平和をたずねて:敵を抱きとめた母性/1 米兵と笑う特攻の母
1枚の写真がある。日本人の男女と外国の青年たちが仲良く並んで収まったそれは、どこにでもある記念写真に見える。だがそれが、敗戦後間もない昭和21(1946)年初め、陸軍の特攻基地があった鹿児島県知覧町で撮られたと聞けば、複雑な感慨を抱く人も多いかもしれない。
軍服に身を包んだ青年たちは、残っていた特攻機を破壊し、基地を接収しにやってきた米兵。そして写真の右下隅で大柄な米兵に寄り添うように座ってほほ笑む女性は、死を前にした特攻隊員らを親身に世話し、母親のように慕われた鳥濱トメさん、その人なのだ。
写真は、知覧町の「ホタル館富屋食堂」の2階にあった。トメさんが生前語っていた特攻隊にまつわる物語を後世に伝えるため、孫の明久さん(46)が6年前、戦時中の富屋食堂を復元する形で開いた資料館だ。
出撃前夜に祖国の歌「アリラン」を泣きながら歌った光山文博少尉や、「ホタルになって帰って来る」と言い残して出撃した宮川三郎軍曹……。そんな悲話の数々を、写真やパネル、遺品でたどる1階に、特攻隊員らとにこやかに笑うトメさんの写真がある。それを見て2階に上がると、ほんの数カ月前、階下の特攻隊員たちが命を捨てて倒そうとした「敵」と笑う、戦後のトメさんと出会うことになるのである。
62年前の8月15日、天皇のラジオ放送で日本人の多くは敗戦を知らされた。それは勝者である連合国軍に日本が占領されることを意味した。軍部や報道機関が「鬼畜米英」と敵意をあおり続けたその「鬼」や「畜生」が大挙してやって来る。男は去勢され、女は強姦(ごうかん)されると、全国で避難騒ぎが相次いだ。米軍を苦しめた特攻基地がある知覧の人々の恐怖はことさらで、多くの町民が山に隠れたという。
その年の12月、知覧に進駐してきたのは、米第8海兵隊第1大隊の兵士たち。上陸戦でわが身を盾に真っ先に敵地に乗り込む海兵隊員は、米軍でも最も気が荒いとされる。しかもサイパンや沖縄で、日本軍との血で血を洗う死闘をくぐり抜けてきた男たちだった。
日本の警察権がまったく及ばないこの男たちが町で事件を起こさないようにする。そのために警察が白羽の矢を立てたのが、特攻の母、トメさんだった。死を前にして動揺しがちな特攻隊員らの心をつかんだように、米兵たちのすさんだ心を和ませてほしい、と。
明久さんは言う。
「米兵の宿舎は道向かいの内村旅館。この食堂も米軍に開放してくれと署長に言われ、トメは最初断ったそうです。でも、酔っぱらうと拳銃をぶっ放すような暴れん坊の米兵も、ポケットにお母さんの写真を忍ばせていた。ああ特攻隊員たちもそうだったと。国は違えど、若者たちに何の変わりもないじゃないかとトメは思ったんですね。彼らを戦地に向かわせた偉い人たちを恨むべきで、若者たちを恨むべきではないと」
トメさんは食堂を米兵に開放し、歓迎会を開き、生け花を教え、一緒に料理を作った。英語は分からないが言いたいことは分かると、米兵らの話にうなずきながら耳を傾けた。
「やがて米兵たちはすっかり打ち解け、トメをママ、ママと呼ぶようになったんです。特攻の若者がお母さん、お母さんと慕ったように。2カ月後、基地の接収が終わって知覧を撤収する時、彼らが男泣きしたと、当時15歳だった叔母が日記に書き残していますよ」
警察の狙いは見事に的中したわけだ。
実は米兵を和ませるために、もう一つ警察が用意したものがあった。町にあった2軒の遊郭を性的な慰安施設として開放したのだ。そしてそれは知覧に限ったことではなかった。敗戦後に連合国軍が進駐した日本のいたる所で、警察が業者を主導しながら、飲食娯楽施設と性的慰安施設をセットで米軍に提供していったのである。【福岡賢正】
毎日新聞 2007年8月15日 西部朝刊
平和をたずねて:敵を抱きとめた母性/2 「国体護持」へ国策売春
特攻の母、鳥濱トメさんの孫、明久さん(46)に借りたビデオテープに、気になる部分があった。敗戦後、鹿児島県知覧町で進駐軍と折衝した元知覧警察署長(故人)が、こう語っていたのだ。町にあった2軒の遊郭を米兵の遊ぶ場に提供し、一時間いくら、一晩いくらと決めるよう米側から命令された、と。調べると「鹿児島県警察史」も次のように記していた。
《警察を悩ませたのは、進駐軍側からの慰安婦の要求であった。進駐軍の命令は絶対であり、要求をうけた警察署長や幹部は、管内の貸席業者や接客婦等に説得や勧誘をしなければならなかった》
これが事実なら、米国には従軍慰安婦問題を非難する資格などないことになる。本当だろうか。
実は玉音放送3日後の8月18日、警察を束ねる内務省警保局長から、進駐軍用に慰安施設を整備するよう全国に無電が発せられている。9月4日には内務省保安課長も「米兵ノ不法行為対策資料」と題する通達でこう指示していた。
《進駐決定セル時ハ、附近適当ナル場所ニ慰安所ヲ急設スルコト。慰安所ハ表面連合軍司令部トシテハ公認セザル所ナル如キモ、自衛方法トシテ斯種施設ハ絶対必要ナリ》
進駐軍は公認していないが、こちらから慰安所を作って提供せよというのだ。これを受けて各警察は慰安所の設置や慰安婦確保に奔走したのである。
警察がどうかかわったかを詳述しているのが「神奈川県警察史」だ。それによると空襲で焼けた花街に女性は残っておらず、警察が業者に公務乗車証明書を発給し、疎開先を回って勧誘させた。慰安所の布団や衣装、化粧品、消毒薬などの手配や運搬には、直接警察官が携わっている。
東京では、坂信弥・警視総監の指示で売春業者や飲食店主らが「特殊慰安施設協会」を作って準備に当たった。資金は後に首相となる池田勇人・大蔵省主税局長の指示で日本勧業銀行が用意した。警察と大蔵省がバックの国策事業ゆえ、協会は新聞広告まで出して慰安婦を募っている。
進駐軍慰安所の発案者とされる坂総監は生前、鹿児島県警察部長だった昭和11年に県内の鹿屋海軍航空隊に自ら作らせた慰安所がその原型だったと語っている。ドウス昌代著「敗者の贈物」によると、女性と問題を起こす飛行兵が多かった鹿屋では、慰安所設置後に成績が向上、真珠湾攻撃の練習地にもなった。それゆえ敗戦直後に近衛文麿・国務相から、国体護持のために婦女子対策をと指示された際、「鹿屋方式でいこう」と即断した。国体=天皇制を守るには、軍人や復員兵による進駐軍への事件が起きて日米間に感情的亀裂が生じてはならない。だから国民の進駐軍への敵愾心(てきがいしん)が高まらぬよう、米兵による性的事件を防ぐ防波堤が要る。そういう論理だったという。
米軍を迎えた昭和20年末、知覧の遊郭も女性の数が減っていた。そのため警察と町が協力して女性を集めたが、その中には戦争で夫を失った人も含まれていたらしい。
「ビールが切れたら、米兵に店の外に放り出されたと言っていましたねえ。テーブルを投げつけられたとも。何でも言われるままだったようで……」
昭和20年代後半から赤線廃止の33年まで、知覧の遊郭の女将(おかみ)だったという女性はそう語る。
戦中、遊郭には特攻隊員も通ってきた。裸の自分をさらけ出すそこで、彼らは荒れた。部屋の壁には彼らが刻んだ最後の言葉と、本音をたたきつけたかのような刀傷が多数残っていたという。その部屋で女たちは米兵の相手もさせられた。
敗戦当時その店にいた最後の女性は、3年前に死んでいた。幼くして売られてきて、店で踊りを習い、特攻基地の慰問にも通った。戦後、店から嫁いだが、その後半生が幸せだったか、元女将は語らなかった。
国を挙げた売春作戦で米国人の日本人に対するイメージは「絶滅させるべき残忍な猿」から「従順な芸者ガール」へと一変した。天皇制は国の象徴として残り、今の日米関係の基礎が築かれていく。【福岡賢正】<次回は29日に掲載予定>
毎日新聞 2007年8月22日 西部朝刊
平和をたずねて:敵を抱きとめた母性/3 この子に何の罪もない
敗戦後、鹿児島県知覧町の女性が米兵に強姦され、混血児を産んだ。同町の「ホタル館富屋食堂」には、10歳くらいのその少年が写った写真がある。金髪を隠すためか、ただ1人丸坊主に刈り上げた頭が悲しい。
少年の母親(86)は、今も知覧町にいた。59歳の時にくも膜下出血で倒れ、開頭手術の後遺症で視力を失っていた。白内障が進んで同じく失明した79歳の妹と2人で、木造の古い小さな家で暮らしている。
整理整頓を励行し、使ったものはその都度必ず元の場所に戻す。そうやって頭の中の見取り図通りに家の中を保っているという。
「目が見えないと暮らしていけないだろうと人は言うけど、できるの。失敗したら同じ失敗をしないように自分で考えるから。やかんの湯気でやけどしたら、何でだろうと考える。ああ、口が手前を向いていたからだ。じゃあ次から必ず向こうに向けよう。そんなふうに一つ一つ考えるんよ。大変よ。でも生きなきゃいかんでしょ。目が見えなくても、何でもできるんよ」
小柄で細い体。光を失った目に意思の強さが宿る。
戦争末期、24歳だった彼女は特攻隊の宿舎だった内村旅館で仲居として働き、出撃する隊員を何人も送り出した。その旅館が敗戦後、進駐軍の宿舎に指定され、今度は米兵の世話をすることになった。すきを見ては手を出そうとする米兵をかろうじてかわす日々。だが、用事を頼まれて部屋に行った時、ついに捕まった。
「助けてと叫んでも、誰も助けてくれんの。みんな怖がって逃げていたんよ。何かあったら全部町が責任を持つと言うてたけど、何がね。終わったら屁(へ)のすっかんだがね。警察署長もまるっきり取りあわない。責任は全部私1人に押しつけられたんよ」
昭和20年9月13日に内務省警保局長が出した「連合軍将兵ノ不法行為ニ対シ警察官ノ採ルヘキ態度」と題する見解には、こんなくだりがある。
《拳銃ヲ以テ、威嚇強迫シ万年筆、時計等ノ財物ヲ強取シ、婦女子ニ悪戯ヲナス等ノ事案ヲモ総テ重大ナル不法行為ナリトシテ飽迄之ヲ阻止セントスルハ、却テ事態ヲ拡大紛糾セシムル基トナルヲ以テ、厳ニ慎ムベキ》
中絶する時期を失し、21年暮れ、福岡市に住む義姉の元で出産した。わが子の金色の髪に絶望し、養子に出そうと義姉の知り合いの家の籍に入れた。が、毎日お乳をふくませているうちに気持ちが変わった。
「望んでできた子供じゃないけど、この子には何の罪もない。よし、私が育てよう。そう思ったんよ」
父親を特定するため、子供を連れて福岡の米軍基地に出向いて訴えた。同じように混血の赤ん坊を抱えて途方に暮れている女性が何人も訪ねてきていた。
翌年、金髪の子と一緒でもいいという福岡の炭鉱員と結婚した。ところがその夫の子を宿したころから夫は働かなくなり、ひどい暴力を振るい始める。結局、結婚生活に見切りをつけ、身重の体で実家に帰った。
「私は何にも恥ずかしいことはしとらん。そう自分に言い聞かせて知覧に帰ってきたんよ。でも冷やっこいのよ。みんなの目が」
金髪の子は家の恥と、人が来るたびに長男は押し入れに閉じこめられた。やがて女児が生まれ、3人は実家を追い出される。両親が2人の孫を疎んじたのだ。彼女は生きるために、米兵に乱暴された内村旅館の物置に住みこんで働いた。
「戦争さえなかったら、こんな目にあわなかった」
そう思ってはため息をついた。どん底の暮らしに疲れ果て、急流逆巻く川の縁に子供らの手を引いて立ったことがある。
「母ちゃん、嫌。……母ちゃん、死ぬのは嫌」
つないだ手を必死に握りしめ、か細い声で長男が言った。ハッと我に返った。
「その時誓ったのよ。もう絶対に後ろは振り返らん。この子らと前を向いて生きるって」【福岡賢正】
毎日新聞 2007年8月29日 西部朝刊
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