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原発を容認していたわたしたち

2011年03月30日 | スクラップ




 東日本大震災は被災者ケアや復興財源が長期の課題になっている。先週に続き「時代の風」執筆者につづってもらった。



 

■原発を「許容していた」私--東京大教授・加藤陽子




 3月11日午後2時46分。日本人あるいは日本に住む人々にとって、この時刻に何をしていたかについては、これから何度も問い返され、何度も記憶に再生されることとなろう。


 東京都文京区に住まいのある私は、その時、マンション中庭の草花に水をやっていた。しおれ気味の花々に、数日間水やりを怠ったことをわびつつ水をやっていると、自分の視界が、突然、横に引っ張られる感じがした。これから会議が一つあるのに目まいとは困ったことだと思った数秒後、地震だと気づいた。水道栓を閉め、ころがるように部屋に戻るまで、この間5分。


 それ以来、何をしていれば心が休まるかといえば、中庭で水をやることなのだ。あの時、水やりをしていた自分。依然として生きている自分。その単純な関連を、身体が勝手に何度も確認したがっていたようだ。震度5強とはいえ、ほぼ被害のなかった地域において、こうだ。被災された人々の心と身体を思えば暗たんたる気持ちになる。


 地震と津波の直後には、東京電力福島第1原発の複数の炉が制御不能となった。テレビは、首相官邸、原子力安全・保安院、東電等による記者会見の模様や現場の状況を臨戦態勢で報じていた。映像を見ながら私の頭に浮かんだのは、奇妙にも次に引く大岡昇平の言葉だった。



 「(昭和)十九年に積み出された時、どうせ殺される命なら、どうして戦争をやめさせることにそれをかけられなかったかという反省が頭をかすめた、(中略)この軍隊を自分が許容しているんだから、その前提に立っていうのでなければならない



 「俘虜記」「レイテ戦記」あるいは「花影」で知られた大岡が、自らの戦争体験を語った「戦争」(岩波現代文庫)の一節である。1944年7月、大岡は第14軍の補充要員(暗号手)として門司港からフィリピンへ向けて出発する。


 輸送船に乗せられた時、自分は死ぬという明白な自覚が大岡を貫いた。これまで自分は、軍部のやり方を冷眼視しつつ、戦争に関する知識を蓄積することで自ら慰めてきたが、それらは、死を前にした時、何の役にもたたないとわかった。自ら戦争を防ぐという行動に出なければならなかったのにもかかわらず、自分はそれをしなかった、こう大岡は静かに考える。


 よって、戦争や軍隊について自分が書く時には、自分がそれらを「許容してい」たという、率直な感慨を前提として書かねばならない、と大岡は理解する。その成果が「レイテ戦記」にほかならない。この大岡の自戒は、同時代の歴史を「引き受ける」感覚、軍部の暴走を許容したのは、自分であり国民それ自体なのだという洞察だろう。



 以上の文章の、戦争や軍部という部分を、原子力発電という言葉に読み替えていただければ、私の言わんとすることがご理解いただけるだろう。


 原発を地球温暖化対策の切り札とする考えは、説得的に響いた。また、鉄道等と共に原発は、パッケージ型インフラの海外展開戦略の柱であり、政府の策定にかかる新成長戦略の一環でもあった。生活面でも「オール電化」は、火事とは無縁の安全なものとして語られていた。これらの事実を忘れてはならない。私は「許容していた」。


 敗戦の総括については自力では行えなかった日本。ならば、せめて今回の事故について、同じ過ちを繰りかえしたくはない。
政府に求めたいのは、
 事故発生直後からの記録を完全な形で残し、
 その一次史料を、第三者からなる外部の調査委員会に委ねてほしい
…ということだ。


 公文書管理法は、現在、内閣府の公文書管理委員会において、施行令・各府省文書管理規則等の審議を経て、本年4月から施行予定となっている。


 枝野官房長官は鳩山内閣期、内閣府特命担当大臣として行政刷新の一環としての公文書管理を担当された方である。復興庁を創設するのならば、まさに、震災・事故関係記録の集中保存から入っていただきたい。これが、亡くなった方を忘れない、最も有効な方法だと信ずる。

 

 

 

■「復興」の10年を若者の希望に--精神科医・斎藤環



 東日本大震災から、早くも2週間が過ぎた。

 私の故郷である岩手県も大きな被害を受けた。幼い頃から何度も通った宮古の海岸、陸前高田の砂浜、潮干狩りをした宮城県の気仙沼などに刻まれた津波の爪痕を見るにつけ、胸がつぶれる思いがする。亡くなられた方々のご冥福と、被災された方々が一日も早く日常を取り戻されることを祈りたい。

 大きな災害は、人々の意識にも少なからぬ影響をもたらす。16年前の阪神淡路大震災がそうだった。あの震災の後、私たちは「トラウマ」や「こころのケア」といった言葉に敏感になり、被災して傷ついた心に配慮する作法も定着した。

 いま気がかりなのは、若い世代に今回の震災がどのように受けとめられていくのか、という点である。震災によるダメージは、おそらく就活にも影をおとす。不景気に追い打ちをかけるような災厄の連続に、今この国に生まれた不幸を呪いたくなる若者がいても不思議ではない。

 しかし、と私は考える。最大のピンチの中にすら、チャンスの芽ははらまれているはずだ。もし震災を、社会的な「リセット」と認識できれば、格差社会の苛烈さにおびえて身動きできない若者たちには、動き出す好機たり得るかもしれない。

 思えばバブル崩壊以降、若い世代にとっては、まっとうな希望を持つことがむずかしい時代がながく続いていた。ここしばらく、中高生の意識調査では「これから社会が良くなるとは思えない」「努力は報われるとは限らない」といった、悲観的な回答が大半を占めるのが常だった。いつ晴れるとも知れないニヒリズムの雲が、若者たちの頭上を、薄く広く覆い続けていた。

 震災・津波・原発事故という未曽有の災害によって、日本の産業や経済が受けたダメージははかりしれない。被害総額は20兆円以上とする試算もあり、立ち直りには長い期間を要するだろう。そう、これから私たちはかつてない「どん底」を経験する覚悟を固めた方がよい。

 しかし、私は期待している。この「どん底」の経験が、若い世代にとっては希望でありうることを。

 私たちバブル世代には、無根拠な楽観主義が骨がらみに染みついている。幼児期には高度成長期を、思春期から青年期にかけてはバブル景気を経験したものとして、私たちはいまなお根拠なしに「そのうちなんとかなるだろう」と信じている。

 この種の感性は、思春期においてどういう社会状況を経験したかにかかわっている。その意味で今30代以下の世代の不幸は、思春期において社会の成長発展を実感できなかった点にあるだろう。就職氷河期、全世界同時不況、格差社会のなかで弱者化する若者……。これでは希望を持てというほうがむちゃというものだ。

 そうした意味からも、「どん底」は好機なのだ。

 私はこの状況がずっと続くとも、どんどん悪くなるとも考えていない。政府に初動の不手際はあったにしても、インフラの復旧は、かなり順調に進んでいる。不安の種だった物不足にしても、流通は徐々に健全化しつつある。気がかりな福島の原発事故は、最悪の事態は免れるであろうと楽観できる雰囲気になりつつある。

 そう、これほどの災厄にもかかわらず、日本社会には、それをはね返すだけの基礎体力があるのだ。

 ならば、これからの10年間は、間違いなく復興のディケイドとなるだろう。一度「どん底」を経験した社会が、じわじわと立ち直っていく姿を、私たちは目の当たりにすることになるのだ。ほかならぬ復興の当事者の一人として。

 津波や被災地の映像はもう十分だ。今後メディアは「復興の姿」をこそ報道し続けるべきではないか。人々が力を合わせて立ち直っていく姿は、若い世代にとっては何よりの励ましであり、希望である。リアルな希望を支えるのは、社会がよりよい状態に変わりうることの、具体的なイメージなのだから。

 





毎日新聞 2011年3月26日 東京朝刊

 

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