小林真 ブログ―カロンタンのいない部屋から since 2006

2006年開設の雑記ブログを2022年1月に市議当選でタイトル更新しました。カロンタンは40歳の時に飼い始めたねこです

「17号線を左に折れ」~"house of coward"

2008-04-04 23:38:54 | 週間日記
桜は咲いてもうちにはないので、かわりに
「庭の“ダブルファンタジー”」

3月29日撮影

うっかり更新できず。桜は咲いてもまた1ヶ月遅れ、つまり3月最初の話です。

●3月
3日(月)入稿作業で築地へ。ラーメン共楽~塾でテスト前授業になり早めに戻る
4日(火)再び築地で入稿作業。ラーメンは初めての有楽町はしご~何とか最終で帰還
5日(水)深谷→浅草→群馬→浅草→東京西部→深谷。詳しくは(↓)。食事は、群馬のうどん、三鷹・江ぐち~帰宅後、順延の恒例電話取材~NHKライブビートはゆらゆら帝国。すごい
6日(木)昼は原稿
7日(金)昼からアーセナル:アストンビラ~なんと1年以上ぶりの自宅映画は、フリッツ・ラング『口紅殺人事件』~OB・M君宅にCLの録画を回収に塾~
8日(土)昼は撮影
9日(日)晩は同級生M君宅に

【カウンター08】
ラーメン3/14 他外食1/10 アウェイ飲み1/12 自宅映画1/1 TV海外サッカーは後で整理

書こうと思っていたことはいろいろあるけど、今回のおまけは途中まで書いていた当該週の3月5日水曜のこと。いつものように長文です。

前日は入稿作業に出かけ、仕事は最終電車までに片付いた。近くの席で仕事していた編集者のYさんがよく水曜は取材で群馬だというので、よかったら向こうで待ってて駅から乗せていきますよ、といってたら、じゃあ、こっちから車で行ってもらえますか、ということになった。

翌朝、待ち合わせ場所である浅草に行ったが、うっかりしたら30分遅刻。申し訳なかったが取材の時間には間に合い、お午を名物のうどんで取って取材が始まる。といって、今回は運転がおもな仕事だったので、主役の方々の仕事を見ているだけでよく、春のお寺ののんびりした空気をかいで、人々の話をきいていればそれでよかった。こりゃ楽な仕事だわいと、思いつつ撮影のために残る編集者を残し、主役を浅草に送って行って仕事は終った。深谷~浅草~群馬~浅草~深谷。こんなに車に乗ったのは久しぶりで、昨年5月からのレガシーオブゼルダでは、そういえば高速に乗ったのも初めてだった。
楽といってもすでに200キロ以上も運転していたからさすがに疲れていて、まっすぐ帰ろうと思って巣鴨から17号に乗る。学生の頃は何かとよく走った道で、夕方のラッシュで仕事帰りらしい車の群れに混じって混み始めた一般国道を北に向かう。

しかし、板橋の環七交差点前にふと思った。そう、記憶の中でも好きな方から3本の指に入る、「環七ラーメン」と呼ばれていた「土佐っ子」は内部分裂でなくなったときいたが、その場所はどうなっているのだろう。夕方の解放感もあって、これも伊勢正三作品だな、「17号線を左に折れ」た。

近くにあった、一度だけ間違えて食べた「球磨っ子」という店も、看板はあるが開いていない。少し走って確かここだと思う、20年前には日が沈めばタクシーやら何やらが鈴なりになっていた陸橋を下ったところにあったはずの店はシャッターが閉まったまま。別の店がやってるんじゃないのか、安心したような残念なような感じを抱きながら、ここまで来たんじゃ、もうちょっといってみよう。都内の街はどこも近いじゃないか、と環七内回りを走る。

レスピーギや『カルミナ・ブラーナ』をききながら、目白通りや早稲田通りを過ぎていく。最初に行こうと思ったのは、青梅街道との交差点に近い東高円寺。1年半くらい住んでいた街だが、JRから離れていることもあって大学を出てからはほとんど行っていない。

夜中によく食べたホープ軒本舗をうっかり過ぎ、大学の保険でただだったので風邪をひくと行った、土曜のバザーで家具も買った救世軍ブース記念病院あたりで曲がり、これは接道義務を満たしてなくて建替えはできないだろうなどと、四十を過ぎてからの仕事で知ったことなど考えながら青梅街道に出て、いったん環七に戻って大久保通りを入る。このコースの方がみたい場所をみる順番がいいと思ったのだ。
クリームコロッケ付500円のAランチをよく食べた、名前は忘れたキッチンは建物だけあって看板はない。『ぼっけもん』とか『ハロー! ハリネズミ』とか1冊50円かなんかで借りた貸本屋も同様。そりゃそうだ。25年も経ってんだもんな。
駅から大久保通りまでの坂道は、よく高清水・辛口を買っためがねのおやじさんのいた酒屋とか、ぐい飲みが売っていたりする飲み屋。そして駅から見て右手に斜めの道を入ると、杉並あたりにはまだまだ残る小さな商店街がある。
八百屋とか大理石パネルの風呂屋とか、商店街の店にもお世話になったところは多いが、中でも東高円寺時代を代表するのがとんかつ屋の、そう、Pという店だ。

確か貸間の大家さんの法学部出身の息子さん、この方からは有吉佐和子『青い壷』、渡辺淳一『阿寒に果つ』、大量の「ジュリスト」や「判例集」をもらったりしたが、引っ越して最初においしい店としておそわったのがこの店である。
店のいいとこ満載のP弁当、五時間はさめないんじゃないかと思うような熱いとん汁定食、何を食べてもすばらしい。定食は日替わりでいくつかあったが、看板のとんかつは一度も食べたことがないような気がする。酔っ払って四畳半に泊まっていく愚か者たちにもすこぶる好評で、高校からの友人Iなどは、「おめえにはPをおそわった借りがあるからな」と、十年くらい自分が発見した店に連れて行くたびにいっていたほどだ。なお、確かその後もPに通い続けていたIは、いつしかマスターと話すようになり、ともに麻雀卓を囲んだこともあっという。ほかでも、大学生活終り頃に運送屋のバイトで知り合ったS学会員は、三鷹のアパートに来てS新聞をすすめた時、これは君があのとん汁定食をおしえてくれたのと同じなんだ、と妙に説得力のあるたとえ話をしていたが、それほど求心力のある店だったのだ。
カウンターと、小さなテーブルもあったか、の狭いけれどきれいな店にいるのは、ほぼ大魔人佐々木に似た眼光鋭いマスターただ一人。「とん汁定食お願いします」なんていうと、わずか二秒のクイックモーションで小さな雪平鍋にとん汁を取り分ける、さささっ、しゃしゃしゃっとキャベツを切り分け皿に盛ると、なぜかほんの右手でほんの一つまみを自分の口右側に運び、セットポジションの大魔人がセカンドランナーを見やるように何もない店の天井と壁の継ぎ目あたりに目をやると、頷いているのか首を振っているのかわからないくらいの首の動きをして次の一球、いや一皿に移っていく。
魅力的な飲食店の調理者の誰もがそうであるように、その大魔人マスターの動きはその商品と同じくらいに完璧だった。ほとんどの客は見とれるように自分の皿が運ばれているのを待ち、ため息が出そうな、でもついてる暇なんかない、そういう十分程度を過ごして帰っていく。それは、横浜の、シアトルの一点リード九回のような時間である。真っ直ぐに見えて力一杯バットを振れば必ずその下をくぐり抜けていく、そんな佐々木のフォークと同程度の完璧さを持っていた。

駐車場は見つからない。すぐ帰るつもりでハザードをつけたまま車を駅通りに停めて、斜めの道を入っていく。それはなぜか記憶の中よりずっと狭くなっていた。小学校の頃に知ったに成長してから行ってあまりの小ささに驚くことはよくあり、それは肉体の成長に関係あると単純に思っていたがどうやらそうではないらしい。おそらく記憶の中の認識を変形は時間の仕業であり、たぶんそれは思い出が美化されることと関係していそうだが、それは後でゆっくり考えよう。今はPがどうなっているのか確かめることだ。
斜めの道は実は何本かあって、うっかり最初は間違えて入った約三メートル。果たしてPは、二十年前と同じ建物のままそこにあった。時間は夕闇迫る六時。定食の看板が出ていないところを見るとこれからか。確か夜はやってたはずだ。
暗い店内を確かめると、マウンドにはスポットライトのような明かりがついている。ハマの大魔人は故障に勝てず引退したが、こちら東高円寺の大魔人は現役のようだ。数時間後の九回に備えてのウォーミングアップなのか、カウンターの中で一心不乱に手を動かしている。
ああ、じゃあ、これから定食のメニューを書いてプレイボールなのかも知れないな、ひょっとすると、まだですか、なんてきいたら、ああ、どうぞなんて、入れてくれるかも知れない。そう思ってもうさすがに輝いてはいない二十年前からのガラス越しに大魔人を見やると、稀代のストッパーも気配を感じてか、少しだけ顔を上げたような気がした。

その時私が会ったのは、二十年も前の自分の“臆病”。思い出したのは、今よりずっと意気地がなく、何もいえなかった頃の自分が持っていた“世界の感触”である。マスターがこっちを見た瞬間、なぜだかその頃の臆病が頭をもたげてきて、ああ、と目をそらし、すぐにドアの前を離れハザードのついた車の方に戻った。
いつまでも二十歳そこそこのようでは仕事などしていられないから、その後の二十年で私も少しずつ自分の臆病さにふたをしてきた。同じような場面でも最近知った店なら、すみません、まだですか、なんて、おかげで今ならかんたんにいえるだろう。だけど臆病にふたがしていなかったその頃は、店の人に話しかけることなんとんでもなかったから、東高円寺の大魔人にも「とん汁定食お願いします」とか「ごちそうさまでした」くらいしかいったことはない。
時間によって人は変わることはあるが、それは変わるのではなくふたをしたふたの部分しか見えなくなるだけだと思って、ほかのひとにもよくそういっている。いわく、脳の構造からしてもそうだろう、視床下部、古い脳は変わらないまま新皮質で覆って“人間”になってる。
つまり私の二十歳の頃の臆病は臆病のまま、ツラの皮をかぶっているに過ぎない。そう思い出させてもらっただけで十分じゃないか。ありがとうマスター、とん汁定食は次にしよう。そう思いながら東高円寺を出た。

五日市街道から青梅街道に入り、北裏の交差点を曲がる。向かったのは東高円寺から引っ越して二年間住んだ三鷹。このマンションには法学部のIが、この辺の日立の寮には中学の同級生のKが住んでいたとか思い出しながら、こっちは電車で今も年に数回来ているラーメン屋・江ぐちにたどり着いた。
車は、よく2千円ジンギスカン食べ放題・飲み放題に来た三平ストアの前の駐車場で30分200円。学生の頃はどんなことがあっても有料駐車場なんかには停めなかったな。三平ストアに入ったら、当時はまだ存在すらなかったJ-WAVEピストン西沢がしゃべってる。おしゃれじゃないか三平ストア、でも食べ放題の二階はもうない。
最近休みが多い江ぐちはやってて、学生の頃は食べられなかった皿チャシューも注文。でも、当時のままの店主、通称タクヤには今も必要以外話しかけないままだ。それから、たけのこもやしそばに卵半熟でと注文。学生の頃ならかなりの贅沢メニューだぜ。
ごちそうさん、で、地元では買えない沢乃井・辛口を買いにH酒店に。でも「大辛口」だけで「辛口」がなく、おばちゃんにきかれたのでそう応えると、「ただの辛口」なんてあったかしら。でも、三平にはあったとはいわず、じゃあいいですと出る。臆病時代ならびびって、つい何か買っちゃったかも知れない。
秀島文香をききながら三平ストアで沢乃井・辛口購入で、しかも二本いっぺん。こういう技は学生時代にゃできなかったぜ。地元と同じで袋はいいです。一升瓶二本両手に持って前の駐車場で、若いバイト風に券を渡すと上の方から愛車がががーっと降りてきてご苦労さん若者。さて、奥関東平野に帰ろう。

青梅街道から環八、笹目橋。これは当時もよく通ったコースだ。途中、そういえば前日築地事務所にマウスを忘れてきたので、17号大宮バイパス側コジマで980円バッファローを買う。レジに持っていくと、カードをここに入れると100円券が出るんですよと店員がいうので、お願いします、ほら出るでしょう、ああ、どうも、でもこれ1000円以上って書いてありますよ、これ980円なんですよ、ああ、そうだ、じゃあ、900円にしときますよ、どうもありがとうございます。嬉しい。しかも、このマウス、すごく、ださくていい。白と黒と灰色があったので、よりだささがしみる灰色にした。二十歳そこそこならいざ知らず、最近はこういうのはださい方がかっこよく感じてきたぜ。

三月の初め、17号線を北に向かう。きいていたのはレディオヘッドの新譜。トム・ヨークのつぶやくような声が闇をつんざき、昼に途中別行動になった編集者Yさんから電話がある。
電話を切った時にかかったのは、アルバム中もっとも好きな house of card。今までのレディオヘッドにない、なんかカーティス・メイフィールドみたいなカッティングが気持よく、しかも彼ららしいちょっとずれたストリングスキーボード、ボーカルが乗る、こわれそうでごきげんな曲だ。そう、臆病は「coward」、「17号線を左に折れ」てたどり着けたのは house of coward だったな。
レディオヘッドに出会ったのは大学を出て十年ほどの今から十年ほど前。しかしきっと、学生時代に出会っても気に入っていたと、これは確信がある。

(BGMはそのレディオヘッド、in rainbows)

当該週のティー 3月6日撮


江ぐち。我、臆病につきラーメンは撮るわけにはいかず外から


三鷹~浦和で買い物


今週画像。深谷桜4連発でどうぞ 4月3日撮

唐沢川駅付近


白と黄色の合流


おーい


どひゃあ
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