◇どんな壁でも乗り越えられる、未来を信じて進んでほしい
難病の脊髄性筋萎縮症(せきずいせいきんいしゅくしょう)を持って生まれた堺市の西本有希さん(33)に、残された時間はもう、あまりない。症状が徐々に進み、全身を激しい痛みが襲っている。十分な栄養を取る力も、尽きようとしている。それでも、西本さんは、15年前に初めて会った時と変わらない笑顔を浮かべて話した。「障害があることを、不幸とも悲しいとも思わない。今まで生きることができて、幸せだった。支えてくれたたくさんの人に感謝したい」。私は、彼女のことを、どうしても書き留めたいと思った。
何度も壁に突き当たった。障害を理由に普通小学校入学を拒まれた。小学3年でようやく編入し、車椅子で養護学級と普通学級を行き来した。中学の後半と高校は普通学校に通ったが、高校卒業時に、進学を希望した短大などから、受け入れ設備の不足を理由に願書の提出を拒否された。
大阪府河内長野市に開校を予定した障害者のための職業教育学校にも出願した。しかし、学校はずさんな計画のため、開校できない事態に陥った。西本さんとは、この問題の取材の際に知り合った。「これから先のことは何も決まってないんです」。開校延期を知らせる手紙に戸惑いながらも、笑顔を絶やさないのが印象的だった。
手を差し伸べてくれる人も多かった。高校にはエレベーターがなかったが、通りかかった生徒が車椅子を抱えて一緒に階段を上り下りしてくれた。スキーの修学旅行にも教師らの尽力で参加でき、初めて見る雪景色に感動して、ゲレンデで涙を流した。短大が出願を拒んだ際には、高校の同級生が署名を集めて文部省(当時)に指導を求める要望書を提出。短大は次年度以降、障害者の受け入れに前向きになった。
自宅で過ごしていた20歳の春。往診の主治医に体を触られるなどのセクハラを受けた。誰にも相談できずに5カ月耐えた後、多量の睡眠薬を飲んで自殺を図った。
命は取りとめたが、その後は眠りに入る際に呼吸障害を起こすようになり、睡眠薬なしでは寝付けなくなった。事情を家族に打ち明け、「次の被害者を出さないために」と損害賠償を求めて提訴したが、医師はセクハラを否定。友人や弁護士の支援を背に、勇気を振り絞って自ら証言台に立った。7年後、控訴審でもセクハラは認定され、勝訴が確定した。
× × ×
裁判を終え、前を向いて生きようとした西本さんが見つけた仕事は、電話専門の「占師」だった。知人の紹介で知り合った占師の話を聞いて関心を持ち、カウンセリングの本を読んで勉強した。専門の事務所に所属し、自宅のベッドに横たわりながら受話器を取る。恋や仕事、人間関係の相談に乗り、少しアドバイスする。本名も障害を持つことも伏せた。障害への気遣いを受けることもない。悩みをぶつけられると、救われる思いがした。
「ずっと周りに支えられてきたけど、今は顔も知らない誰かを支えることができている」。生まれて初めて感じる充実感。「みんな、悩みを抱えながら生きている。自分も頑張ろう」。そう思えた。
しかし、病魔は西本さんをとらえて離していなかった。昨年から、入退院を繰り返した。食べ物をのみ込む力も弱くなった。胃に栄養を送るチューブを入れたが、その胃腸の力も弱まり、わずかしか摂取できなくなった。静脈に直接、送る治療を断続的に受けるが、細菌が入って感染症を起こし、危険な状態に陥ったこともあった。
昨夏からの入院は6度目に及ぶ。痛みが激しさを増し、強い鎮痛剤や麻酔で切り抜ける日が続いている。
連絡を受け、西本さんと病室で再会した。時折、電話やメールでのやりとりをしていたが、会うのは10年ぶり。衰弱ぶりに胸をつかれ、言葉に詰まりそうになった。
「死ぬことは怖くない。怒りも悔しさもない。かわいそうだとは思わないで」。弱っていく体とは逆に言葉は力強く、「私が死んだ後、いつまでも泣いていないかが、気がかり」と母親を思いやりさえした。幼いころから「長生きはできないだろう」と言われ、時間をかけて心の中で受け入れてきたように思えた。
今、一番言いたいことを尋ねると、「世界中の人に」と静かに話し始めた。「乗り越えようとする気持ちさえあれば、どんな壁でも乗り越えられる。つらくて、悲しくて、自分が不幸だと思っている人も、いつかきっと幸せになれるはず。時には立ち止まってもいいから、未来を信じて進んでほしい」
◇命の重さを受け取って
高校を卒業する際、西本さんは、進学や就職など次の進路を探したが、どの道も門を閉ざしていた。首より上と両手の指先しか自由に動かせず、自立して生きるために手助けを必要とする彼女に社会は何の力にもならなかった。
私も、親元を離れてボランティアと暮らす障害者を紹介し、道を探す手助けをしようとしたが、役には立てず、無力感を感じた。その後、西本さんの前には次々に高い壁が現れたが、笑顔で周りを味方につけ自力で乗り越えてきた。だが、その笑顔も自らの命だけは救えそうにない。今、医学の進歩が何とか命を保たせている。彼女を産んで以来、病との厳しい闘いを見守り続けてきた母親は「もうこれ以上、有希に『頑張れ』とは言えないんです」と話す。
西本さんを知ることで、一人でも多くの人に命の重さを感じ、生きることを真剣に考えてほしい。そうすることで、彼女が生きてきたことに意味を持たせたい。知り合った15年前より、ずっと強い無力感を感じながら、私はそう思う。
毎日新聞 2007年9月26日 大阪朝刊
難病の脊髄性筋萎縮症(せきずいせいきんいしゅくしょう)を持って生まれた堺市の西本有希さん(33)に、残された時間はもう、あまりない。症状が徐々に進み、全身を激しい痛みが襲っている。十分な栄養を取る力も、尽きようとしている。それでも、西本さんは、15年前に初めて会った時と変わらない笑顔を浮かべて話した。「障害があることを、不幸とも悲しいとも思わない。今まで生きることができて、幸せだった。支えてくれたたくさんの人に感謝したい」。私は、彼女のことを、どうしても書き留めたいと思った。
何度も壁に突き当たった。障害を理由に普通小学校入学を拒まれた。小学3年でようやく編入し、車椅子で養護学級と普通学級を行き来した。中学の後半と高校は普通学校に通ったが、高校卒業時に、進学を希望した短大などから、受け入れ設備の不足を理由に願書の提出を拒否された。
大阪府河内長野市に開校を予定した障害者のための職業教育学校にも出願した。しかし、学校はずさんな計画のため、開校できない事態に陥った。西本さんとは、この問題の取材の際に知り合った。「これから先のことは何も決まってないんです」。開校延期を知らせる手紙に戸惑いながらも、笑顔を絶やさないのが印象的だった。
手を差し伸べてくれる人も多かった。高校にはエレベーターがなかったが、通りかかった生徒が車椅子を抱えて一緒に階段を上り下りしてくれた。スキーの修学旅行にも教師らの尽力で参加でき、初めて見る雪景色に感動して、ゲレンデで涙を流した。短大が出願を拒んだ際には、高校の同級生が署名を集めて文部省(当時)に指導を求める要望書を提出。短大は次年度以降、障害者の受け入れに前向きになった。
自宅で過ごしていた20歳の春。往診の主治医に体を触られるなどのセクハラを受けた。誰にも相談できずに5カ月耐えた後、多量の睡眠薬を飲んで自殺を図った。
命は取りとめたが、その後は眠りに入る際に呼吸障害を起こすようになり、睡眠薬なしでは寝付けなくなった。事情を家族に打ち明け、「次の被害者を出さないために」と損害賠償を求めて提訴したが、医師はセクハラを否定。友人や弁護士の支援を背に、勇気を振り絞って自ら証言台に立った。7年後、控訴審でもセクハラは認定され、勝訴が確定した。
× × ×
裁判を終え、前を向いて生きようとした西本さんが見つけた仕事は、電話専門の「占師」だった。知人の紹介で知り合った占師の話を聞いて関心を持ち、カウンセリングの本を読んで勉強した。専門の事務所に所属し、自宅のベッドに横たわりながら受話器を取る。恋や仕事、人間関係の相談に乗り、少しアドバイスする。本名も障害を持つことも伏せた。障害への気遣いを受けることもない。悩みをぶつけられると、救われる思いがした。
「ずっと周りに支えられてきたけど、今は顔も知らない誰かを支えることができている」。生まれて初めて感じる充実感。「みんな、悩みを抱えながら生きている。自分も頑張ろう」。そう思えた。
しかし、病魔は西本さんをとらえて離していなかった。昨年から、入退院を繰り返した。食べ物をのみ込む力も弱くなった。胃に栄養を送るチューブを入れたが、その胃腸の力も弱まり、わずかしか摂取できなくなった。静脈に直接、送る治療を断続的に受けるが、細菌が入って感染症を起こし、危険な状態に陥ったこともあった。
昨夏からの入院は6度目に及ぶ。痛みが激しさを増し、強い鎮痛剤や麻酔で切り抜ける日が続いている。
連絡を受け、西本さんと病室で再会した。時折、電話やメールでのやりとりをしていたが、会うのは10年ぶり。衰弱ぶりに胸をつかれ、言葉に詰まりそうになった。
「死ぬことは怖くない。怒りも悔しさもない。かわいそうだとは思わないで」。弱っていく体とは逆に言葉は力強く、「私が死んだ後、いつまでも泣いていないかが、気がかり」と母親を思いやりさえした。幼いころから「長生きはできないだろう」と言われ、時間をかけて心の中で受け入れてきたように思えた。
今、一番言いたいことを尋ねると、「世界中の人に」と静かに話し始めた。「乗り越えようとする気持ちさえあれば、どんな壁でも乗り越えられる。つらくて、悲しくて、自分が不幸だと思っている人も、いつかきっと幸せになれるはず。時には立ち止まってもいいから、未来を信じて進んでほしい」
◇命の重さを受け取って
高校を卒業する際、西本さんは、進学や就職など次の進路を探したが、どの道も門を閉ざしていた。首より上と両手の指先しか自由に動かせず、自立して生きるために手助けを必要とする彼女に社会は何の力にもならなかった。
私も、親元を離れてボランティアと暮らす障害者を紹介し、道を探す手助けをしようとしたが、役には立てず、無力感を感じた。その後、西本さんの前には次々に高い壁が現れたが、笑顔で周りを味方につけ自力で乗り越えてきた。だが、その笑顔も自らの命だけは救えそうにない。今、医学の進歩が何とか命を保たせている。彼女を産んで以来、病との厳しい闘いを見守り続けてきた母親は「もうこれ以上、有希に『頑張れ』とは言えないんです」と話す。
西本さんを知ることで、一人でも多くの人に命の重さを感じ、生きることを真剣に考えてほしい。そうすることで、彼女が生きてきたことに意味を持たせたい。知り合った15年前より、ずっと強い無力感を感じながら、私はそう思う。
毎日新聞 2007年9月26日 大阪朝刊
本では語られてないことを知ることができました。
西本さん自身の文章からは笑顔ばかり想像してしまいますが、その笑顔は、とうとてい耐えられないだろう苦痛をこえて、微笑んでらしたものなのですね。
貴い方です。自分の甘い生き方に怒りをかんじます。