【introduction】
『マグノリア』のP・T・アンダーソン監督の最新作。アダム・サンドラー演ずる、多くのうるさい姉に囲まれたさえない、しかし時々怒りを抑えられなくなる男が、エミリー・ワトソン演ずる姉の友だちに恋して、という風変わりなラブストーリーです。
アンダーソン監督は年齢の割りにやけに緻密。『マグノリア』はそれがいい方向に出て嫌いではありませんが、こっちはどうにも笑いの感覚についていけません。きっと好きな人は好きなのでしょう。
エミリー・ワトソンは、今までみた中でもっともなまめかしくてこのあたりはアンダーソンの力量か。
【review】
世間の評価が高くてもどうにも合わないという表現者がいる。私の場合、そんな映画人の1人がロバート・アルトマンなのだが、調べるとアンダーソン監督は大のアルトマンファンなのだという。納得。
これはまったく個人的なものだが、問題はギャグのあり方だと思う。保坂和志著『世界を肯定する哲学』の中でもっともひざを打ったのは「ユーモアの感覚が合うかどうかというのは人間関係にとってかなり重要(手元にないため不正確)」というフレーズ。劇中のサンドラーとワトソンも、合うかどうかを探り合っていた。
ハーモニウム、変態兄弟などはまあいいが、トイレで暴れるサンドラーなどをみると、こんなので何かおもしろいのだろうかと思ってしまう。
私は最近のお笑い芸人がみていられない。わかるやつだけに向けられた笑いは、どうにも疎外感ばかりが感じられてしまうのだ。
と思って同じ週、バスター・キートンをみる。こっちはわははと笑った。笑いの普遍性は、今表現者が考えなければならないテーマかも知れない。
とはいえ、ハワイのシーンの古い映画のパロディのような絵づくりなどみるべき点は多。変にひねらず、トッド・ヘインズの『エデンの彼方に』のような直球勝負がみてみたい気もするが、それはお門違いか。
ポール・トーマス・アンダーソン監督 2002アメリカ 95m WOWOWで収録 8月1日
『マグノリア』のP・T・アンダーソン監督の最新作。アダム・サンドラー演ずる、多くのうるさい姉に囲まれたさえない、しかし時々怒りを抑えられなくなる男が、エミリー・ワトソン演ずる姉の友だちに恋して、という風変わりなラブストーリーです。
アンダーソン監督は年齢の割りにやけに緻密。『マグノリア』はそれがいい方向に出て嫌いではありませんが、こっちはどうにも笑いの感覚についていけません。きっと好きな人は好きなのでしょう。
エミリー・ワトソンは、今までみた中でもっともなまめかしくてこのあたりはアンダーソンの力量か。
【review】
世間の評価が高くてもどうにも合わないという表現者がいる。私の場合、そんな映画人の1人がロバート・アルトマンなのだが、調べるとアンダーソン監督は大のアルトマンファンなのだという。納得。
これはまったく個人的なものだが、問題はギャグのあり方だと思う。保坂和志著『世界を肯定する哲学』の中でもっともひざを打ったのは「ユーモアの感覚が合うかどうかというのは人間関係にとってかなり重要(手元にないため不正確)」というフレーズ。劇中のサンドラーとワトソンも、合うかどうかを探り合っていた。
ハーモニウム、変態兄弟などはまあいいが、トイレで暴れるサンドラーなどをみると、こんなので何かおもしろいのだろうかと思ってしまう。
私は最近のお笑い芸人がみていられない。わかるやつだけに向けられた笑いは、どうにも疎外感ばかりが感じられてしまうのだ。
と思って同じ週、バスター・キートンをみる。こっちはわははと笑った。笑いの普遍性は、今表現者が考えなければならないテーマかも知れない。
とはいえ、ハワイのシーンの古い映画のパロディのような絵づくりなどみるべき点は多。変にひねらず、トッド・ヘインズの『エデンの彼方に』のような直球勝負がみてみたい気もするが、それはお門違いか。
ポール・トーマス・アンダーソン監督 2002アメリカ 95m WOWOWで収録 8月1日
そう、笑いが合うかどうかは重要です。たとえば食べ物の好みが合うかどうか、場合によれば政治的信条より大事かもしれません。
同窓生Mさんの好きなウルトラセブンはじめ、黒澤明、ヒッチコック、ジョン・ウェインなどはいずれも普遍的と思いますが、笑いではありませんね。
普遍的な笑いというと、やはりキートンやチャップリンということになりそうです。キートンなんて生きていればもうすぐ一〇〇歳だった祖父もはははと笑っていました。こうした時代物の笑いはほっとするのも共通点ですが、今の笑いにそれがあまりないことはまた研究に値しそうです。
いつも楽しく読ませてもらっています。
さて、標題の『会わない笑』ですが、
私も保坂氏のフレーズ、ユーモアの感覚が合うかどうかというのは人間関係にとってかなり重要・・・まったくの同感であります。
友情でも、夫婦間でもユーモア感覚の一致が一番大事ではないかと、最近思います。
人と人とが健全に引き付け合う為の媒体がいわゆるユーモア感覚ではないでしょうか。
もしかしたら個人の資質を見極めるのにも、一番分かりやすいところではないでしょうか。アイツは短気だ、頭がいい、性格がいい・・といった判断基準はかなり曖昧ですが
『アイツはギャグが言えるヤツだ』・・と、いうのは、本当に分かりやすい区分け法だと思っています(笑)
普遍的な笑い・・・それは難しいですね。しかしそれは案外と単純なものかもしれませんね。
今後のカロンタン氏の研究に期待します。
『世界を肯定する哲学』、気になって探し出しました。おおざっぱな引用箇所は、「第10章 記憶は<私>のアイデンティティを保証するか」の中の「私は友人と気が合うか合わないかは、結局のところ友人と私の感じるユーモアの質が同じかどうかなのではないかと思っているのだが、」でした。「信じ方」の文脈で出てきます。
これには本当にひざを打ち、いろいろなところでしゃべってもいるのですが、例えばこんなサンプル。
関東FM、J-WAVEをよくきくのですが、ミュージシャンであるパーソナリティの話、というよりギャグ、ユーモアと音楽は、個人的な好みという点で相関しています。
同じ若手でも音楽も好きなくるり、トライセラトップス(両方今は出ていない)あたりの笑いどころは自分と一致しているのですが、音楽的にまったく何も感じないイグザイルとかケミストリー、歳は近そうでもドリームズ・カム・トゥルーのまささん(これも今は出てない)と呼ばれている人は、まったくおもしろくありません。音楽は好きでなくても話はおもしろい、という例はまったくといっていいほどないのです。
これは身の回りでも同じこと。思えば学生の頃、自分のいうことを「冗談7割、嘘2割」といっていたことがありますが、普通人にとってユーモアの質は意外なほど重要に思われます。
それなのにこういった書き言葉では、あまり冗談はいわなくてすむ。その辺も不思議です。
さておき、『世界を肯定する哲学』は本当におもしろい。保坂和志の「3歩進んで2歩下がる」ような文体は、私にとってやけにリアリティがあります。
その通りですね。
でもそれをわざわざ言葉にしてくれる人って、なかったなあ。
何が面白いのか全然理解できない話を、自分だけ笑いながら話されてもちょっと迷惑だったりするのも、そういうことだったのかな。