れば登級すると云う規則で、会読以外の書なれば、先進生が後進生に講釈もして聞かせ不審も聞いて遣り至極しごく深切にして兄弟のようにあるけれども、会読の一段になっては全く当人の自力に任せて構う者がないから、塾生は毎月六度ずつ試験に逢うようなものだ。

緒方洪庵2そう云いうわけで次第々々に昇級すれば、ほとんど塾中の原書を読尽くして云わば手を空なしうするような事になる、その時には何かむずかしいものはないかと云うので、実用もない原書の緒言(ちょげん)とか序文とか云うような者を集めて、最上等の塾生だけで会読をしたり、又は先生に講義を願ったこともある。私などはすなわちその講義聴聞者の一人でありしが、これを聴聞する中にも様々先生の説を聞て、その緻密なることその放胆なること実に蘭学界の一大家、名実共に違たがわぬ大人物であると感心したことは毎度の事で、講義終り、塾に帰って朋友相互いに、「今日の先生のあの卓説はどうだい。何だか吾々は頓(とん)に無学無識になったようだなどゝ話したのは今に覚えて居ます。

 市中に出て大いに酒を飲むとか暴れるとか云うのは、大抵たいてい会読を仕舞ったその晩か翌日あたりで、次の会読までにはマダ四日も五日も暇があると云う時に勝手次第に出て行ったので、会読の日に近くなるといわゆる月に六回の試験だから非常に勉強して居ました。書物をよく読むと否とは人々の才不才にもよりますけれども、ともかくも外面を胡魔化して何年居るから登級するの卒業するのということは絶えてなく、正味の実力を養うと云うのが事実に行われて居たから、大概の塾生はよく原書を読むことに達して居ました。岩波文庫p.83

刻苦勉励、食事も寝るのも忘れるようなありさまでしたが、塾頭、長州出身の村田蔵六、のちの大村益次郎が、この人は、のちに福沢に言わせれば「攘夷の発作」のようなことを起こす人ですが、塾を去り、ほどなく福沢が頭角を現わし塾頭になります。塾頭とはいえ、今でいえばタメグチを聞かれる間柄、塾生たちに痛めつけられることもあったようです。それには、福沢の方にも理由がなかったわけではありません。

つづく(福沢諭吉2へ)